恋姫という少女
「……え?」
風鈴のように聞き心地のよい女の声。反応した湖都がゆっくり顔を上げると、そこには一人の女のシルエット。細かい黒髪は背中の半ばに掛かる長さで、宝石のような瞳は、吸い込まれてしまいそうな魔力めいたものが秘められている。大人とも、一方で子供とも呼べない白い肌の顔立ちは、この世に生きる人とは思えないほどに際立っている。
黒いセーラー服を身にまとった彼女。胸元で結う赤いリボンが黒で統一される衣服の中で映える。もんぺの着用が義務づけられているが、彼女はスカートだけを着用していた。
今まで会ったことはない。けれど、鏡の世界で見かけたことはある。
「あなたは……?」
「私は、恋姫よ」
「恋……姫? あの、七夕の短冊の……?」
巷を賑わせる、七夕に絡む噂。『恋姫に告ぐ――、』に続く形で恋の願いを短冊に記すと、その願いを叶えてくれる恋の神様――、それが“恋姫”。
「その恋姫ね。生来の名はとうの昔に捨てたわ。だから恋姫と呼んでくれて結構」
自らをそう名乗った少女。
恋姫伝説の通りであれば、彼女は千年も前に生を受けている。二十世紀に生きるはずがない。けれど、言葉では言い表せない妙な説得力が彼女にはあった。
「私が見ていた夢で、私の身体だった方……ですよね?」
「そうね。夢は私が見せたものだから。あなたは恋を願った。そこで願い叶えるために、羽柴茂と“口づけのまじない”をさせて、彼の過去を夢見させたのよ。彼を知って、素敵な恋に繋がったかしら?」
「どうして、そんなことを?」
「私が七夕の日にどんな仕打ちを受けたかは知っているかしら? 恋姫伝説は耳にしているはずよね」
「ええ、知っています」
「なら、理由は語るまでもないわ」
恋姫はそっけなく答えて、
「私のことはもういいでしょう。さっきも言ったけど、あなたにはこの世界を生きてほしいわ」
「でも! この世界は嫌なものばかりです! 希望なんてありません!」
「そうね。希望がないまま戦争に負けるでしょう。この国は神の国でもない、ただの死にぞこないだから」
「そ、そんなことを言ったら、まずいのでは?」
反戦発言は容赦なく当局に捕えられる。しかし恋姫は悪びれもせず、長い髪を揺らしながら首を横に振り、
「けれど、戦争が終わればいつか希望はあって、希望の中で幸せがあるはずじゃないかしら? 少なくとも“彼”は、あなたに生きることを望んだみたいよ」
「彼……、ですか?」
「ええ」
そう返事をした恋姫が差し出したのは――便箋。湖都は受け取り、おもむろに封を開けた。入っている一枚の手紙を広げ、丁寧に綴られる文面を黙読する。
拝啓 夏空がまぶしく感じられる季節になりました。
はじめまして。羽柴茂と申します。
まず、あなたの唇を、不慮の災難とはいえ奪ってしまったことをお詫びします。忘れてくださいと言ったら無責任は承知ですが、あなたなら素敵な殿方と出会い、私の唇など消し去ってくれることでしょう。
さて、前置きは以上とさせてください。ここ数日、私はあなたの過去を夢で拝見しました。徴兵されては散ってゆく者を思いながら日記を書き、苦悩する姿がとても印象的でした。お国のためなら命が軽んじられる風潮がある中で、あなたの優しさには胸が打たれます。たとえ命が潰えても、生き様が語り継がれるのなら、それは生きていることと同じです。
私もいつ、この命が尽きるかわかりません。先日見かけた者も、今日はこの世にいない、そういう世界です。あなたと顔を合わせたいですが、叶いそうにありません。だから、せめて手紙を残します。あなたがこの手紙を目にしているとき、私はこの世にいないでしょう。そこでほんの些細な願いがございます。どうか夢で知った私の生き様を、どんな形であれ、残していただきたく存じます。
私は恋をしたいと恋姫に願いました。あなたがその相手でよかったと心から思えます。ささやかな恋を叶えてくれた恋姫と、あなたとの出会いに感謝します。幸せな人生でした。
四条湖都さん、ありがとう。
羽柴茂
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