エピローグ

終章《狭間》

 ゆっくりと目を開ける。妙に意識がスッキリとしていた。

 智香は体を起こした。見慣れない風景に、眉根を顰める。

 一面、白。広さも高さも分からない、不思議な世界。無機質な白い空間で、現実感が乏しい。


 奇妙なのは、智香が檻の中にいるということだった。鳥かごのように、上に向かうほどすぼまっていく。

 這いずって、格子を握った。ひんやりとした鉄の感覚が、胸中をひどく不安にさせる。


「お目覚めですか」


 気配も何もなく、いきなり声をかけられる。彼はいつの間にここに現れたのだろう、皆目見当がつかない。


「アダム?」


 ゆっくりと檻に近づいてくる彼は、相変わらず奇抜な恰好をして――いなかった。

 全身、真っ黒だ。ぱりっととした折り目だけがついている、一見何の変哲もないスーツである。片手に、薄いバッグを持っていた。


 そうそれは、喪服だ。


 下弦の月を描く唇に、穏やかな目元。柔らかい笑顔なのに、身に纏う雰囲気が、いつもと違う。

 ざわざわと、胸が騒ぐ。

 ここはどこだ。一体何がどうなっているのだ。


 どうしてアダムがここにいる? そもそもさっきまで、留置所にいたはずなのに。

 彩香を刺した智香は、殺人未遂の疑いで警察に連行された。警察の取り調べ、検察への送検などを慌ただしく受け、あっという間に二週間ほどが経過し、今は拘留の身となっている。


 点呼を終え、消灯・就寝の時間となり、早々と布団に入ったのだ。規則に縛られ、なんの希望も見出すことが出来ない明日を迎えるために。


「お久しぶりです。目覚めるまでのほんの一時の間だけ、私が須藤様をここにお連れしたのです」


 じわりと染みが浮き出るように、檻の前に一脚の椅子が現れた。驚愕している智香をよそに、アダムは何事も無かったかのように腰掛ける。

 バッグを椅子の脇に置くと、長い足を組んで、じっと智香を見下ろした。見たことがないほど冷酷な視線に、思わずゾッとする。


「ここは……どこなの」

「夢と現実の狭間。言ったでしょう、目覚めるまでのほんの一時の間だけ、って。私は獏様に作られた、夢の世界の住人ですから。ここはいわゆる、あなた達が言うあちら側、なんですよ」


 くく、と面白そうに笑う。歪んだ顔には捕食者の色が浮かび、思わず後ずさった。

 瓜二つの別人と説明されたほうが、まだ理解出来そうだ。いつもの彼じゃない。優しいアダムはどこかに消えた。


「大変なことになってしまいましたねえ。地元じゃ大騒ぎになってますよ。大きな病院の息子さんと、美女との結婚式で起きた悲劇! まさかその美しさを妬んで、刺してしまうだなんて。同情の余地は全くございませんねえ」

「……それを言うために私の前に現れたのなら、今すぐ帰って」


 芝居がかった、仰々しい言い方。初めてホームページを訪れた時のムービーを思い出す。あの時のアダムも、舞台俳優のようないで立ちだった。


「ところが、そういう訳にはいかないんですよ。須藤様、あなたにいくら支払いが溜まっているか把握しておりますか?」

「支払いって」


 金なら、智香の口座に大金が入っている。エステに整形に買い物に、高額な支払いはあるものの、資産を凌駕するほどでは無いはずだ。

 智香は声をあげた。彼の言う「支払い」は、そんなものの支払いでは無いはずだ。


「まさか、錠剤の」

「そう。大量に購入されたあの錠剤の支払いです。引き落とされなかったんですよ、あなたの口座から」

「そんな――」


 口がからからに乾いてくる。八桁近かった資産を一瞬で食いつぶしてしまうほどに、あの錠剤を購入していたというのか。

 もちろんだが、警察に連行されてから一錠も口にしていない。最初の三日間は飢えにも似た強烈な感覚に襲われ、気が狂いそうだった。


 暗い留置所の廊下で、化け物の姿を一度だけ見かけた。だが化け物は、智香の様子を観察しているだけだった。

 檻の中にいる智香には手が出せないのだろうか。囚人が外に逃げられない構造が智香の身を守ってるのだとしたら、実に皮肉なことだ。


 アダムは落ち着いた様子で、足元に置いてあったバッグの口を開いた。長い指が取り出したのは、いつぞやに交わした契約書だった。


「コピーですが。どうぞこれ、一緒に朗読しましょうか」


 さっきまでの顔が嘘みたいに、にこやかに檻の中に差し入れてくる。訝しみながら、智香は恐る恐る受け取る。米粒みたいな細かい文字がびっしりと書かれた、裏面の規約を見下ろした。


「それでは、必要な部分だけ抽出して読んでいきましょうか。まずは書き出しから――」


《売主 須藤智香(以下「甲」という。)と買主 獏(以下「乙」という。)とは、甲乙間における以下に定める悪夢及び吉夢(以下「本件物品」)につき、以下のとおり継続的売買取引基本契約を締結する》


《第一条  甲と乙はこの相互間において、本件物件を継続的に売り渡し、買い受ける》


「つまりこの一文で、お互いに悪夢と吉夢の売買を行っていきますよ、ということをうたっているわけです――飛ばして、第四条、第五条にどうぞ」


《第四条 甲乙間の売買において、買い受ける側の精神及び意思と思考を自動的に担保に差し入れるものとする。差し入れた担保は必ずしも法定の手続によらず、一般に適当と認められる方法・時期により売り渡し側において処分できるものとする》


《第五条 甲又は乙に、次にかかげる事由のいずれか一つにでも該当する事由が生じたとき、甲又は乙は、そのすべての債務について、直ちに履行しなければならない。

  一  本契約の一つにでも違反したとき

  二  支払い義務のある取引において、一回でも支払われなかったとき、又は支払停止状態に至ったとき

  三  その他、資産、信用又は支払能力に重大な変更を生じたとき》


 アダムの朗読は淀みなく続く。一体何をする気だろうかと静かにしていた智香は、耳で聞き目で文章を追い、頭の中で理解していくにつれて蒼白になっていった。

 つまりこれらの条文が意味するもの、それは――


「自分の妹を刺した挙句、正当な契約に基づいた取引を怠ったこと。これだけでも、第五条における、二と三に該当するのです。須藤様には、猶予無くただちに金銭を支払う“義務”が生じています。


 更に第四条より、“吉夢を買った”時点で須藤様の精神及び意思と思考は、こちら側に担保として差し入れされた状態です。この担保をいつ、どのように処分しようと、我らの勝手ということになるのですが――お分かり頂けてますかねえ?」


「待って――こんなの聞いてない!」

「今更そんなこと言われても困りますよ。ほら、ここ」


 アダムが持っている契約書を、ひらりと裏に返す。特徴のある筆跡で、須藤智香と書かれていた。桜色の爪が、とんとん、とサインを叩いた。


「だから、言ったじゃないですか。規約は熟読してくださいねって。納得したからサインして、押印までしてくださったのでしょう?」


 智香の体は勝手に震え始めた。現実なのか夢なのか分からないこの空間で、体の奥底が冷え始めている。

 アダムは、バッグから小さな機械を取り出した。スマートフォンくらいの大きさのそれを、智香の前に差し出す。電源が入ると、画面いっぱいにバクゾウ君が現れた。


 智香の精神や意思は、担保として自動的にアダム達に差し出されているという。

 担保――普通は、金銭貸借において使われる用語のはずだ。借金の支払いが出来なくなった場合に、代わりに差し出すものを示している。


 じゃあ、今回の場合はどうだろう? 吉夢の対価を支払えなくなった智香は、智香の精神や意思をアダム達に明け渡さねばならないのだという。

 つまりそれは、どういうことなのか。


 アダムの笑顔が深くなる。画面の中のバクゾウ君は、これまで智香も幾度となく見てきた。ボタンを押せば、踊りだす。踊りだしたその先に、智香のマインドゲージが表示される。


――何かとんでもないことをされてしまう。

 直感が、そう叫んでいた。赤と黄色の危険サインが、頭の中でちかちかと光る。


「ま、待って。払う、払うから」

「どうやって? 既に引き落とし出来ないほど、須藤様の資金は少なくなっているんですよ」

「悪夢を売るから!」


 アダムの口が閉じた。見定めるように細められた目を見て、智香は間髪入れずに訴える。


「い、今は売れないけど――でも、拘留も刑期も終えたら、絶対にアダムの元に行く、だから待って、お願いします」

「もうありませんよ」

「え?」


 智香の必死の懇願も、予想の範疇だったようだ。慣れた様子で、やれやれと首を振る。


「悪夢は、無限に湧いてくるものではないんです。これまでだって、見てきたものを回想してきたじゃないですか。残り全ての悪夢を換金したとしても、支払いには足りません。あなたの中に、もう価値のある悪夢は無くなりました」


 それは、死刑宣告にも等しい言葉だった。半ば哀れみの混じった声音だが、その指はボタンから離れない。


「そんな……待って、やめて、どうなるの、私はどうなるの」

「すぐに分かりますよ」


 太陽のような笑顔。ぴ、と無情な電子音が聞こえ、バクゾウ君が踊りだした。


「や、め」


 踊り狂う。声が枯れるまでやめてと叫んでも、機械は止まらない。


「八十、五」


 ぴこん。はじき出された数字は、思いのほか高い。

 アダムの口の端が、歪んだ。


「須藤智香様。支払い能力に重大な変更が生じたことにより、直ちにあなたの精神と意思を、処分させて頂きます」

「あ――」


 ぴ、と続く電子音。智香が見ている目の前で、マインドゲージの数値が、一気に減少していった。


「い、いやあああぁ!」


 檻の外に手を出して、アダムの装置を取り上げようとする。手が届くはずもなく、面白そうに智香の様子を眺めていた。


「やめ、止めて、やめてえええええぇ!」


 六十七、五十九、五十一


「夫が、息子がいるの、お願い止めて!」


 四十二、三十五、二十八


「ば、化け物が怖いの! お願い、死にたくない!」


 十七、十一、六


「ゼロ」


 アダムの声と、智香の肩を掴む手は、おそらく同時だった。


「あ……」


 檻の中は一人だったはずだ。骨を砕かんとするほどの強い力をもつこれは、智香が一番恐れていたもの。


――つかまぇたぁ


 化け物の声が、頭上から降ってくる。智香は、ゆっくりと頭上に視線を巡らせた。


「ば」


 化け物、なのか、獏、なのか。どちらを言おうとしたのかは、今となってはもう分からない。

 智香の頭は、一飲みにされた。ぱきぱきと骨を割る音と、血肉が潰れる音が響く。美しい肢体が苦しそうにもがき、大きく痙攣する。


 細い腕が、黒い腕から離れようとがむしゃらに叩いていた。でも、化け物にとっては非力なそれでしかない。ごくん、と大きく喉が嚥下すると、次に智香の腕に食らいついた。電気ショックでも流れたように、残った四肢がおかしな動きをしている。


 既に彼女の声帯は食べられている。声にならない絶叫を、全身で表現していた。最後の、その一口まで。


 見慣れた景色を、アダムは無感動に見つめ続けた。

 手元にあった智香との契約書が、溶けるように消えていく。彼女の精神は、壊れて無くなった。


「行きましょうか、獏様」


 食事を終えたアダムの主人は、満足そうに笑った。

 白の世界から、獏が消えた。


 次の獲物が入る檻だけが、ただ一つそこに残っている。

 アダムは空になったその中に向けて、一度だけ手をあげた。


 さようなら、美しかった人。


 誰にも聞こえないその呟きだけを残し、アダムもまた、姿を消した。

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蜂蜜色の毒 餅実ふわ子 @mochi-fuwa

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