92th Chart 不退転のZ
「駄目かッ―――!」
罅が横切る視界の向こう側、丸く切り取られた世界の先に広がった絶望に、ようやく立ち上がることができた永雫が歯噛みする。
つい5秒前に、『綾風』の艦尾発射基から射出された対潜噴進弾の内、3発がこちらにT字を描いた敵二番艦に直撃した。艦首から艦尾迄を凡そ等間隔になるように着弾した3発の噴進弾は、弾頭に備えた炸薬を起爆させる。膨れ上がった3つの爆炎が1つに混ざり合い敵艦の背甲を嘗め尽くし、黒っぽいチリの様なものを無数に弾き飛ばすがそこまでだった。
赤から黒に変わった煙が盛り上がり、彼方此方が焼け焦げた敵2番艦がゆらりと姿を現す。無数の小口径砲弾の弾着と対潜噴進弾にさらされた背甲は黒く染まり、焼けただれた様に見えるが、前後に備えた2基の主砲塔は相変わらずこちらを睨み続けていた。
既に魚雷を1本喰らっているはずだが、微かに傾斜しているだけで沈む気配も行き脚が衰える気配もない。
人類側の艦艇とは異なり、海神は喫水線化の被弾による傾斜への復元能力が高い。外骨格の中に収められた筋繊維の比重が、水よりもわずかに軽いからだ。
金属製の箱を浮かべるのが人類側の艦艇であるならば、海神は金属製の箱の中に幾らかの浮力材を充填しているのに等しい。致命傷に至らない損傷に対する抗堪性という点では、人類は海神に遠く及ばなかった。
「ちぃっ――機関部!まだ治らんか!」
『こちら機関部。後5分、いえ2分下さい!』
焦燥にかられ伝声管に怒鳴りつけるが、返ってきたのは無情な結論だった。
魚雷は撃ち尽くし、主砲は全てが爆砕され、対潜噴進弾も再装填しなければ使えない。頼みの綱の俊足も失った。後に残ったのは3000トンと言う駆逐艦としては大柄な図体だけ、12インチ砲の直撃をもう1発でも受ければ瞬時に引き裂かれてしまうことは目に見えている。
――万事休す。
頭の中を最悪の4文字が通り過ぎていき、腕から力が抜ける。損傷によるフィードバックで未だに鈍痛を放つ両腕がだらりと下がり、目に当てていた双眼鏡もはずれ視界が広がる。
砕けた防弾ガラスと歪んだ窓枠。大小の破片が広がった中央甲板に、拉げた魚雷発射管。天を向いて沈黙する40㎜連装機銃。もはやフレームだけとなった端艇とデリック。
勇猛果敢、満身創痍。『綾風』が所属する二水戦を揶揄する言葉が不意に浮かぶ。まさか、技術屋である自分がこの言葉を体験する事になるとは夢にも思わなかった。
無残な姿になった娘から目をそらすように振り返ると、甲板に負けず劣らずズタズタになった航海艦橋が視界に入る。全てのガラスが割れ砕け、吹き曝しとなった艦橋に詰める乗員に無傷な物は一人もいない。
誰もが大なり小なり負傷し、血を流し顔をゆがめている。彼らに比較してしまえば、自分の負傷は負傷と言えないだろう。
いや負傷の度合いは、1分もたたないうちに意味をなさなくなるか。
視線は、気がつけば艦橋の中央に仁王立ちする青年艦長へと向けられていた。純白だった制服は、煤と血で見る影もない。特に、聞き手の袖口は真っ赤に染まり、袖章も判別不能になってしまっている。
何かを待つように瞑目していた青年は、自身を見つめる視線に気が付いたのか緩慢な動作で瞼を空けた。切れ長の目の中で柘榴石が動き、窓際に立った副長を視界にとらえる。
対して、永雫は反射的に顔を伏せてしまった。
『綾風』は確かに結果を残した。だが、今ここに至り全てを失おうとしている。責任の一端は自分にもあるのだ。
【不必要】と判断し、搭載を断念した装備が頭を過っていく。
もし、魚雷の自発装填装置を積んでいれば。もし、電子妨害に対する対抗手段をもっと搭載していれば。もし、対潜噴進弾の即応弾庫を拡大していれば。もし、機関部の防御にもっと重量を割いていれば。―――『綾風』がここまで危機に陥ることはなかっただろう。
今となっては詮無きIfが、往生際悪く噴き出しては消えていく。
「さて、ここまでだな」
ボヤキの様な宣言に、ドキリと心臓が跳ねた。
艦橋に居る誰もが、中央に立つ青年へ向き直る。無数の瞳が、艦長へと注がれているだろう。なおも俯こうとする自分を蹴飛ばし、義務感に突き動かされるように顔を上げる。目の前に並ぶ乗員を、有瀬はほんの少し誇らしげに眺めていた。
強かに打ち付けた背中より、胸が張り裂けるほど痛い。何かを言いかけるが、半分ほど空いた口から息すらも漏れてこない。いったい自分は、目の前の男に何といえばいいのか、何と詫びればよいのか。
「まずは――――諸君、よくやってくれた」
やめろ。やめてくれ。その先を言わないでくれ。
私は貴様をこんなドン詰まりに立たせるために、この娘を描いたわけではない。貴様や乗員が、こんなところで沈む結末を迎えていいはずがない。
何か手は無いのか、何か――
「非常に残念だが――――美味い所は主催者にくれてやろう」
場違いなほどの諧謔味が含まれた言葉に、思わずあっけにとられた瞬間。後方から閃光が走り砲声が轟いた。
ペトロパブロフスク級のモノでは無い。《連合王国》、王立海軍の長砲身12インチ連装砲の咆哮だ。思わず、近くの窓から身を乗り出し後方を見渡した途端、今にも止めを刺そうとしていた敵艦の前後に、爆炎が踊る。
「なんとか――――逃がさずに済みましたか」
「命中!」の歓声を聞きながら『サー・ベディヴィエール』副長、アンドリュー・パッカー少佐は額の汗をぬぐった。
東進する『サー・ベディヴィエール』の左舷側には、炎上するペトロパブロフスク級の姿があった。煙幕を利用して忍び寄り、1800mの至近距離からの全門斉射。吐き出された4発の砲弾は僅かな距離を飛翔し、背甲の前後に2発が命中した。
後部に命中した1発は、後部主砲と上部構造物の間に命中し炸裂。旋回器官にダメージを負わせ、主砲塔を旋回不能に陥らせた。そして、前部に飛び込んだ1発は『サー・ベディヴィエール』に向けて旋回を始めていた1番砲塔の右側面に真面に命中した。
通常、砲塔の前部を占める防盾は特に分厚い装甲が施され、砲塔の後部もカウンターウェイト代わりの装甲が位置していることが多い。しかし、その代わりに天板と側面の装甲は限定されていた。
そこに、これまで散々甚振られた円卓の騎士の報復が突き刺さる。音を置き去りにした386㎏の砲弾は、いともたやすく側面装甲を食い破り砲塔内部で炸裂した。これまで『綾風』の猛射をよく耐えていた砲塔だが、流石に内部で主砲弾の炸裂が起きればたまったものではない。穿たれた破孔から爆炎が噴出したかと思うと、装甲の継ぎ目が破断し、内から膨れ上がった火炎に押されるように大小の破片を飛び散らせる。衝撃波が大気を震わせ、煙幕を揺るがし、赤い光が白い空を彩った。
「副長、砲撃続行しますか?」
「無論。周囲への警戒を怠った艦の末路を、十分に理解していただきましょう」
冷静沈着なパッカーらしくない苛烈な指示に一瞬目を丸くするが、やられっぱなしが性に合わないのは乗員も同じだった。『サー・ベディヴィエール』の使用可能な火器が、舷側を朱で染め上げる様に咆哮する。
「先に逃げていたもう1隻の同型は確認できません。退却に成功したか、あるいは」
「沈みましたね。周囲の警戒を厳にしてください」
ある意味希望的観測と言える見張りの報告に、即座に是であると断言する。何か根拠があるのかと問いかけた分隊士に、パッカーは目に押し当てていた高倍率の双眼鏡を手渡しながら、ズレた帽子を直した。
「敵艦の向こうに居る味方艦をよく見てください。何とも、奇妙な艦だと思いませんか?」
「あれは…………『アヤカゼ』ですね。にしても、酷い。マストが丸々吹っ飛んでるじゃないですか。しかし、なぜ?」
「解りませんか」と苦笑しつつ、突き返された双眼鏡を受け取る。主砲の業火による閃光の照り返しを受ける青年の顔には、すこし誇らしげな微笑が浮かんでいた。
「狂犬と呼ばれる艦長とその乗員が、
大げさに肩を竦めるパッカーに、「それもそうですな」と分隊士も苦笑する。直後放たれた第4斉射は敵艦の中枢区画を貫いた。それが決定打となり、もはや炎上する海上浮遊物となってヨタヨタと逃走を始めていた海神は、2つに折れて轟沈してしまった。
先ほどまで『綾風』を痛めつけていた海神が、巨大な渦を作りながら海へと飲まれていく光景を眺めていると、機関部から『応急修理完了、本艦発揮可能速度、30kt』、応急修理班から『2番砲塔、鎮火の見込み』という喜ばしい報告が届く。待ち望んだ吉報に、誰の目にも安堵が広がった。
流石の有瀬も、少し息を吐いて額の血を拭う。
とにかく、『綾風』は漂流と延焼による爆沈と言う運命からは逃れられそうだった。出来ることならば、副長に指揮をぶん投げて艦長室で一服したいところだが、そうも言ってられない。鉄火を以て殴り合う熱戦は終わったと言って良いが、だからと言って港に舳先を向けられるわけではない。
ある意味、もっと難しい役割が『綾風』には残っている。息を整える様に深呼吸し、全艦へ言葉を繋いだ。
「艦長の有瀬だ。本艦は現状、戦闘能力を喪失したと判断する。よって、これより戦闘海域より一時離脱を行う」
安堵と躊躇い交じりの視線が自分へと突き刺さる。だが駆逐艦の役割は、何も真っ先に鉄火場に飛び込んで暴れまわるだけではない。駆逐艦乗りの多くが、自らを「車曳き」と称する所以だった。
「しかし、軍港までは戻らない。本艦は煙幕の外に出た後、視界の回復を待って溺者救助に当たる。無論、道中漂流者を発見しても救助する。手すきの者は甲板で溺者捜索に当たれ。また、端艇は破壊されているため救命筏を使用する。水雷科と砲術科から救助班を選抜し、後甲板にて待機せよ」
「了解」と帰ってくる返答を聞きながら、艦を西へ回頭させる。ペトロパブロフスク級に蹂躙された水雷戦隊の生き残りが居ればいいが、彼らの幸運を祈る他ない。
足元に落ちていた海図を拾い上げる。血や煤がつき、彼方此方破れてしまっているが彼我の位置を思い出すにはそれで十分だった。
仮に『綾風』が突入する直前の行動を各艦隊が取り続けていたとすれば、敵味方の本隊は同航戦を行いながら北進しているはずだ。このまま西へ進めば元々本隊が戦っていた海域に出る。『サー・ベディヴィエール』の仲間がまだ波間を漂っている可能性が高い。
そして、7隻のケーニヒ級戦艦は北進した本隊の南側をすり抜け西への進撃を再開している事だろう。ビーティー提督率いる第1巡洋戦艦戦隊の4隻のインフレキシブル級巡戦が追撃を仕掛けているが、喫水の格下キラーが純粋なド級戦艦相手にどこまで通用するだろうか。この新型艦の撃破には本隊の先頭を進む
対して『綾風』が要る海域では戦闘は集結に向かいつつある。異常拡大した煙幕のお陰で至近距離の乱戦が続発しており、双方に大損害が出ているようだ。演者は次々と深淵へと消え、周囲を満たしていた砲撃の重奏は既に止んでしまっている。
後に残るのは『綾風』の機関音と打ち寄せる波の音。先ほどまでの熱戦とは打って変わって、不気味なほどの静けさだった。世界が死んでしまったかの様な感覚にとらわれたからか、息を吹き返したガスタービンの鼓動が一層頼もしく感じられる。
幸いにも、助太刀してくれた『サー・ベディヴィエール』に謝意とこれからの行動予定を告げると、彼の艦は『綾風』の護衛を申し出てくれた。艦隊から逸れ、満身創痍の身としてはありがたい。もっとも、パッカーも善意だけと言うわけではないだろうが。
『サー・ベディヴィエール』を引き連れ、10ktの低速で航行を開始する。こちらの航跡を道しるべとするかのように後方を進む、傷だらけの巨艦が跳ね上げる艦首波を艦橋のウィングから眺めていると、納得いかなそうな副長の声が掛けられた。
「有瀬、何故あの艦が直ぐ近くにいると解ったんだ?」
「音だよ」
「音?―――――――――ああ、なるほど。その手があったか」
答えになって無い様な答えではあったが、彼女は即座に自分の言わんとすることを理解し大きなため息を吐いた。完全に失念していたらしい。
あの時『綾風』は機関を停止していたが、それによって元々高性能なパッシブソナーは、より広範囲の音を拾える条件を整えることができた。有瀬は敵海神の背後に忍び寄る聞き覚えのある推進音を探知し、探針音によるモールスすら送っていた。味方の戦艦がモールスを聞き取ったのか、はたまた敵2番艦は前から付け狙っていた――だとするならば、既に損傷を受けていた筋も通る――艦だったのかは定かでは無いが、『綾風』に気を取られた敵艦は接近を許し、至近距離からの猛射に沈んだ。
「今こうして護衛を言い出してきたのも、『綾風』の耳を当てにしての事か」
「だと思う。パッカーは、君を高く買っている将校の一人だからな」
「ふん、そうか」とぶっきらぼうな返答が返ってくるか、認められて悪い気はしないのか口元は微かに緩んでいる。
「この戦、どうなると思う?」
「んんん、目隠しをされて戦っているものだからな。正直わからんが、決着は直につくだろう」
「何を根拠に」
「勘」
論理の欠片もない答えが返ってきてがっくりと肩を落とす永雫。ついさっきまで、崩れ落ちそうな表情をしていたとは思えない。内心でどうなっているかまでは読み取れないが、少なくとも将校として見栄を張れている。この先もうしばらく背中を預けるのに、何の不満もなかった。
艦首の先に広がる海に顔を向ければ、遠くの方の波間に何かが見え隠れしている。
窮地を切り抜け、こうして他愛のない会話を交わす贅沢をもう少し味わっていたかったが、それはもう少し後に取っておくとしよう。仕事の時間だ。
倒壊したマストの頂上付近までよじ登った見張り員が、張りつめた声を上げた。
「左舷10度、1500に漂流者!」
「聴音、敵は居るか?」
「接近する音源ありません!」
「両舷停止!『サー・ベディヴィエール』に発光信号!【生存者発見。我、救助活動開始セントス】、送れ」
機関音が緩やかに消えていき前方に漂流者を認めた『綾風』が、海面を泡立たせながら減速を始める。音響探知で周囲に敵が居ない事は確認済みだが、一刻を争う事に変わりはない。
「『サー・ベディヴィエール』より信号!【了解。我、援護ス】以上です!」
「感謝すると返答。救命艇、下ろし方用意!」
作戦行動中の戦闘艦は、常に結果を要求される。刀折れ矢尽きれども、戦果拡大の機が有るのならば逃してはならない。
こうして救い上げる命も、『綾風』の戦果に他ならなかった。
『綾風』の舷側から救命艇が滑り降りる。丸い舳先の向かう先には、必死の形相でうねりの中を泳ぐ生存者の姿が見え隠れしていた。
『綾風』と『サー・ベディヴィエール』が救助活動を始めるころ、遥か西の海域ではこの会戦における最後の戦闘の幕が上がろうとしていた。
西へ西へと進む7隻のケーニヒ級戦艦の後方に、盛大な水飛沫が吹き上がる。最後尾の海神が首を巡らせれば、白い靄の様になった戦闘海域を背景に4隻の巨艦が、主砲を振りかざし単縦陣で突撃を仕掛けてきている。
その光景は即座に群れの旗艦を務める先頭の海神へと伝えられ、ややあって1番艦から順に右90度回頭を始める。追撃する人類側の戦艦に対し7隻でT字を描く格好だ。
「提督、敵にT字を描かれます。その上、敵は我々の約二倍です」
「砲力はザっと36門対70門、砲の口径は向こうが上。T字の不利を加味すれば、その差は24門対70門に広がるな」
砲術参謀の言葉にビーティーが大げさに肩を竦めた。しかし、その仕草に込められているのは諦めでも自棄でもなかった。無論、現状は第1巡洋戦艦戦隊の4隻のインフレキシブル級にとって頭数も体制も不利だ。それは、彼も彼の司令部も重々承知している。
しかし、だからと言って手をこまねいていれば、目の前の敵は《連合王国》へと突入する。全力出撃であるだけに、ラウンド・テーブル級を文字通り蹴散らしたこの神を押しとどめられる戦力は、残念ながら祖国には残っていない。
不利を悟りながらも、ビーティーは敵の誘いに乗らねばならない。
不本意ながら各個撃破の好機を敵に与えてしまったわけだが、最新鋭の巡洋戦艦を任された猛将は、逆に奴らこそが獲物だと言わんばかりに好戦的な笑みを浮かべてみせた。
「
前方で回頭を終えたケーニヒ級の単縦陣に、発砲の砲火が次々と閃き。対抗するかのように【
黒褐色の砲煙が撫でていく艦上に突き出したマストには王室海軍旗と共に、時計回りで黄、青、赤、黒の順に色を配置された国際信号旗が翻り、ユトランド海戦の結末を見守ろうとしていた。
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