62th Chart:深海の勅





 誰もが手近な配管や手すり、潜望鏡に取りすがり歯を食いしばった瞬間。艦前方で何かが弾けるような音が響き、軽い衝撃が艦を揺らす。


「右舷前方に着す」


 聴音手が報告を言い切る寸前、『U-109』右舷前方数十mに着水した爆弾が信管を作動させ、その身に秘めていた化学エネルギーを物理的な形で外界へと解き放った。

 百キロを僅かに超える程度の炸薬の爆発でも、衝撃を伝搬するのは大気よりもはるかに比重の大きい海水。潜水艦である『U-109』はその炸裂を直視することはなかったが、至近で形成された衝撃波と言う名の海水の槌に強かに打ち据えられた。


「ぐあっ!? 」

「でっ! 」

「ぬぐっ!? 」


『U-109』の1000トンに満たない艦体が、巨人に蹴飛ばされたかのように激しく振動し照明が明滅する。運の悪い乗員のうち数名が衝撃によって弾き飛ばされ、隔壁や耐圧殻に強かに体を打ち据えて沈黙した。

 強烈な振動に耐え、耐圧殻の絶叫を聞きながら、呑気な航海から一瞬にして地獄へと叩き落とされた乗員たちの頭に無数の疑問が湧き上がる。


 ――これは海神の攻撃なのか?

 ――けど、周りに艦はいなかった

 ――艦長は、何を見たんだ?

 ――《連合王国》の紅茶狂いどもが誤爆でもやらかしたか?


 しかし、彼らにその疑問を見出す贅沢は与えられない。激烈な揺れが収まらないうちに、真の恐怖が始まったのだ。


「前部発射管室浸水! 」

「先任下士官室浸水! 」

「発令所右舷側より浸水! 」


 艦内を縦横に走る海水の配管が爆圧に耐えきれず、噴水の様に、冷たい外界の水を艦内へと噴射し始める。放っておけば歴戦の潜水艦が鋼鉄の棺に早変わりすることは、サブマリナーならば誰もが知る未来であり、絶望だった。青ざめた乗員たちが見る間にずぶぬれになっていき、これが夢では無く現実であるという事実を容赦なく叩き付けていく。


「現在、本艦のダウントリム50度です! 傾斜なおも増大! 」

「現在艦深度63m! 沈降中! 」


 また艦自体の姿勢も、強烈なオーバーハンドブローを食らったボクサーの様に艦首を下にしてうなだれている。強烈な負荷にあちこちから鉄の軋む音が、激痛に苦悶する艦の悲鳴の様に響いていた。

 潜水艦の腹側には海水を注入するフラッド・ホールが開いており、海中でバランスを崩し横転すればもはや浮上の可能性は完全に潰えてしまう。艦の姿勢を失うことは、自らの命運を失うに等しい。


「後部バラストタンクに500リットル移せ! 前舵上げ15! 後ろ下げ10! 両舷前進一杯! バランスを崩すな! 」

「前下げ15! 後ろ下げ10、両舷前進一杯! 」

「500リットル移します! 」

「機関長! トリム読み上げろ! ネガティブ・ブロー開始! 」

「了解! 現在ダウントリム54度――55度――56度――57度――」

「ネガティブ・ブローッ! 」


 最早立っているのも困難な状況の中、ヴェディゲンが発令所で艦の姿勢維持に全力を傾ける。沈みすぎた艦首を水平に戻すため後部のトリムタンクへ海水を送り込み、同時に過剰な潜航を避けるためメインタンク内に圧搾空気を送り込んで海水をある程度排出し、艦の深度を維持しようと試みる。

天井の配管を通り抜ける圧搾空気の、絹を引き裂くような、もしくは列車の汽笛のような高音を聞きながら、艦の前部では次席士官のリュートの指揮で漏水防止作業が開始されていた。


「防水テープを寄越せ! 」

「ディートリヒ! そこだ! 押さえろ! 」

「排水ポンプ作動! 飲み込んだ海水を掻きだすぞ! 」

「角材持ってこい! これっぽっちじゃ足りんぞ! 」

「ミュラー先任! 針金です! 」

「バカ野郎! まずは元栓を閉めろっ! 『U-109』を沈める気かっ! 」


 怒号と命令、角材と工具が飛び交い、各所にねじ込まれていた部材が引き出されると必要な個所へ我先にと運搬され、傷ついた海狼に適切な処置を施していく。千の訓練で会得し、百の実戦で培ってきた技術だ。この程度の混乱で陰りを見せるほど、軟な腕では無かった。


「前部兵員室漏水停止! 」

「よーし、手の空いた奴から先任下士官室へ応援に回れッ! 何かにつかまれば上がっていけるぞ! 」

「ダウントリム、58度――57度――56度――回復始まりました! 」

「現在水深100m!安全潜航深度突破しました! 潜航速度低下中! 」

「大丈夫だ、160mまでは保証書付きさ。怖がるなよハンス」


 日頃の訓練の成果か、それともヴェディゲンのとっさの操艦が功を奏したのか、『U-109』の損傷は意外に軽く、10分もしないうちに漏水は収まり、艦自体も水深145mで水平を取り戻した。





 それから30分後、艦内に散っていた士官や下士官が発令所に集う。誰もが汗と海水に塗れ、短くも濃密な奮闘により興奮と疲労が色濃く残っているようではあったが、全員の顔にはとりあえずの安堵の表情が浮かんでいた。


「各所、損害報告」

「前部発射管室、漏水停止。排水もほぼ完了。戦闘、航行ともに支障なしです」

「下士官室も漏水は大方止まりました。しかし、まだ浸水が残っとります。排水はもう少し浮上しないと不可能です。幸いなことに電池は無事でした」

「発令所も海図がずぶぬれになった以外は目立った損害は無しですが、3人ほど体をぶつけてぶっ倒れてます。カールが頭を打ってちょいと額を切ってますが、衛生兵の見立てでは脳震盪のようですね」

「水測も恐らく問題なし。若干右舷方向の感度が弱い様な気もしますが、ごくわずかです。損害軽微と言えます」


 話を総合すれば、兵員に若干名の損害は有ったものの『U-109』の損害は皆無と言ってよく、戦闘と航海に何ら支障はない。ただし、懸念点が無いわけではなかった。


「通信機はどうなんだ?」

「浮上してみない事には解りませんが、もしかしたらアンテナが損傷している可能性があります。幸い、予備はありますが交換には浮上が必要です」


 どこかげんなりとした通信士が申し訳なさそうに不安要素を口にする。アンテナは艦外に据え付けられているため仕方のない部分もあるが、海中からでは確認のしようがないため歯痒い思いをしていた。


「しかし……《連合王国》の連中ですかね。まさか、爆弾の手土産を送られるとは思いませんでしたよ」


 憤慨したようにリュートが顔を紅潮させる。基本的に陽気な彼だが、母艦と乗員を危険に晒されてもへらへらできるほど事なかれ主義でもなかった。彼と同意見なのか、数人の下士官が同調するようにしきりに頷いている。

 しかし、艦長は彼らの推測を真っ向から否定するように首を振った。


「いや、この攻撃は王立空軍のモノでは無い」

「じゃあ、何処です? 合衆国航空隊ですか? それともまさか、皇国海軍の艦載騎とか? 」


 訝し気なリュートの言葉に、「私も確証は持てんが」と前置きをしてから、つい今しがた現れたの姿を口にする。








 海面に立ち上がった大瀑布が、その存在を誇示するかのように轟音を立てて崩れ去っていく。うねりを縁取る白波が描く海面の不規則な模様を、白い絵の具を無理やり混ぜ込んだかのような同心円状の津波が洗い流しながら広がっていく。それはさながら、海面に見開かれた巨大な目のようにも見えた。


 見る物が息を飲むような光景を見下ろしているのは、たった1つの影。この幻想的な破壊の目を作り出した張本人だった。


 体長の半分程度を占めるのは潰して引き延ばした饅頭のような胴体。そこから接続するのは拳銃の弾頭を縦に割ったような半円形の胸部と小さな四角形の頭。お世辞にもスマートとは言えない体からは、3対6本の鉤爪の生えた細い足が垂れ下がり――しかも、最前部の一対だけ異様に長い――、背甲の隙間から突きだされた一対の羽は、耳障りな羽音とともに高速で震え、無理やり揚力を稼いでいた。

 余人が見れば、10人が10人、この飛行物体を黒光りするコガネムシと表現するだろう。事実、その体はコガネムシの中でもテナガコガネ科によく似た造形を持っていた。


 全長が3m程度もあるという、嫌悪感すら掻き立たせる事実を考慮に入れなければ。


 徐々に薄れていく目の周りを旋回しながら、巨大コガネは余り精度の良くない複眼で海面に浮かんでくるはずの漂流物を捜索する。クローバーリーフと呼ばれる、二つの八の字を90度ずらして重ねた様な飛行経路を飛びながら、感情のこもらない目が白波の立つ海面を撫でていった。

 しかし、『U-109』が沈んでいない以上その破片など浮かびようがない。

 十数度目の旋回を終えた時、これ以上は時間の無駄と判断したのか、巨大なコガネムシは騎首を上げると、騒々しい羽音を響かせながら曇天の空へと身を沈めていった。








「つまりその蟲が、海神の新兵器。いや、海神版の航空騎であると」

「そういう結論になるだろう」


 一同が絶句する中、パイプを磨きつつ落ち着き払ったヴェディゲンの言葉がしみこんでいく。

 心情的にも、常識的にも「何をバカな」と言いたい結論ではあったが、此処に居る者達はその全てが空からの刺客の攻撃を受け、今まさに死線を潜り抜けたのだ。それも、もし艦長が敵を見つけなければ、もし艦長が左に舵を切っていなければ、只では済まなかったであろう死線を。

『U-109』を何度目かの死地から救い上げた男の言に、ただ己の感情と常識のみで反論する愚か者は一人もいなかった。


「んむむ、面倒なことになった。いったん引き返すか? 」

「いや、それよりもこのまま《帝国》へ向かうべきじゃないのか?海神の航空騎が大規模に投入されれば、商船が危ない」

「まてまてまて、まだ上に敵が居るのかもしれんのだぞ?半日ぐらいは大人しくしているべきじゃないのか? 」


 発令所に集まった面々や、話を聞いていた乗員たちが囁き声でこれからの『U-109』の針路に頭を回していく。しかし、恐らく人類で初めて海神の爆撃を生き残ったためか、それともまだアドレナリンが残っているせいか、結論が出そうな雰囲気は微塵もない。

 当然の様に、一人、また一人と、視線が潜望鏡に背を預けてパイプに視線を落として沈黙を保つ艦の主へと集まっていく。そうして、遂に全員の視線が集まって始めて、ヴェディゲンは顔を上げて自分を見つめる乗員たちを見渡し、おもむろに口を開いた。


「《帝国》海軍の艦であるならば、全ての情報を秘匿し故国に持ち帰り情報を独占すべきだろう」


 新たな敵勢力の出現。その攻撃を受け生き延びた『U-109』の経験は万金に値する。潜水艦の天敵となりうる存在の出現の知らせは、《帝国》を揺るがすだろうが、同時に早期の対策を立てる一助となるだろう。


「艦を優先するギルドの主としてならば、このままアンコウの様に息を潜め。まんまとずらかるのを是とするべきだ」


 もっとも安全な策だ。潜水艦は浮上する瞬間は特に無防備になる。いくら海が荒れていても、潜望鏡深度にまで浮上すれば空から発見される確率は飛躍的に高くなり、かといって全てのタンクから海水を吐き出し、一気に浮上した先に待ち構えられていたのでは間抜けすぎる。


「引き返すのも、大いに在りだ。艦の損傷は軽微に見えるが、もしかしたらどこかに重大な損傷を抱えている可能性もある」

「では、艦長はこの3つの中から針路を選ぶおつもりですか?」


 多数決でもするのだろうか?――などとぼんやり考えていたリュートの問いに、「まさか」と淡白な回答が返され、その場にいる誰もが面食らう。


「諸君に今一度問おう。我々は――何者か? 」


 ヴェディゲンの琥珀色の瞳に、ゆらりと焔が灯ったのを誰もが見た。同時に、海水をぶっかけられ、無視してしまえるほど小さくなっていた胸中の火種がパチリと弾けたのを感じ取る。



 我々は――海軍の犬か?




 我々は――――――臆病者か?




 我々は――――――――――――狩られる者か?




 一言ずつ、ヴェディゲンの口から言の葉がこぼれるたび、『U-109』の乗員に灯された火種は大きさを増していき、見る見るうちにその姿を変えていく。あまりの衝撃、想定外の不意打ちに萎び、弱弱しくなってしまっていた心の焔――――闘争心とも呼ぶべきそれは、見る間に業火となって乗員の胸に吹き荒れ始めた。


「諸君、あえて言おう。我々は――――意思を持つ狼だ。たとえ、水面下では《帝国》の意思の元で動きはしても、いつだって最後に戦うと決めて魚雷を放ってきたのは我々の意思だ。そこは、何も変わらない」


 ヴェディゲンに集まる視線は、既に彼と同じような冷たくも強固な熱を帯びている。


「諸君も既に聞き及んでいる事だろう。あの謎めいたメッセージを、海神の群れが観艦式に大規模な襲撃を掛けようとしているという警告を」



 ――故郷を追われた海神達が目指す、謝肉祭カーニバルの会場さ



 人の口には戸が立てられないというのなら、同胞同士の口ならばなおさらだ。あの日、士官食堂でもたらされた話題は、既に全乗員の知るところとなっている。当然のの様に乗員たちの中で、「その噂」と「海神の航空騎」が《連合王国》の海軍基地で見た「龍砦巡洋艦」で結ばれる。

 今までおぼろげな影でしかなかった与太話が急速に輪郭を収束させ、艦長がこれから何を言い出すのかをいち早く察知した一部の乗員は、無自覚に獰猛な笑みを形作り始めていた。

 攻撃を受けども我ら未だに意気軒高――。耳をすませば、そんな合唱が聞こえてきそうだ。自分の言葉が上手く乗員の心をある方向へ整列させつつあることに、ヴェディゲンは目を細め、仕上げへと移っていく。


「問おう。我々はこれまで――右の頬を殴られたらどうしてきた? 」


 すかさず相手の腹に魚雷ウナギをねじ込んできました! ――。発令所の奥、兵員室の方からそんな返答が返ってくる。


「問おう。我々はこれまで――この程度の窮地で反転したことはあったか? 」


 むしろ全速で突っ走って来やしたぜ! ――。発令所の後方、オイルまみれの作業服ぬに身を包んだ機関士達が、スパナや聴診棒を振り上げる


「最後の問いだ。我々はこれまで――獲物の匂いを見過ごしたことはあったか? 」


 何処までも付け狙い食らいついてきました! ――発令所と前後の区画から、艦長の問いを聞いてきた海狼たちが異口同音に宣言する。その言葉に迷いはなく、むしろ、早く命令を下せという圧力すら含まれていた。

 発令所に集った面々を一頻り眺めた後、歴戦の海狼は口の端を微かにゆがめ、ゆっくりと、彼らの思いを噛締めるように頷いた。


「――――――――よろしい」


 決して大きな声ではなかった。重大な決断をするときのような重苦しさは微塵もなかった。それでも、ヴェディゲンの言葉は集った乗員の背筋を正させるのに十分な効力を秘めていた。


「本艦はこれより浮上し、修理を行いつつ引き続き方位0-9-0へ航行、否、する。無論、敵航空騎を含む有力な敵艦隊との交戦が予想されるが、極上の獲物を前に逃げ出すつもりは毛頭ない」


 一端言葉を切り、周囲の反応を伺う。未だに電圧が安定しないのか、時折明滅する白色灯の下、数十の瞳が闇に潜み獲物を狙う捕食者の様にギラつき、誰もが口角を吊り上げ、群れの長の命令を待っていた。


「――『U-109』はこれより、いつもの様に虎口地獄へ向かう。さあ、諸君」


 そこで初めて。ヴェディゲンの顔にも獰猛な肉食獣じみた笑みが浮かんだ。此処では無い何処か、異なる世界の広大な大陸を思うままに蹂躙した狼王ロボの様に、時間の角に住まう猟犬たちの大君主ミゼーアの様に。



 配下の海狼へ、敵を滅ぼせと勅を下す。





「狩りの時間だ」










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