63th Chart:葬列の艦隊
「艦長!潜望鏡深度まで潜航願います!」
日も暮れて満月が中天に輝き銀色の光を降らせている頃合いだった。不意に、『U-109』水測長――エーリヒ・シュミット兵曹の緊張した声が発令所に響く。
彼の声を聞いたヴェディゲンは、艦橋で行われていた長距離通信機の修理を切り上げさせ、一瞬のためらいなく潜航を命じた。
相変わらずうねりの残る――むしろ、若干ではあるが酷くなっているような気配すらある――海面を航行する『U-109』の艦橋から慌ただしく人影が消え去ると、白波の渦を残して灰色の狼は波間へとその姿を沈めていく。後に残ったのは、巨獣の呻き声の様な不気味な音を立てる海と、それを千切れ雲の間から見下ろす満月だけだった。
「現在深度10m、速力2kt」
「トリム水平」
「聴音を行う。両舷停止、全艦無音潜航」
「
「両舷停止、バランスを崩すな」
ヴェディゲンの命令をクレッチマー先任が復唱すれば、無音潜航の指示が出た艦内は即座に静寂へと包まれる。さらにヘッセ機関長が合図を出せば、艦後方で弱弱しく回転していたスクリュープロペラが停止する。推力と騒音原を失った『U-109』は眠りに落ちたクジラの様に、ゆらめく光条となった月の光を受けつつ海中を漂い始めた。
時折艦体が微かに軋む音以外は完全な静寂に包まれる艦内。誰もが、期待と不安を押し隠したまま、互いに顔を見合わせている。
墓穴の様な静謐さに包まれた海狼の腹の中で、唯一能動的な音を発し続けているのは、発令所のすぐ前に設置されたソナー室。正確には、艦首の水中聴音機の聴音方向を調整するハンドルを回す、小さな金属音だ。
両耳に当てたヘッドフォンに片手を添え、もう片方の手で大振りなハンドルを操っていく。金属同士が立てる微かな音とともにハンドルが回れば、シュミット水測長の正面の方位盤にはめ込まれた針が徐々に回転し、今どこからの音を聞いているのかをリアルタイムで示し続ける。
「艦首方位0-0-0、ちょうど真正面。推進音多数、接近中の様に聞こえます」
「ペラか?鰭か?」
「この間延びした音は鰭に違いありません。少々、数は多いですが」
いつの間にかソナー室の隔壁に手をついてシュミットの様子を伺っていたヴェディゲンの問いに、若干引きつった笑みと確信にあふれた答えが返ってきた
「どの程度だ?」
「上下する大小の鰭の音が重なって、馬鹿みたいにデカいスクリューがグロス単位で並んでいるように聞こえますよ。私じゃなけりゃ、
囁くような声だが、静かな艦の中に伝わるには十分な声量だった。敵らしき音源の発見に、誰もがしきりに周囲の戦友を顔を見合わせる。そこに映るのは歓喜と恐れが綯交ぜに成っていた複雑な表情だったが、誰かが漏らした、ビンゴだ――と言う感想に意を唱える者は一人もいなかった。
そして彼らの長であり艦の主は、いつもの様に静かな笑みを浮かべ、闇夜に垂らした釣り竿の感触を確かめるかの様に軽く頷いた。
「艦長、どうします?待ち伏せますか?」
「音源の針路が確定しない以上、それは早計だろう先任」
「じゃあ」と、慎重論を唱える先任の代わりにリュートの目がギラりと輝いた。暗赤色の夜間照明の影響か、あどけなさの残る陽気な青年士官と言うよりも、獲物を前に逸る若狼の様にも見える。
そんな若き狼の期待を歴戦の海狼が裏切ることはなく、我が意を得たり――とヴェディゲンの目も微かに細められる。
「これより本艦は、前方騒音原を【敵艦隊】と判断し触接を試みる。聴音を続けろ。無音潜航解除。機関始動、両舷前進原速、浮上しろ。先任、見張りを増やせ。最初に見つけたヤツには金一封だ、稼いで来い」
「了解、念のため自分も上がります」
「許可する」
発令所へ向けて踵を返した艦長の号令で、再び『U-109』の艦内に活気が戻る。艦後部からモーターの唸り声が響き、天井の配管を圧搾空気が駆け抜けメインタンクが海水を吐き出し、艦全体が傾くと、ゆっくりと浮き上がっていく。
誰もが期待に胸を膨らませ、浮上すると同時に何時もの倍の人数が慌ただしく艦橋へと駆け上がっていく音が行進曲の様に響く。そんな中、通信士――エリック・ハルサー二等水兵はほとんど無意識に不安げな声を吐き出した。
「大艦隊、か――――――――でっ!?」
独り言のつもりで吐き出した声に物理的に答えたのは、この艦における最先任の下士官、ミュラー先任兵曹長の腕だった。何時もの様に自信満々な漁師を思わせる剛腕がしなり、気合を入れる様に軽く――ミュラー基準で――肩を叩く。
「心配すんな、エリック」
「うぇ?せ、先任兵曹長?」
情けない悲鳴を上げた後、背をさすりながら突っ伏した通信機から起き上がった新入りは、先任兵曹長に複雑な顔を向ける。
「艦長、ヤル気ですかね」
「そりゃ、やると決めたからにはやる御仁さ。俺たちも、今までそうやって戦ってきたし、これからもそうやって戦っていく。――――怖いか?」
ミュラーの問いに、反射的に口が
「ぐえっ!」
間髪入れずに、風切り音を残して一発の張り手が背中へと飛んだ。
突然の衝撃に全身の筋肉を強張らせたエリックは、電気ショックでも受けたかのようにびくりと体を跳ね上げる。痛みに顔を引きつらせ、流石に気弱過ぎたかと今更ながらになって思い、次に飛んでくるであろう叱責に身構えた。しかし、耳に届いたのは拍子抜けするほど穏やかな声だった。
「なら、心配は要らんな」
「は、はい?」
怒髪天を衝く叱責では無い。むしろ自分が尋ねるといつも釣りに連れて行ってくれた故郷の叔父を思い起こさせる、柔らかな返答に呆けた様な返事をしてしまう。百戦錬磨の潜水艦乗りにあるまじき反応だが、対面するミュラーは笑みを崩さないどころか、どこか満足げな表情を浮かべていた。
「周りの目を気にして恐れを無視するよりはずっといい。恐怖を無視するのは愚か者、恐怖を感じないのは唯のバカ、恐怖とうまく付き合えるのが良い兵隊さ」
不敵さと優しさ。世の中には混ざりそうにもならない感情が、このように自然に同居することがあるのかと、面食らう頭の片隅で妙な発見をしてしまう。だからだろう、素直にうなずいておけばいいのに、妙な質問を投げかけてしまったのは。
「では、先任兵曹長も怖いのですか?」
エリックの問いに一瞬目を細めた壮年の下士官は、それまでの慈父の様な笑みを崩し、いつもの様な自信に満ち溢れた不敵な顔を作った。いつも見ている、自信満々でおっかない兵隊と下士官の長。しかし、その顔に持つ印象は、つい数分前とはずいぶんと様変わりしてしまったように感じる。
「その怖さを、他人に気取られないのが、良い下士官の条件だ。この先も海軍で飯を食う気なら覚えとけ、
もう一度、バシンと通信士の背中を叩かれ、こちらが悶絶している間に先任兵曹長は呵々大笑しながら発令所の方へと歩き去っていった。
日焼けの後に風呂に突き落とされたときの様なひりひりとした痛みを覚えつつ、自分の仕事場である通信機に目をやれば、つい先ほどまでは無かったみずみずしいオレンジが置かれている。
おそらく、あの先任兵曹長の置き土産だろう。
何と無しに、モノクロに近い艦内の風景にはなじまないビビッドカラーの果実を手に取る。蒸し暑い艦内環境によって、人肌程度に温められたオレンジ。ともすれば、これが自分の最後の晩餐であるかもしれない。
その可能性に行き着いた瞬間、唐突に喉の渇きを覚え、乱暴に皮をむいて果肉に齧り付く。
思っていたよりもずっと酸味の強い果汁が、ミュラーの張り手の様に、「しっかりしろ」と自分に激を飛ばしているように感じられた。
空を覆っていた雲の帳が徐々に引き裂かれるにつれ、その隙間から白銀の光が夜の海へと差し込み始める。月の光に照らされた海は時折その波濤を煌めかせていたが、闇より現れた巨大な質量がウネリを掻き分け盛大な飛沫へと変じさせた。
風によって形作られた海面を、その体躯と出力によって押し広げ進む巨大な影。
それも、一つや二つではない。それぞれが数百mに及ぶ間隔を取って進む影の群れは、優に数十をかぞえた。
不意に影の群れの頭上を覆っていた雲が割け、白銀の光が差し込めば、闇の中から生まれ出でる様に長大な頭部がヌッと明るみへと突き出される。
海面からの高さは軽く30mを超えているだろう。湾曲した長い首の先端に収まっているのは、異形の光学的な観測器官。まるでカメラの望遠レンズの山から無作為に選んだ部品を、方向だけ統一し接着剤で乱雑につなげた様な代物だ。その姿かたちは、敵を滅ぼすための照準器と言うより、シュモクザメの頭部を模した前衛芸術の様に見えてしまう。
首に続いて現れたのは巨大な背部。低い小山の様な背には、甲板の様にも見える平面状の背甲が広がり、その上には前後に2基の連装砲が据えられていた。
影から姿を現した海神――人類側の呼称ではシャルル・マルテル級戦艦『ペパン・ル・ブレフ』と識別される――は、観測機器である頭部をゆらりと周囲へ向けた。直後、自分の左右から、同じように月明かりの元へ艦体をすすめていく僚艦の姿が演算領域へと映し出されていく。
左舷側から現れるのは新顔にも等しい優秀な火力と速力を持つ大型海神――ブリュッヒャー級『ブリュッヒャー』。背部に備えた4基の砲塔を、調子を整えるかのようにゆっくりと旋回させつつある。その後ろに同型のブリュッヒャー級―『フォン・クールラント』『シューレンブルク』『ミュラー』―3隻が続き、一回り小型のサン・ジョルジョ級装甲巡洋艦2隻が続航する。
流石に真っ向から戦艦と殴り合うには厳しいだろうが、23ktを超えるその高速能力は、あの小さきモノ共が従える紛い物を翻弄することができるだろう。
逆に、右舷側へと視線を向ければ、頼もしさよりも畏怖がこみあげてくる光景が広がっている。
右舷側を2列縦隊で進むのは、自分が率いる前世代型の海神とは比べ物にならぬ巨体に、我々の主砲では歯が立たない装甲に身を包んだ新世代の怪物たち。筋骨隆々たる体躯に、自分の保有する砲より長大な巨砲を連装砲塔として5基搭載している。しかも、それらの方は首尾線方向――艦首と艦尾を結ぶ直線――に並べられ、広い範囲に全10門の主砲を指向し、統制された砲撃を見舞うことができる。
また、前後の甲板で隣接する1、2番砲塔及び4、5番砲塔は余分なスペースを局限する為か、艦中央側の砲塔が背負われるように一段高い箇所に据え付けられている。結果的に、艦首から艦尾へかけて、2基の排煙器官を頂点としたなだらかな山の様なラインを描いており、美しさと勇壮さを見るものに感じさせた。
続々と月光の下へと歩みを進めていく新進気鋭の同族を目にしていた『ペパン・ル・ブレフ』は、惨憺たる思いを吐き出すように空を仰いだ。
――本来、彼らは此処にいる必要のない者達だ。
千年ぶりに下った《大命》に従い、任を解かれ故郷である母艦から身を引いた自分たちの様な大型の海神は、この海のバランスを保つため”例外”を除いて生存は許されない。
自らの命を絶つ方法やさまざまであり、ある者は自沈し、或る者は母艦に残る中小型海神に覚悟を見せるべく壮絶な共食いを敢行し、またある者は生きながらにして母艦や他の海神の養分となり、多くが深淵へと還っていった。
自分を含めここに集った大型の海神は、沈む前に仇敵である人類に対し一矢を報いたいと考えた集団だ。明日への希望よりも、過去の怨恨の清算を望んだ遺物に等しい。
付近の海から何かに導かれるかのように集い、こうして轡を並べ、小さきモノが潜む骸へと針路をとっている。
しかし、この深淵への片道切符を手にしたのは自分たちの様な廃棄品だけではなかった。
貴方達では、海中に潜むモノ共を追いかけられないだろう?
――そう言って、30隻ばかりの護衛級の海神が艦隊の前後左右へと躍り出た。
若造だけでは、小さきモノの水雷戦隊に蹴散らされようさ
――そう言って、10隻ばかりの巡洋艦級の海神が本隊を囲み、護衛級を先導し始めた。
我が新しき力。深淵へと還るには、これを見てからでも遅くはないでしょう?
――そう言って、3隻の新参者が笑いながら追従し始めた。
我々の戦いは此処より始まる。敵の力量を推し量る機会を逃す手はありますまい?
――そう言って、本来ならば例外として廃棄処分を免れるはずの。8隻の新型海神が、「我らこそが本隊」と言わんばかりに中央へと陣取った。
精々30隻弱だった旧式艦の廃棄艦隊は、あれよあれよと言う間に戦艦34隻、装甲巡洋艦14隻、巡洋艦10隻、駆逐艦30隻、新型艦3隻、合計91隻に及ぶ堂々たる大艦隊へとその姿を変えていた。
恐らく、海神の歴史においても、ここまで巨大な艦隊が生まれたことはそうそうないだろう。誰も彼もが共食いを始めず、粛々と
――だが、所詮は生還を前提としない攻撃。彼らの覚悟を踏みにじることになっても、やはりこれ以上葬列に突き合う必要は無いのではないか。
隣を進む、まだ硝煙に塗れていない『ブリュッヒャー』の滑らかな艦体を見ると何度目か分からない、バグの様な思いが鎌首を擡げる。
――我々の様な旧式とは異なり、彼らはこの先もこの母なる海に必要な存在だ。全滅することが前提の道程に加わる必要はないどころか、加わってはいけない。失ってはいけない。
そうやって、デッドロック一歩手前の思考を繰り返していたのが悪かったのか、隣を進む『ブリュッヒャー』が『ペパン・ル・ブレフ』の視線に気が付き、思念波を飛ばしてくる。
【何様か?】
【――――――再び、勧告する。貴様らの同行は合理的ではない。即刻反転せよ】
彼らに対し、無数に送ってきた思念波をこれまでと一字一句同じ様に送りなおす。が、返ってきた波も自分が送ったものと同じように、前回の通信と寸分たがわぬ定型文だった。
【拒否する。我らは我らの意思に従い、貴艦に同行するものなり。上位命令権限により、貴艦の勧告を棄却】
狂気じみた冷徹さで、にべもなく拒否の二文字が突きつけられる。既に廃艦の烙印を押されている自分には、彼の様な正規艦への強制力はもはやない。そこに交渉の余地はなく、自分に与えられている権利は、彼らの決定を粛々と受け入れ、共に死地に進むことだけだった。
再び、月を仰ぐ。
雲の隙間から覗く白銀の衛星。太陽の光を反射し闇夜を照らす星に、完全なロジックにより形成された機械生命体らしくない、とある
――願わくば、我が戦士らに
『ペパン・ル・ブレフ』の記憶領域の奥底に眠っていた、一片の言の葉。その意味も意義も彼の海神にとっては理解できかねるものではあったが、超常の存在に自らをゆだね、思考領域への負荷を軽減するという使用方法だけは辛うじて理解することができていた。
90隻を超す
「全艦、魚雷戦用意」
自らが既に、狡猾な狼の狩場へと迷い込んでいることも知らず。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます