61th Chart:遥か彼方の故郷よ!
ドン、と鈍い音が響くと同時に、滑らかなナイフを思わせる鈍色の艦首に激突したうねりが弾け、白い絵の具をまき散らすように左右へと吹き上がる。うねりの頂上付近を突き抜けた海狼の鼻先は、最も下部に据え付けられた3.4番発射管扉さえも空中にさらしたのち、思い出したように重力に惹かれうねりの谷へと叩き付けられた。
再び衝撃、1000トンに満たない小さな潜水艦ではあるが、吹き曝しの艦橋に佇む者たちからしてみれば、前方両舷側から空へと吹き上がる飛沫のカーテンは圧巻の一言だった。その直後、吹き上がった海水をしこたま被りz部濡れになるのが玉に瑕だが。
「どうだ? 先任」
「風はあまりありませんが、うねりが高くがぶりますね。うねりの方向はちょうど0-9-0です。この分だとティンタジェル海山列付近では、ピクニックはできそうにないですな」
「事前情報通り、か」
『U-109』の艦橋へと昇ってきたヴェディゲンに対し、当直として見張りの指揮を行っていたクレッチマーが帽子に着いた飛沫を払いながら報告する。狭い艦橋を見渡してみれば、4人ばかりの乗員がごつい双眼鏡を手に四方を監視していた。誰も彼もがずぶぬれだ。次の当直に上がるものたちは、分厚い防水コートを持参する必要が在るだろう。
艦橋に上る前にコーヒーを準備しておくように言っておいたのは正解だったな――、と艦内からではわからない外界の様子に小さく息を吐いた。
「現在時刻
「だろうな、さぞ盛大に開かれている事だろう」
出航からここまでの航海は、天候以外は順調そのものと言って良い。整備を終えたディーゼルは機嫌よくピストンの戦慄を奏で、何度修理してもすぐに不調をきたす転輪羅針儀も行儀よく方位を示し続けている。
食料はともかく魚雷の補充はできなかったが、それでもまだ前部の発射管に4本と兵員室に2本の6本が残っている。後部5番発射管にも一応住人はいるが、これは攻撃能力を持たないため除外するほかない。
とはいえ、魚雷戦において使用頻度の高い前部の発射管全てに、攻撃能力のある魚雷が収まっている。一会戦ならば十二分に戦えるだろう。
「ほとんど追い出されたようなものですが、混雑する港を抜ける羽目にならなかったのはラッキーですね」
「港の船にもみくちゃにされずには済んだが、海には揉まれてるな」
「サブマリナーの特別手当の一部は海水払いですからね。随分奮発してもらってますよ」
皮肉気に唇をゆがめるクレッチマーに、違いないと言葉を合わせてパイプに火を付ければ、途端に芳醇な風味が口の中に広がった。《連合王国》で買い込んだ葉のストックはまだまだある。しばらくは、この小さな贅沢も続くことだろう。
空に目を向ければ、相変わらずの曇天。鉛色の油絵具を塗りたくったような空は一向に晴れる気配が無く、正午だというのにあたりは薄暗い。現在進行形で『U-109』を弄んでいる海も、そんな空に感化されたかのように、時折弾ける純白がくすんだ藍色を縁取っているに過ぎない。
全体的にモノトーンな世界を眺めつつ紫煙を燻らせていた時、足元のハッチから聞きなれた音楽が鳴り響いてくる。おそらく、暇を持て余したリュートあたりがラジオのスイッチを入れたのだろう。
耳に届くのは《連合王国》系の港やパブでよく流れる、定番と言って良い旋律だった。
――ある日、大都市に一人の若者がやってきた
「ん? この歌は――」とクレッチマーがほんの少し眉を顰めるのが紫煙の間から垣間見える。
――大通りは輝き、公園は喧騒に包まれている
最初微かな音しか聞こえてこなかった歌は、次第に音量を上げハッキリと歌詞が聞き取れるまでになっている。
何のことはない、暇を持て余した乗員や当直についている乗員の歌声のせいだ。
足元からは発令所の乗員たちの声が湧き上がり、感化されたかのように艦橋で見張りをやっている乗員も双眼鏡から目を離さずに口ずさみ始める。
――そうして皆が皆、大都市を讃えるものだから
自然と合唱が始まりつつある中で、不満そうにする生真面目な先任に、「《連合王国》の歌を歌ったからとて、奴らに感化されるわけでは無いだろう? 」とヴェディゲンが笑いかけパイプから口を放した。
――ついに若者は大いに憤慨し高らかに歌ったのさ
「いえ、単に港で聞きすぎて、もう飽き始めてるんですよ。いい歌ではあるんですがね」そう言って苦笑した先任も、乗り遅れる気は無いのか小さく口ずさみ始め、軽やかなメロディの高まりとともに、男たちの合唱がラジオの音をかき消すほど大きく響き始めた。
――遥かな故郷! 遥か彼方の故郷よ!
――遥かな故郷! 愛しのあの娘が住まう場所!
――さようなら! 煌びやかな通りよ!
――さようなら!
――故郷までの航路は酷く長い
――されど。されどわが心は常に故郷に!
既に、『U-109』に乗り込む者の多くが歌っていた。
娯楽などとは無縁の、油と汗と垢と海水にまみれた、快適な船旅とは対極に位置する不衛生な鋼鉄の狼。その狼を駆動させる乗員は、出自は違えど一つの家族。否、死線を共に潜り抜けた者達特有の、竜骨よりも太く頑丈な絆によって繋がれている。
「田舎者は手紙を書いた」
「愛しの君よ、どうか結婚しないのならば知らせてください」
発令所で並んで横舵を握る操舵手が、舵に置いた指でリズムをとりながら口ずさむ。片方は自分の故郷に住まうソバカスの少女を思い浮かべ、もう片方は《連合王国》の色街で知り合った娼婦の姿が脳裏に過っていく。
「もし、僕が君の名前を間違えて書いてしまっても」
「それは僕のせいじゃない。都会で買ったペンが悪いのさ」
先任下士官室で、非番の乗員が温かみの残るベッドに寝転がり、台詞を暗記するほど何度も読み返してボロボロになった小説を片手に口ずさむ。そういえば最近手紙を出していないなと、おぼろげになりつつある母親の顔を思い出しながら。
「遥かな故郷! 遥か彼方の故郷よ! 」
「遥かな故郷! 愛しの
「さようなら!
「さようなら!
「故郷までの航路は酷く長い」
「されど。されどわが心は常に故郷に! 」
前部魚雷発射管室では十数人の水兵たちが、手を叩き、足を踏み鳴らしながらところどころ歌詞を変えて高らかに歌い上げていく。先行きの不安はあるが、せめてこの時だけは陽気であろうと、普段は物静かな上級水兵長も控えめではあるが合唱に混ざっていく。
「ええい、静かにせいっ! 全然聞こえないじゃないか! 」
「どーせ、この時化の海じゃ海表面からの聴音は無理でしょう水測長」
艦長室の横では、呆れた様にハイドロフォンのレシーバーを叩き付けるソナーマンを、特等席で音楽を聴いていた通信士が宥める。自分と背中合わせになる通信機室を振り返れば、癖毛のニキビ面が通路へと身を乗り出すように苦笑を浮かべ、こちらを見つめていた。
「機関長! 何か前の方が騒がしくありませんか!? 」
「どーせ、いつもの様に合唱大会でもやってるんだろう! 修理した2番シリンダの調子はどうだ! 」
「我が腹の如く快調であります! 」
「大変結構! 」
ディーゼルの轟音に包まれた機関区画では、前方のバカ騒ぎも流石に聞こえず、2基の機関も機関士も平常運転だ。彼らが真面目に務めを果たしている限り、『U-109』の歩みが止まることはない。両側に並んだピストンがリズミカルに上下動を繰り返し、炎と煙と油の勇壮な三重奏を、乗員の合唱に負けじと機関区全体に響かせている。
時折大きくうねる波間を乗り越え、時に貫きながら。大型のハクジラを思わせる細長い艦は、迫る波を笑い飛ばすかのように航行を続ける。時折吹き上がる白波は、『U-109』が腹の中の乗員と共に歌っているような錯覚を覚えさせた。
――遥かな故郷! 遥か彼方の故郷よ!
――遥かな故郷! 愛しのあの娘が住まう場所!
――さようなら! 煌びやかな通りよ!
――さようなら! 都会人の憩いの公園よ!
――故郷までの航路は
「静かにっ! 」
最後のサビを歌い上げる瞬間、ヴェディゲンの鋭い声が艦橋に木霊し足元のハッチを通り抜け発令所にまで響く。とたんに、先ほどまで気分よくがなり立てていた男たちの合唱はピタリとやみ、残った部分を歌い上げるラジオと兵員室の歌声、そしてエンジンと海の音が妙に滑稽に響き始める。
「艦長? 」
何かただならぬものを感じたクレッチマーが、周囲への警戒の視線をせわしなく走らせつつ、歴戦の海狼を呼ぶ。既に、双眼鏡を目に当てた当直見張りは口を真一文字に引き結んで遥か彼方の水平線を踊る波がしらを注視している。
この艦長は、海の男らしいユーモアを持ち合わせているが、無駄なことをしない性質なのはこれまでの航海でよくわかっていた。で、あるならばこの沈黙は――。
そこまで考えた瞬間、ヴェディゲンの視線が海では無く空へと向かっていることに気が付く。そんなまさかと頭の中に驚きが生まれた直後、微かな羽音のような微細な音が聞こえ始め、ほぼ同時に隣の艦長の姿がブレる。
空のある一点を見た瞬間、ヴェディゲンの目が大きく見開かれ、残像が残りそうなほど素早くハッチへと駆けよったかと思えば、『U-109』の乗員が聞いたこともないほどの声量で大喝を解き放った。
「
艦長の咆哮が終わらぬうちに、それまでクルーズ船と化していた『U-109』は歴戦の海狼へとその姿を変貌させていた。
長閑な音楽をたれ流しはじめたラジオが、1000の鈴をぶちまけたかのような非常ベルの絶叫にかき消され、全乗員が弾かれたように思考を切り替える。
「警報――――! 」
「排気用意! 」
「メインタンク注水ーっ! 」
「第3タンク排気ーっ! 」
「1番、2番ベント全開放! 」
「3,4,5番解放完了! 」
当直の乗員が我先にと、艦の内壁をのたうつ配管に割いたバルブに飛びつき、狂ったように回し始め、壁面から突き出したレバーを力任せに引き倒す姿があちこちで見られる。
「シャフト連結外せッ」
「ディーゼル停止! 」
「電動機用意! 」
「1番ヨシ! 」
「2番ヨシ! 」
「シャフト接続ヨシ! 」
「電動機始動ッ! 両舷前進一杯! 」
機関区画のディーゼルが身震いを起こしながら停止し、入れ替わるように電動機室のモーターが、蓄電池の電力を貪りながら耳鳴りのような駆動音を響かせ始める。
「前下げ15! 後ろ上げ15ッ! 急げっ!」
「
「後ろ上げ15! 」
先ほどまで呑気に歌を口ずさんでいたとは思えないほど機敏に、2人の潜舵手がそれぞれ逆方向に舵を倒した。直後、『U-109』の前後に水平に取り付けられた舵が反応し、かき乱された水流が滑らかな艦首をうねりの底へと導く。同時に、傾いて海面へとわずかに顔を出したスクリュープロペラが海を叩き、巨大な水しぶきを一瞬噴き上げる。
「全員艦首へ走れーっ! 」
普段は寡黙なヘッセ機関長の絶叫とともに、それぞれの持ち場で任務を終えた水兵が我先にと前部魚雷発射管室へと走り始めた。警報ベルの轟音に、水兵たちの軍靴の音が合わさり不格好な二重奏を奏で始める。一人一人は数十kg の
「ほら走れ走れッ! 走らんかぁっ! ジジィのファックの方が気合入っとるぞ! 」
「うあっち!? 誰だこんなとこにコーヒー置いたヤツ!? 」
「ま、まってくれ~」
「なんでこんな時にクソしてんだてめぇは!? 」
「無駄口叩く前に足を動かせ貴様らぁっ! 」
「もたもたするな! 女と公園でデートしてるんじゃないんだぞ!? ソレで走ってるつもりか!? 」
「もっと前へ詰めろっ! もっと前へ! 」
「どわっ!? 突っ込んでくんな! 」
「遅いぞ! 早く早く早く! こんなとこで海神の餌にでもなる気か!? 」
通路の両脇でがなり立てる下士官の怒声に蹴飛ばされるように、数十人の水兵が4本突き出した魚雷発射管の根元へと転がり込んでいく。彼らの努力の御陰か、
「艦長が最後です! 先に行きますっ! 」
海水が真面に飛び込むようになった艦橋のハッチへ最後まで残っていたクレッチマーが消えていった直後、ヴェディゲンも長身を器用に狭い洞へ滑り込ませ、重厚な鉄蓋の隙間から最後に鉛色の空を一瞥する。
ハッチの縁と艦橋の波除で切り取られた曇天の向こう側、微かに天の光が差し込む白い箇所に、ゴマ粒のような”敵”が浮かんでいる。艦首方位1-8-0、ほぼ真後ろからの襲撃。間に合うかどうかは自分と乗員の腕次第。
敵でない可能性は――――無いか。
不意に浮かんだバカバカしい願望を推し解け、ハッチを固く閉鎖してから発令所へと半ば飛び降りる様に着地する。クッションの欠片もない靴の御陰で下半身にしびれが残るが、それを吹き飛ばすように取り舵を切るように指示を飛ばした。
「取り舵一杯! 」
「左後進一杯! 右前進一杯! 」
螺旋状のキャビテーションを引きながら高速回転を始めていたスクリュープロペラの内、左舷側の一基が停止し即座に逆回転を始める。同時に、艦首に集っていた乗員が飛びつく様に左舷側へと移動し、『U-109』の艦体がぐらりと左へよろめくように傾斜した。
「総員衝撃に備え! 」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます