4th Chart:一つ、至誠に悖る勿かりしか

 姿を現したのは、一人の海軍将官だった。


 痩身を包む濃紺を基調とした詰襟の軍服は、縁の部分に銀糸で縁取りがなされている。腰には銀細工で装飾が施された短刀を佩用し、襟章には太い金線の上に銀の桜が2輪咲いている。真一文字に引き結んだ口と丁寧に整えられた口ひげ、鋭い視線から厳格な印象を見るものに当たる人物だった。

 自分の病室に入ってきたのが誰かを認識し、慌てて立ち上がろうとするのを手で制した人物は軽く口角を緩める。


「病み上がりの人間にまで敬礼は求めんよ。いや、その動きを見るにあまり心配は要らなそうではあるが」

「お久しぶりです。古井中将」

「三年ぶりだな、有瀬大尉。何はともあれ、貴様が無事でよかった」


 まずは有瀬の無事を喜びつつ、古井一成フルイ イッセイ海軍中将は丸椅子に腰を下ろした。

 静かではあるが、本心から絞り出すような言葉につられて有瀬の口にも笑みが浮かぶ。彼の人物をよく知らない人間に限れば、冷たく人間味のない人物だという評判が根強いが、それは的外れと言う他無い。

 今回のように軍務とはあまり関係ない部分では、ふとした時に内面の温かみや優しさが仏頂面の顔からこぼれてくるのだ。実際は誰よりも部下を、同僚を、戦友を気遣う男だった。でなければ、皇国海軍兵学校の校長は務まらないだろうし、今こうして連合艦隊の根幹戦力の一つである、第二艦隊の司令長官を務められるはずがない。

 すでに年齢は初老と呼んで差し支えない域に入ってはいるものの、その居住まいに微塵の衰えも感じさせなかった。


「無事、というには聊か問題があります。艇長としての初陣で、優秀な乗員を多数失ってしまいました。最新鋭の水雷艇も」

「そこは重く受け止めねばなるまい。理由はどうあれ、『紅鶴』の乗員は貴様の指揮で死地に赴き、深淵アビスへと飲み込まれたのだからな」


「わかっております」と低く唸るような古井中将の言葉に頷く。ある意味で”欠陥品”である自分に付き従ってくれた111名の乗員。その過半を失ってしまったのは、艇の問題も在るが、結局のところ艇長である自分の責任だった。

 いまさらながらに、自分の犯した事実が重くのしかかるが、思わず目を伏せる前に、聞き覚えのある言葉が耳朶を打つ。


ひとつ、至誠に悖るかりしか」


 身体に染み入るような声に、下に落ちそうになっていた視線が自然と上がり、丸椅子に座った海軍中将の顔へと向けられる。その表情も、視線も、海軍兵学校時代に見慣れたものだった。


 一、 至誠にもとかりしか

 ――誠実さや真心、人の道に背くところはなかったか。


 一、 言行に恥ずる勿かりしか

 ――発言や行動に、過ちや反省するところはなかったか。


 一、 気力に欠くる勿かりしか

 ――物事を成し遂げようとする精神力は、十分であったか。


 一、 努力にうらみ勿かりしか

 ――目的を達成するために、惜しみなく努力したか。


 一、 不精にわたる勿かりしか

 ――怠けたり、面倒くさがったりしたことはなかったか。


 五省と呼ばれる5ヵ条の反省事項。皇国海軍兵学校皇海兵において古くから伝わる伝統の一つであり、学生は一日の終わりに各自心の中でこの言葉を反芻し、今日の自分の言動を省みる。皇海兵を出た人間ならば、誰もが心の中に刻み付ける自戒の言葉だ。

 思わず自分の顔に視線を向けたかつての教え子に対し、ほんのわずかに元校長の口角が歪んだ。それは、皇海兵の教えがかつての教え子の中に確かに根付き、傷つきはすれども腑抜けては居ない事を確信したからこそ出る、安堵の笑みでもあった。


「貴様が、貴様の指揮により生んだ犠牲を忘れることは私が許さん。だが、そちらに気を取られ二度と艦橋に立つことを拒否するような腑抜けに育てた覚えもない。失った者を犬死とせぬために、今を生きるもの、今を戦う者たちに自分が何ができるかを考え行動に移す。それが唯一、部下を失った指揮官ができる義務であり、唯一の贖罪だ。忘れたとは言わせんぞ?」


 噛締めるように頷けば、長い”夢”の記憶に埋もれそうになっていた本来の自分の記憶が頭を過る。


 ”この先、諸君らは指揮者として数多の戦いを繰り広げていくことになる。その中で、道半ばにして、己の指揮で斃れる部下や戦友もいるだろう。そのことで、思い悩むこともあるだろう。――――指揮者とは、そういうものだ。如何に損害を押さえるかという命題は、如何に効率よく味方を殺すかという命題と表裏一体である。だが共通して言えることは、指揮者は失った者達を犬死とせぬ為に、今を生きるもの、今を戦う者たちに自分が何をするべきか、何ができるかを考え行動に移さねばならない。それが、部下と戦友の命を預かる、指揮者という役割の義務であり責任である”


 皇海兵を卒業する自分達へと送られた、校長としての最後の訓示。ともに卒業する同期の桜の全員が、背筋を伸ばし、数人は微かに目尻に光るものを浮かばせながら耳を傾けた言葉だ。忘れられるはずもない。


「…佐伯中佐が提出した戦闘詳報は私も読ませてもらった」


 耳朶を打った言葉に、思わず体を固くした。

 先ほどのマトリクス造船大尉の言によれば、海軍上層部に提出された戦闘詳報は自分が認識した状況と大きく異なる。

 皇国海軍において戦闘詳報を作成するのは指揮官、艦長クラスの人間であり、船精霊ではない。もちろん、船精霊の証言も組み込まれることはあるが、それはあくまでも参考に過ぎなかった。

 第5警備戦隊で生き残った人間の将校は自分と佐伯中佐、そして若干名の第5警備戦隊司令部だけであり、1か月もの間昏睡していた自分を除けば、あの海戦の戦闘詳報を提出できるのは艦長と第5警備戦隊司令を兼任する佐伯中佐だけなのだ。


「先ほど、自分も要旨を聞きました」

「その顔では、不満があるというところらしいな。少し聞かせろ」

「少々お時間をいただきますが」

「簡潔にまとめればいいだけの話だ」


 さらりと難しい条件を付けくわえられ、皇海兵時代を思い出し苦笑するほかなかった。古井校長の無茶ぶりは学生から恐れられてはいたが、同時にその無茶ぶりを受ける憧れのようなものも存在した。

 一見無茶な指令のようにも思えるが、その課題は一つの例外もなく、突きつけられた方の学生が――並大抵の努力では届かないが――対処可能な範囲であった。つまり、この男からの無茶ぶりは信頼と評価の証明でもあった。

 不必要な個所を抜き取り、要点を1分程度にまとめて伝える。少々早口になってしまったような気がするが、古井は気にした風でもなく一二度頷き「やはりな」と小さく独り言ちた。


「つまり『飛鳥』『灘鶴』は撃沈ではなく転覆事故だということか」

「はい。紅鶴が巨大波に飲み込まれる直前までは、後部艦橋から2隻の甚大な被害は報告されていません。また弾薬庫に直撃弾を受けて誘爆した場合、水雷艇ほどの小型艦ならば艦体構造が耐えられず、横転沈没ではなく爆沈に至るのではないかと愚考します」

「確かに、佐伯中佐の戦闘詳報では2隻とも横転し、そののちに沈没したと記されている。爆沈や弾薬庫誘爆による轟沈とは書いていなかった」

「おそらく、佐伯中佐の誤認と思われます。あの時、『雪鶴』は後部甲板で爆雷が誘爆し、大火災を引き起こしており後方の視界は殆どなかったでしょう。また、嵐の海での退艦行動は困難であり、外を見る余裕ができた時には両艇はすでに横転していたのではないでしょうか」

「つまり、佐伯中佐は自艇からの退艦に集中していたことと後方視認の困難さから、両艇が波によって転覆する瞬間を目撃できなかった。その後、横転している2隻を発見し、砲撃戦による戦没であると認識した。というわけか」

「加えて、あの時遭遇した海神は荒れた海で早々に『雪鶴』へ命中弾を出し、撃沈せしめています。佐伯中佐も驚愕し、敵の練度を高く見積もったのではないでしょうか?」


「不利な条件下で先手を取られれば、敵の過大評価に繋がりかねなかった、か…」古井中将は腕を組んで瞑目し、一つ長い溜息を吐く。


「興味深い考察だ、大尉。では、この戦の戦訓は何だと考える?」

「あまり艦のせいにはしたくはないのですが、雪鶴型水雷艇には安定性の欠如と船体強度の不足という重大な欠陥があります。この問題が解決されないうちは雪鶴型の建造は凍結、改雪鶴型の設計と建造を行うこと。そして、現在皇国海軍に所属する全艦艇の安全性基準と設計を今一度精査するべきだと思います」

「艦隊の運用については?」

「沿岸警備隊の本分はその名の通り沿岸部の警備であり敵海神の撃退と位置情報の通達です。敵海神の討伐ではありません。今回のように敵海神の撃滅のため、小型艇には危険な荒天下の海にまで進出し、無理な戦闘行動を行うのは戒めるべきかと」


 一息に言い切り口を閉ざす。巌のように微動だにせず熟考を行う姿は昔から全く変わっていない。窓を抜ける風音だけが静かに響き、遠くの方から微かな汽笛の音が伝わってくる。

 古井中将が目を開き、小さく息を吐いたのは、自分が口を閉ざしてからたっぷり1分は経過した後だった。その顔には苦々しいものと微かな憤りが浮かんでいた。


「有瀬大尉。無念ではあるが、軍令部はすでに第5警備戦隊の戦闘詳報を受理し、戦訓として公表してしまっている。今、貴様が新たに戦闘詳報を提出したとて、握りつぶされるのがオチだろう。それに」

「佐伯中佐の戦闘詳報で無理な突出をして艇を大破させた艇長の、責任逃れの戦闘詳報だ、と糾弾される可能性があると」


 自分の言葉に、げんなりとした表情が古井中将の顔面ににじむ。恐らく、自分の表情もそうなっているだろう。理解はできる、しかしだからと言って反感は生まれてしまうのだ。


「バカバカしいことにな。佐伯中佐は近衛艦隊への配属を有望視されている。縁故の部分も大いにあるが、本人の性格、能力ともに申し分ない。そして、雪鶴型の船体強度の不足は中佐の報告にも盛り込まれているのだ」


 微かに首を振る中将に、諦めるようなため息が漏れた。

 もし、この戦闘詳報に雪鶴型の欠陥が盛り込まれていなければ自分の出す戦闘詳報の価値も上がっただろう。しかし、現状はそうではなく、自分の戦闘詳報を出す大きな意義が霧散してしまっている。結論はさして難しくない。


「今のところは、出すだけ無駄。出したところで、僕の立場が悪くなる。と?」

「そういうことだ。現時点では、貴様を非難する者が多いが、仮にも海神に肉薄し魚雷を叩きこんだことで水雷畑の連中からは逆に評価が高くなっている。特に二水戦の上重参謀など、”ぜひウチに欲しいくらいだ”と公言する程度にはな」

「ああ、あの上重大佐ですか」


 何かとエキセントリックで話題に事欠かない名物参謀の顔と言動を思い出し、微かな笑いが漏れる。

 ”夢”の中で知った嘗ての軍人にも、彼に似たような人物がいた。神懸かりとか、海戦型ツジーンとか、或る時代の架空戦記では色んな意味で活躍する人物など、その評価は様々であり、史実の活躍を見ても一概に名将とも愚将とも言い難い人物だ。

 ”この世界”の上重大佐も見方によれば、”夢”の世界の或る軍人の同位体と呼べるのだろうか?と考え、あまりのバカバカしさに首を振りそうになった。

 そういえば、目の前の古井中将も…いや、何を考えてる。


「私の予想では第5警備戦隊は解散され、貴様はしばらく陸上勤務を経た後、艦隊勤務に戻るだろう。古巣の海上護衛総隊エスコート・フリートもいいが、何なら二水戦もいいんじゃないか?」


 連合艦隊第二艦隊第二水雷戦隊、通称二水戦。

 防護巡洋艦『矢矧』を旗艦とし第21駆逐隊と第22駆逐隊の2個駆逐隊、計8隻を率いている。

 第二艦隊自体が比較的高速な装甲巡洋艦を根幹戦力として編成された艦隊であり、戦艦が集中配備された第1艦隊よりも洋上での機動力が高い。そのため、主力である第一艦隊や近衛艦隊に先駆けて進出し、夜戦による敵戦力の漸減や通商破壊による後方補給線の遮断なども任務の一つだった。

 また大規模な海戦では主力に先駆けて突入し、搭載した水雷兵装を至近距離から斉射し敵の艦列を混乱させるなど、切込み部隊的な側面が強く出る場合もある。

 その中でも第二水雷戦隊は伝統的に夜間突入による漸減作戦と水雷戦闘を重視しており、損害を省みない勇猛果敢な突撃と正確無比な雷撃により、演習、実戦を問わず多大な戦果を挙げてきた部隊だった。

 しかし、魚雷を命中させるためには敵の懐――艦砲の射程距離――に潜り込む必要がある。距離が近くなればなるほど艦砲の命中率は飛躍的に上昇し、さらに本来ならば射程圏外である敵の小口径砲の火箭も追加される。対して、水雷戦隊に配備されているのは防護巡洋艦、駆逐艦、水雷艇であり防御は殆ど気休めと呼べるものだった。

 頼りない装甲と貧弱な主砲を頼みに、魚雷という特大の爆発物を抱えたまま、死に物狂いの防御射撃を展開する敵艦隊へ遮二無二突っ込む。

 自艦が被弾しようと僚艦が爆沈しようと、無数の屍と重油を積み上げ満身創痍になりながら肉薄し、必殺の魚雷を叩きこむ。それが水雷戦隊であり、華の二水戦だった。


 勇猛果敢 満身創痍


 真っ先に敵艦隊に突撃し、多大な戦果と甚大な被害を受ける二水戦を端的に揶揄したこの言葉には、そんな戦い方を続ける者たちへの畏怖と呆れが多分に含まれていた。


「二水戦ですか、どちらかと言えば、自分は砲術畑の人間なのですが」

「わかっている。結局のところ、それを決めるのは海軍省の人事局だ。貴様の意向を挟む余地はないだろう。…流石に、降格の上で予備役編入はないとは思うが、な」


あまり面白くない未来予想図に、思わず頬がひきつった。


「そこは言い切ってほしいところですが。ま、そうなったら実家に帰って、大人しく龍でも育てるとします」

「ふむ、貴様の実家は龍牧場だったか?」

「ええ、龍州の方に。近頃、軍にも卸させていただいています」

「それはさぞ儲かっているだろうな」


 少し揶揄うような声に、とんでもないと大げさに肩をすくめる。


「せいぜいが連絡騎や練習騎どまりですよ。家の龍は扱いやすいですが、あまり身体が強い方ではありませんからね、生産数も多くはありませんし。育ての親と退役した船精霊を少々養える程度です」

「扱いやすいというのは美徳だ。近衛艦隊航龍隊は創設されて間もないが、だからこそ現時点で最高の龍を欲している。その眼鏡にかなったというのは誇っていい。今後、連合艦隊グランド・フリートが本格的な航空龍騎兵隊ドラグーンを持つに至った時は、是非手に入れたいものだ」


 本心からであろう言葉に、思わず顔が綻ぶ。これは、次に帰省した時に伝えなければならないだろう。最も、いまだに現役で龍を乗り回す元気すぎるあの親を、さらに元気づかせるとどうなるか想像すらできないが。

 その後は自分が意識を失っている間の海軍の内情をいくつか話した後、古井中将は部屋を辞し、入れ替わりに警備艦隊司令部の連絡員が姿を見せた。

 痩身で几帳面そうな海軍少佐は”別命あるまで静養せよ”という命令を伝達すると、要は済んだとばかりにさっさと帰ってしまい、ようやく部屋に静寂が戻る。

 この後はどうするか?と思考を巡らせるよりも早く、自分の身体はすでにベッドから起き上がりゆっくりと体をほぐし始めている。”夢”の世界ならこうはいかないだろうと、頭のどこかで入る突っ込みを聞き流しながら、凝り固まった体を伸ばし、用意されていた真新しい軍服へと袖を通す。

 思えば、”夢”の中の自分や周りの人々は随分と脆弱だった。

 渡里軍医の診察通り特に体は問題なく、少し鈍り気味という点に目をつぶれば普通りりに動ける。部屋の隅にまとめられていた私物――『紅鶴』に持ち込んでいたものだ――が満載されたカバンを手に取り、微かによろめき乍ら病室の外へと足を踏み出した。

 後に残ったのは夕焼けで赤く染まった身を微かな海風になびかせるカーテンと、皺一つない病床だけだった。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る