第22話 信じたくないこと

息も絶え絶えに一乃の家に着いたとき、そこには悲惨な光景が広がっていた。


リビングからの蛍光灯の光が庭まで漏れ、雨の中ではっきりとそれを映し出していた。


一乃の部屋と見られる壁は破れ、リビングの大きな窓は割れている。そして、そこからつながる庭に、五つの人影があった。


地面に倒れているのは、二人の少女。藍子と一乃だ。そこに三人の人影が群がっている。


そのうちの一人、長身の女は、膝をついて一乃の頭をつかんでいる。つかんでいる腕がわずかに発光していた。


「なにしてやがる!」


反射的に逆上し、殴りかかろうとする令。


対する相手は、女ではなく左右の人影が前に出た。


互いが激突するその直前、


וואיטヴィト


不思議な発音の声を女が紡いだ。


同時に令に向かおうとしていた二人がピタリと動きを止める。


思わず令も足を止めた。


女が立ち上がる。その姿がリビングから漏れてくる光に照らし出された。


長身で黒い髪を後ろで丸くまとめた女性。歳は三〇代ほどだろうか。もっと行っているかもしれない。丸く大きな瞳や、わずかに上がっている口角が、どうにも彼女を幼く見せていた。


きっとこいつが、ゴーレムの親玉。阿久津 志磨だと令は直感した。警戒を解かずにジッと相手を見据える。


「羽月はどうした」


見た目の印象に反して、粗野な言葉遣いが口をついた。


「邪魔だったから、ちょっと寝てもらったよ」


「そうか・・・・・・」


雨に流され、垂れてきた前髪を魔法使いは掻き上げた。


「まさか羽月を御して来るとはな・・・・・・。予想外だったよ。直路木 令君」


「なんで名前を・・・・・・」


「読んだのさ。この子の記憶を」


 足下に転がる一乃を指さしそう言った。


 一乃の意識はあるようで、うめきながら体を動かそうと小さくもがいている。藍子も同様だった。何か動きを封じる魔法でもかけられたのだろうか。


「二人に何しやがった」


「ちょっと寝てもらっただけさ」


不敵な笑みを浮かべて、志磨は令の言葉をそのまま返してきた。


歯がみする令に、彼女は泰然と続けた。


「直路木君。君はここで逃げてもいいんだぞ?」


「・・・・・・何言ってやがる」


「逃げても別に私は君を追わない。私が用があるのは、咎負い二人だけなんだ。もう目的は達してる」


「・・・・・・?」


「・・・・・・わからないか?」


そう言う志磨はいかにも愉快そうだった。そのいたずらっ子のようなあどけない笑みが、逆に不吉だ。彼女は一乃の髪を掴んだかと思うと乱暴に引き上げた。リビングから差し込んでくる光で、彼女の左半身が照らされる。


「おい!」


「こう言ってるのさ!」


その言葉は令の言葉を遮るように発された。


膝立ちのような姿勢となった一乃の顎を掴み、志磨は一乃の眼帯を勢いよく取った。そのまま一乃の目蓋を押さえ、無理矢理彼女の目を閉じさせる。


眼帯に隠されていた左目が露わになった。


空が光り、雷鳴が轟いた。


雷に照らされたその目蓋。白く透き通りそうなその肌に刻まれているのは、入れ墨のような醜く黒い文字。


咎負いの烙印。


令の時が凍った。


「こいつが、咎負いってことだよ」


音は消え、激しく降る雨音も聞こえなくなり、雨が体を叩く感覚も消え去った。ただ視覚だけが残り、雷の光を受けて浮かび上がった一乃の左目蓋だけがその目に焼き付いたままだった。


今もリビングから差す光で、彼女の目蓋は見えている。


見間違いではない。


確かにそこには烙印がある。


「お前達は今まで、この娘に騙されてたんだよ」


「だま・・・・・・され・・・・・・?」


思考がまるで追いついていなかった。叩きつける豪雨に脳まで流れ出してしまったかのようだ。


「そうさ。こいつははじめから、私に勝てるなんて思ってなかったのさ。そもそもこいつは魔法使いですらない。自らの罰の力を魔法と言い張って、簡単な暗示魔法を使えるだけの、ただのつまらない咎負いさ。・・・・・・教えてやるよ。これまでこいつが何をしてきたか」


 さっきまでの愉快そうな口調とは打って変わって、魔法使いは白けてしまったかのような淡々とした口調になった。


「こいつの負った咎は『見殺し』。その咎によって与えられた『見殺しの罰』は、あらゆるものをただ見てしまう咎だった」


 その言葉を聞いた一乃の顔が醜く歪んだ。しかし、彼女は言葉を聞き続けるしかない。


「その罰を使って、こいつはオカルト側こっちがわのことを調べ回った。そうして魔法や咎負いの知識を得ていったんだ。咎負いの罰の力までカバーしてる結界や防護魔法は少ないからな。知識を得ていくのは簡単だったろうな」


「そうして知識を深めていくうちに、こいつは私たちがこの町にいる二人の咎負いを狙っていることを知った。でも、こいつは知っていたんだよ。この町には、本当は三人咎負いがいることを。三人のうちの一人は、咎負いとして不完全ゆえに、私の探知に引っかからなかったことをね」


「そこで、本物の魔法使いに勝てるはずがないと思ったこいつは考えたのさ。その不完全な咎負いを身代わりに立てることができれば、自分は助かるんじゃないかってね。わかるか? お前のことだよ。お前は、こいつの身代わりだったんだよ」


身代わり。


別段珍しい言葉でもないはずなのに、その言葉を耳にした令に走った心地は、まるで初めてその言葉を聞いたかのようであった。それほどに、この状況で放たれたその言葉は、吐き気を催しそうなほどに惨たらしく感じた。


「で、でも・・・・・・!一乃は、俺たちを助けようとしてくれた!」


ようやく思考力の戻った令が口を開くも、笑い声とともにそれを一蹴される。


「はははっ。馬鹿だな君は。こいつはただ待っていただけだよ。お前が咎負いとして目覚めるのをな。でなきゃ身代わりにならないだろうが? 戦っていたように見えたのも、あんなのただの時間稼ぎさ」


「でも、今日の戦いは――」


「あんな結界の柱なんて、壊されても簡単に建てられる。そうしなかったのは、お前達を釣るためだよ。戦い? はじめからお前達とは勝負なんて成立していない。それがわかっていたから、こいつは身代わりをたてようなんて考えたんだ」


口が次の言葉をつかなかった。令にはこれ以上食い下がる言葉が思いつかなかった。


ただ信じられないという気持ちだけが、ずぶ濡れとなった服のように彼の全身に張り付いていた。


「嘘だよな・・・・・一乃・・・・・・」


 すがりつくような声が、少年から漏れ出した。


 一乃は俯いたままで、何も答えない。


「なぁ! 一乃! 答えてくれよ・・・・・・!」


 しばらくは、雨音だけがその場に響いた。そして、雨に消え入りそうな声が、確かに令の耳に届いた。


「・・・・・・・・・・・・ごめんなさい」


「・・・・・・!」


 頭が真っ白になった。


 頭がしびれ、全ての思考が混ざって形を成さなくなる。


 志磨が一乃から手を離す。少女の体は地に落ち、もはや小さな湖のようになっている水たまりから水滴が爆ぜる。水浸しの少女は、悲痛な表情で強く下唇を噛んでいた。


「い、いや・・・・・・まだだ・・・・・・」


令の口がそう呟いた。その表情はもはや虚ろだ。


「ま、まだ、お前がいる。今ここでお前を倒せば・・・・・・」


ボロボロの姿で、引きずった足を前に出す。


それを見た魔法使いは、ため息とともに目を閉じた。


「ハァ・・・・・・。馬鹿だよ君は。・・・・・・『דダレス』」


またも聞き慣れない言葉とともに、彼女は小さな玉を投げた。


ピンク色に発光したそれが令の体に当たった途端、半透明で紫の鎖が現れ、令の体に巻き付く。


急に身動きが取れなくなったことで彼はその場で倒れ伏す。頬を芝が擦り、水しぶきが舞い散った。


「こんなもん・・・・・・!」


鎖を引きちぎろうとするが、半透明のそれはその細さに対してビクともしない。


「無駄だよ。『体が動かせなくなる』という簡単な暗示さ。実際に鎖で縛っている訳じゃない」


雨を滴らせながら、魔法使いは令へと歩み寄ってくる。


「捕まえてしまった以上は、君もあの娘たちと運命をともにしてもらおう」


一歩、また一歩と、水音を立てながら彼女が近づいてきた。


全力でもがく令。だがもう彼の疲労はすでにピークに達していた。満足に暴れることすらできない。


やがて、魔法使いは令の傍らにまで来た。彼女はゆっくりと膝をついて、そして囁く。


「最後に教えてあげようか。君の咎を」


「な・・・・・・に? なんで、お前が・・・・・・」


「わかるさ。烙印を読めばね。これでも文字には精通してるんだ」


ボロボロになった令の服から覗いていた烙印を、彼女は読んだのだ。


「君の咎は――――――」


雷鳴が轟いた。


見開かれる令の瞳。もがき続けていた彼の動きが止まった。


「逃げてほしかったよ。そうすれば、君は助かったのに・・・・・・」


志磨の手が令の頭に伸ばされた。だが、令に抵抗する気配はない。雨に打たれる彼の目は虚ろで、戦意など欠片も残されていなかった。


敗者は決まった。いや、そもそもこの戦いが始まった時点で、令達に勝ちなど存在していなかったのだ。


これが、愚かにも魔法使いに挑んだ者の末路。


咎人が見られる夢などなかったのだ。


伸びた志磨の手は、敗者を下す悪魔の槌。そして、赤い文字の浮かび上がるその手がついに、




――――――虚空を掴んだ。




彼女の目の前から令の姿が消えていた。


ゆっくりと立ち上がると、彼女は少し離れた場所に佇む一つの影へと目を向けた。


「どういうつもりだ――――羽月」


視線の先にいたのは、頬を腫らしたワンピースの少女。橘 羽月。彼女はその両手に、身動きのとれない令を抱えている。


羽月は令を丁寧に地面に寝かすと、魔法使いと向き合った。その目は雨の中でもはっきりと分かるくらいに澄んでいた。


志磨しとぎ。もうやめよう・・・・・・。・・・・・・私、こんなことまでして・・・・・・」


「・・・・・・・・・・・・。そうか。やはりお前はその道を選んだか」


少女の瞳を見て、魔法使いが小さくつぶやく。わずかに俯いた彼女は、しかし次に顔を上げたときは、その表情を険しいものにしていた。


「だが、それでも私は続ける。お前が望んでいなくともだ。―――『הנסセネ』!」


 呪文とともに、志磨は目にも止まらぬ速さで小さなものを二つ投げた。それは、文字の書かれた胡桃。それは、呪文によって魔法を咲かせる魔術の種。青と白に発光したそれは、まっすぐに羽月へと向かう。


雨を裂いて飛来したそれを、羽月はなんとか拒絶で弾いた。背後の令を気遣い、かなり弱めに放ったものだったが、軽い胡桃を弾くには十分だった。


だが、地面に落ちても魔法は死ななかった。むしろこの魔法は、地面と雨に反応する魔法だったのだ。


地に落ちた二つの胡桃の間が光の線で繋がれ、瞬く間に半透明の腕が無数に伸びた。


弾かれることを織り込み済みで放たれた魔法。伸びた腕に実体はなく、拒絶では弾けない。


即座に羽月は左手の爪を右腕の義手に突き立てた。


「ℵ《アレフ》!」


言葉とともに右腕に長い傷跡を残すと、そこに文字が浮かび上がる。そのまま彼女が指を鳴らすと、赤い光の輪が空間に広がった。


輪に飲まれた腕の動きが止まり、その色があせて灰となる。その瞬間に羽月は拒絶でその腕を砕いた。


赤い輪の広がりは志磨まで届こうとしたが、左右にいたゴーレムの一体が、大量の光る文字が浮かび上がった腕を地面に差し込むと、あっさりとかき消される。


その一瞬の間に羽月は砲弾のごとき速度で、志磨へと飛びかかっていた。


その志磨は目を閉じて呪文を唱えている。


魔法使いに準備の時間を与えてはだめだ。彼らに時間を与えるということは、彼らが巨大化していく要塞に逃げ込むことを許すに等しい。逃げ込まれれば容易には落とせず、その間にも彼らは要塞を大きくできる。


それゆえに、間を開けることなく羽月は突っ込んだのだ。


志磨まであと二メートルほどというところで、もう一方のゴーレムが前に出た。そのゴーレムは深淵を纏った指先を羽月へと伸ばす。


その手が触れるその直前――――強烈な衝撃波を羽月が放った。


羽月を中心に生まれた空気の壁は、音速を超えて拒絶の球を広げた。周囲の雨粒は押しのけられ、至近距離で食らった二体のゴーレムは弾け飛ぶ。周囲一帯の家のガラスは砕け、庭の木は軋みをあげる。


だが、衝撃波は志磨まで届かなかった。


志磨が目を開く。


見えない壁にぶち当たったかのように、志磨の目の前で衝撃波が阻まれた。


行く先を失った衝撃波は四方に広がる。あたり一面に嵐のような風が吹き荒れ、志磨の前の地面は、真一文字に深く抉れた。


歯がみとともに羽月は志磨から離れる。


視線の先で悠然と立っている志磨の上着からは、様々な色で光る根のようなものが地面に枝分かれして伸びている。その途中に色の違う三つの球があった。


擬似的な生命の木の一部。星幽的三角形が成されてしまっていた。


「惜しかったな。羽月。・・・・・・それにしても、念のためにと思って入れておいた魔法を、よもやこんな形で使われるとは・・・・・・。」


クックック、と愉快そうに笑う志磨。その笑みを湛えたまま、彼女は一歩踏み出した。


硬い表情の羽月が一歩後ずさる。


激しい雨音に紛れて、遠くから雷鳴が響き渡った。


「・・・・・・」


魔法使いと対峙する羽月のその後ろ。今の数秒のやりとりを見ていた令は愕然としていた。


まるで次元が違う。


自分たちは、こんな相手に勝てると思っていたのか。やはりそれは幻想だったのだ。一乃が生み出した幻想を自分たちが見せられていたことを、今ここに強く実感した。


志磨が三色の玉を出現させて以降、戦況は一気に傾いた。


次々に発する志磨の魔法は、さらに常識を越えた現象を起こし、羽月は防戦一方になっていく。


レーザーのような光の筋が背後の壁を貫く。赤くなった雨粒が羽月に集結し、その動きを捕らえようとする。魔法と拒絶でそれを抜け出した彼女に、水と土が入り交じった腕が地面から襲いかかる・・・・・・。現実とはとても思えない光景だ。


徐々に羽月は追い詰められ、その姿はボロボロになっていた。息も荒く、苦しそうな呼吸音が、雨音に溶けていた。


終幕の時は突如として訪れた。


周囲の家の電気がつき、あちこちから人の気配がし始めていた。現実離れした戦闘の激しい音は、流石の豪雨でも隠しきることができなかったようだった。


耳を澄ませば、パトカーのものと思われるサイレンの音が聞こえてくる。


志磨が舌打ちを鳴らした。彼女の中では、こうなる前に羽月を無力化できるはずだったのだが。


羽月が駆けた。距離を詰めながら連続で放たれた衝撃波は、しかし再度見えない壁によって阻まれる。


住宅街にまき散らされる激しい風。あたりから悲鳴のような声が響く。


志磨が腕を振ると、三色の球体が、彼女の上着から出ている光の根を離れた。一つは、地面へと吸い込まれ、残り二つは見えない壁へと溶けた。


その途端、見えない壁がある地面から、土でできた大量の木が生えてきた。それらの枝が網のように絡み合い、羽月を包もうと覆い被さってくる。


拒絶を放つ羽月、しかし土の枝はビクともしない。羽月は大きく後ろに下がった。


枝の隙間から見える向こう側では、地面から現れた土の人形が、藍子と一乃を担いで、すでに背を向けていた。


「志磨っ!」


そう叫んでも、しつこく迫ってくる枝のせいで前に出ることができない。


枝の網の向こう側に、羽月を見つめる志磨の横顔が見えた。


パンッという破裂音がしたかと思うと、土の枝は一気に青い煙幕となった。


一瞬にして塞がる視界。煙から逃れ、羽月はさらに下がる。


彼女が魔法を使い、煙幕が晴れたときにはもう、その向こうには誰の姿もなかった。


羽月はその場に崩れ落ちた。


仰向けのまま雨に下る令。雨を受け続ける彼の瞳は、空と同じように暗く深かった。


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