第10話 無価値の咎

一旦家に帰って着替え等の泊まるためのものを持ってこなければならなかったが、あまりに疲れていたためにそれは翌日にまわすことにした。一乃に通された自分の部屋より広い客間のベッドで、夕方を前にして令は眠りに落ちたのだった。


目を覚ましたのは、明け方の四時過ぎになってからだった。


寝ぼけまなこで携帯に表示された時間を確認し、妙な時間に起きてしまったと令は独りごちった。疲れていたとはいえ寝た時間が早すぎたのだ。


ひとまずトイレに行こうと部屋から出た。廊下は僅かに白んだ空の明るさのみに照らされているが、まだ暗い。暗闇が聴覚を尖らせ、暗がりへと木霊する自分の息づかいが大きく聞こえる。


一歩踏み出そうとして、足が止まる。トイレの場所を教えてもらっていないことに気づいた


どうしようかと思っていると、突然ガララ、と騒々しい音が暗がりに響いた。ビクリと令は首を縮める。風呂場の方からだ。自然と令の足が、そちらへと向かった。


風呂場へと続く扉から光は漏れてきていない。中に光は灯されていないようだ。水音もしないし、誰かが風呂に入っているわけでもないだろうが、中から物音はする。好奇心と警戒心が半々の感情のままに令は脱衣所に踏み込んだ。


そこには、


「うわっ。・・・・・・なんだ。令か・・・・・・」


突然入って来た令に驚く藍子の姿があった。暗がりに見える姿は普通に寝間着の姿のように見える。


「藍子かよ。なにしてんだ? こんなところで」


「寝てたら風呂場の中の物落としちゃってさ、片付けようとしてたんだ。電気、つけて」


寝てた? とその言葉に疑問を覚えつつも、言われるがままに令は入り口近くのスイッチを押した。


一気に照らし出される室内。白い蛍光灯の光が、暗さに慣れていた目に刺さって、思わず目を細める。


目の前に立つ藍子の姿もハッキリ見えるようになった。水色のパジャマ姿であったが、しかし彼女の左腕が異様な事になっている。なぜか、ビニール袋に覆われているのだ。しかも中に何か詰めてあるようで、不格好に左腕が太くなっているように見える。


「お前、なんだそれ・・・・・・」


「・・・・・・片付け、手伝ってくれない?」


質問には答えず、ただ肩をすくめながらそう言うと、彼女は令を風呂場に招き入れた。


風呂場も普通とは言いがたい状態になっていた。


さっき藍子が言っていた通り、洗い場に物が散乱しているのはまだいいとしても、そこにはなぜかビニール製のマットと普通の掛け布団が置かれている。


「マジでここで寝てるの?」


「ああ」


「こんな場所でよく寝れるな・・・・・・」


「逆だよ。ここじゃないと、安心して眠れないんだ・・・・・・」


 眉を下げてそう言うと、藍子は散乱した物を片付け始めた。厳重に覆われた左手は使えず、右手だけで片付けている。令も片付けに加わった。


 しばらくして、藍子が口を開く。


「・・・・・・あたしは、自分の罰の制御ができないんだ」


「お前の罰って、あの腕が燃えるやつだろ? 勝手に燃え出したりするってことか?」


「いや、そういうわけじゃなくて・・・・・・」


そうしている内に、片付けが終わった。彼女は床に敷いてあるマットの上に腰を下ろした。


「この際だから話しておくよ。私の罰の話。昨日一乃は気を遣って、私にこの話を振らなかったけど・・・・・・」


「え、でも・・・・・・」


咎とは強い後悔で、それに付随する物が罰だと一乃は言っていた。自身の後悔の話など進んでしたいものではないだろう。


藍子は首を振った。


「いいよ。君まで気を遣わなくても。君も咎負いとして目覚めなきゃいけないんだし、具体的な話を知っておいて損はないよ。咎と罰についてね・・・・・・」


そう言って彼女はやや引きつったような微笑みを見せた。


「ほら、座りなよ」


自分の隣のマットを叩く藍子。勧められるままに令はその隣に腰を下ろした。マットの中に水が入っているようで、ヒヤリとした感覚が尻や足から広がった。


窓の外はほの暗く、朝はまだ遠い。


「あたしの父さんはさ、骨董マニアだったんだ。特に、屏風とか影軸とかそういうのが好きで、どっかで見つけては値段も見ずに買い集めてたよ。・・・・・・病的なくらいにね。父さんがそんなんだから、家計はいっつも苦しかった。おしゃれな服買ったりとか、友達と映画見に行ったりとか、みんながやってたことも全然出来なかったよ」


「それでも父さんは骨董集めをやめようとしなかった。・・・・・・大っ嫌いだったよ。あんな価値の無い物に五〇万や一〇〇万払うためにあたし達を巻き込んで、あの人は家族よりもあんな訳の分からない物の方が大事なんだって、軽蔑してた。母さんもそれで喧嘩ばっかりしてたよ」


「自分の部屋も無かったあたしは、いつもイヤホンで耳を塞いでた。ジャンルを問わず何でも聴いた。音楽は現実から逃げるための道具。ただ聴ければなんでもよかった。友達にCD借りたり、少ない小遣いでレンタルしたりして、がむしゃらに聴きまくってたよ」


「そんなときに、あるバンドに出会った。いつも通り、CDショップでいろんな音楽の試聴してた時だった。棚の端っこにあった聴いたこともない名前のバンドだったよ。『Rigret 7』・・・・・・。知らないだろ? 今だって有名なバンドじゃない。・・・・・・・でも、曲を聴いた瞬間、もう一度生まれ落ちたかのようだった。生きていく内に失っていく物、得られたはずの物。自分の手のひらからこぼれ落ちたいくつもの可能性の欠片に慟哭して・・・・・・。まるで、今の自分を歌っているみたいだと思ったよ。あたしの中の世界が変わった。いままでただ耳を塞ぐためだけに聞いていた灰色な音楽全てにまで鮮やかに色が付いたんだ」


「あたしは知った。音楽というものの価値を、すばらしさを。そうしてあたしは音楽に夢中になった。高校に入ったらバイトをして、『regret 7』はもちろん、いろんなバンドのアルバムやグッズを買ってさ。ギターも買って友達とバンドも組んだよ。あのときのあたしは、音楽が全てだった」


「・・・・・・一方で、音楽の輝きの強さに、父さんの骨董品はさらに無価値な物に思えた。そんな無価値な物を大事にしている父親もさらに嫌悪していった。母さんとの喧嘩も増えて、家族という器に、どんどんヒビが広がっていった」


「そして今から半年より少し前、ついにその器が砕けた」


「あの日父さんは、いつも以上に酷く母さんと喧嘩してた。珍しく酒が入っててね。本当に酷かったよ」


「いつもだったら音楽で耳を塞いでるあたしも、流石に見かねて仲裁に入ったんだ。そしたら、あたしの言葉の何かが逆鱗に触れたみたいでさ、思いっきり突き飛ばされたよ。しかもそれじゃ怒りが収まらなかったみたいで、部屋の隅にあったあたしのギターを壊そうとしてきたんだ」


「本気で抵抗したね。ギターはあたしの命の次に大事な、いや、あのときのあたしに取っては命そのものだった。・・・・・・でもさ、敵うはずないよな。簡単に引きはがされて・・・・・・それで、取られたギターで思いっきり殴られたよ」


 思わず令は藍子の顔を見た。


この凄惨な話とは裏腹に、彼女は淡々とそれを語っている。眉間に皺を寄せているその表情からさえも、怒りや悲しみは伝わってこない。伏せたその目で、激情の仲であがく過去の自分を高みから見下ろしているかのようだった。


「・・・・・・死んだと思ったよ。それくらい痛かった。体がじゃない。心が。頭から全身に黒い水が流れ込んできたみたいに、何も考えられなくなって、体を動かすことも出来なかった。本当に、死んだみたいにね・・・・・・。父さんが買ったCDやグッズを壊していくのをただ見てることしかできなかった」


「そして、父さんはこう言った。『こんなものに時間と金を無駄にしやがって』」


「全身の血が沸騰した。あたしの中に流れ込んでた黒い水は一瞬で蒸発して、真っ黒だったあたしを次は真っ赤な血が支配した。真っ赤な・・・・・・憎しみの色に」


「許せなかった。音楽を、あたしの全てを無駄と、あたしの大好きな音楽があんな古くさい紙切れより無価値だと、あの父さんに言われたことが」


「ふざけるな。無価値なのはどっちだ。その無価値なもののためにどれだけあたしや母さんが苦しめられたと思う。・・・・・・憎しみの言葉で前が見えなくなったよ。時間が経ってもあたしの血が冷めることは無かった。壊されたギターやCDの破片を片付けているとき、頭の芯まで真っ赤に溶けていたあたしは、バカなことを考えた・・・・・・」


「夜も深まった頃だ。あたしは家を出た。家を出て、家の倉庫、父さんの骨董品が置いてあるその場所へ・・・・・・。あたしは・・・・・・父さんの骨董品が置いてある倉庫に、火をつけた」


「なっ・・・・・・!」


驚愕を隠すことは出来なかった。藍子は瞳を閉じて、令の視線を静かに受け止めた。


「言い訳をするなら、本当はぼや程度を起こすだけつもりだった。それで何枚かの絵とかがダメになればいいって。でも、古い紙ばかりだったから、火は簡単に燃え広がった。慌てて家に戻ったよ」


「すぐに大騒ぎになった。火は倉庫全体に広がって、火が消えたのは倉庫も骨董品も、全てが燃え尽きた後だった・・・・・・。父さんは、立ち尽くしたまま、何も言うことができないでいた。火が消えても、警察や消防の人が帰っても、ずっと・・・・・・。火事は、父さんのタバコの不始末ということになった・・・・・・。あの人、よくあの近くで煙草吸ってたしね」


「やり過ぎたとは思った。でも、ざまあみろって気持ちのほうが大きかった。ここまですれば、もう諦めがついただろとか、思い知ったかとか、いろんな言葉が頭の中に湧き出てたよ。その日が終わる頃には、その言葉の奔流は、自分の行為を正当化する物だけになってた。もう、父さんが集めていたものはなくなって、集める気力も無くなった。これを機に明日からは、普通の家族のようになれるんじゃないかなんて、そんなことまで思ってたよ」


「でも・・・・・・父さんに明日は来なかった」


「父さんは・・・・・・自殺した」


「取り返しのつかない事をしたと思った。・・・・・・けど、本当の後悔があたしを襲ったのは、それより後の事だった」


「母さんが、父さんの死を本気で悲しんでたんだ。あんなに酷いことされた父さんだったのに、泣き叫んで、何日も泣き通した。母さんにとって、あんな父さんでも、大切な人だったんだって」


「無価値な物なんてなかったんだ。あたしが無価値だと思っていた父さんのコレクションも、父さん自身も、父さんにとって、母さんにとって価値があるものだったんだ・・・・・・。なにかの価値なんて、人によって違う。あたしが音楽に価値を見いだしたように、誰かにとって無価値なものでも、別の誰かにとっては価値のある物で・・・・・・。ただそれだけの当たり前の事にあたしは気づいていなかった・・・・・・。なのに、あたしは勝手に無価値なものだと決めつけて、それを奪った・・・・・・!」


嘆くその声は悲痛で、自身を苛む彼女の業火でその輪郭がぼやけたようにすら令は感じた。


「・・・・・・これがあたしの咎。・・・・・・それ以降あたしは、どんなものであっても、何かを無価値だと思う自分が許せなくなった。ただのゴミを捨てるときですら、それを無価値だと思っている自分に罪悪感を覚えるほどに・・・・・・」


「あたしに与えられたのは『無価値を知る罰』。あたしが、無意識にでも『いらない』とか『無価値だ』と思っているものにこの左手で触れたら、たちまちそれを燃やしてしまう。あたしの意思とは関係なく・・・・・・」


無価値と思うことを悔いる者に与えられた罰は、『無価値と思う自分を意識せざる得ない力』。この罰がある限り、彼女は忘れることなどできない。何かを無価値だと思う自分を。その業火でなんどでも思い知らされるのだ。いまだ『無価値だ』『無駄だ』と思っている自分を。


触れた物を燃え上がらせるたびに彼女は、苦しめられる。自身の行為を悔いているからこそ、悔いれば悔いるほどにこの罰は彼女を苦しめる。


令は俯いた。火が使える力なんて良い力だと少しでも思っていた自分を恥じた。これは紛れもなく罰だ。しかも、咎人に二度と同じ行為をさせないためでは無く、咎人苦しめ続けるための呪いのような・・・・・・。


腕に炎を灯すたびに涙を流していた藍子の姿が令の脳裏を掠めた。


やろうと思えば、意図的にこの罰を使うことは出来るのだろう。自らを罪悪感と苦悩の中に投じることと引き替えに・・・・・・。


「んだよそれ・・・・・・」


腹に渦巻いていた黒い塊ともに言葉を吐き出さずにはいられなかった。


同情の余地は無いはずだ。確かに藍子は咎を犯した。彼女も同情など撥ね付けるはずだ。しかしそれでも、令の中に立ちこめる霧は晴れない。


体内に渦巻く霧を上手く言葉にすることが出来なくて、ガシガシと令は頭を掻いた。


藍子は続ける。


「令、君は咎の自覚が無いんだよな?」


「あ、う・・・・・・まあ、そうみたいだな。咎負いなのに・・・・・・」


 藍子の話を聞いた後では、自分に咎の自覚がないことが少し申し訳なく感じた。逆に藍子ほどの過去がないと咎負いになり得ないのであれば、さらに心あたりなど無い。


「一乃はああ言ったけど・・・・・・あたしは、君が咎を思い出せないのなら、そのままでいいとも思ってる。こんなあたしみたいな咎、思い出したくはないだろ?」


「・・・・・・辛かったか?」


「今は、そうでもない。最初は訳も分からなくて、悪夢の中に閉じ込められたみたいだった。でも、一乃に会って、この力の意味を教えてくれて・・・・・・。同じ咎負いの君に会って・・・・・・。少なくとも今は孤独じゃない。そりゃあ、まだ辛いは辛いけどさ」


「そうか・・・・・・」


令は天井を見上げた。


「だったら俺、頑張って自分の咎思い出すわ」


「え?」


「だってよ、俺が咎を背負えば、俺はお前に近づく。そしたら俺たち、同じ完全な咎負いだ。お前の孤独がさらに減らせる。俺も強くなるし、一石二鳥だ」


屈託なく笑う令を、藍子はぽかんと見つめていた。やがて、フッと肩を下ろして彼女は微笑む。


「君、いい奴だね」


「まあな」


「なのになんでそんなに喧嘩ばっかりしてるんだ。学校で君のいい噂聞かないぞ?」


「あれは向こうから来てるだけだ。俺からふっかけたことはねぇ」


「そうなのか? でも聞いた話だと・・・・・・」


たわいのない雑談が続く。そのなかで、令は藍子に抱いていたイメージが、最初とは大きく変わっていることに気がついた。見た目通りクールな性格ではあるが、しかし冷たいというわけではない。


最初の印象なんて変わるものだ。


談笑が一区切り付いたところで、藍子は少し表情を引き締めた。彼女はビニールで包まれた自らの腕に咎負いの『烙印』を透かし見ていた。


「令、あたしのこの『烙印』は、実はあたしが倉庫に火をつけた時には、もう刻まれてたんだ」


「え?」


「そうだ。あたしが咎を犯す前から、この印はすでにあったんだ。いつから刻まれていたかはわからないけど、少なくとも数日前にはこの印は刻まれていた。・・・・・・だから、今君に咎の自覚がないということは・・・・・・」


「俺はこれから・・・・・・咎を犯すってことか?」


「・・・・・・」


言いしれぬ不快感が令を覆った。


この烙印を刻まれた人間の運命が既に決められているというのだ。その人間の運命に先んじて与えられるのか、印を与えられた人間の運命がねじ曲げられるのか、それは分からない。


だが、どちらにせよ運命というものがあるということが気にくわない。


自分という存在は、自分のものだ。それが、自分以外の何かによって決められるなんてありえない。


ぶつけようの無い憤りを貯めつつ、令の心には言いしれぬ影が差したのであった。

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