幻燈

宮守 遥綺

雪の路のその先に

 冴え冴えとした空気が耳元でキンと鳴る。

 街灯が照らす夜道はほんのりと白く、燃え尽きる間際の蛍のように淡く光った。

 粗目雪ざらめゆきをザクザクと踏みしめながら、凍える手に息を吐きかける。今日は、寒い。

 後輩が死んだ。

 突然のことだった。

 昨日の部活終わり、「お疲れ様でした」と小さな声で言って逃げるように音楽室を出て行った彼女は、その数十分後に車にはねられ、呆気なくこの世を去ってしまったらしい。

 僕はそれを今日の朝、ホームルームで知った。

 僕は彼女とよく話した。

 僕が所属する吹奏楽部の、同じパートに入ってきた新入生。ジャズが好きで、小学校からアルトサックスを習い始めたという彼女の演奏は、とても巧かった。

 音の深みが僕とは全然違って、彼女が吹くと備品の安物のサックスでも、いつもとは違う優雅な音を奏でた。

 僕は初めて彼女の演奏を聴いた時から自分の音が敵わないことを知っていた。

 あんなにくっきりと色のついた音には敵わない。

 僕の音は、彼女の音の前ではその輪郭がぼやけてしまう。悔しいとすら思えぬほどの実力差を感じると同時に、僕は彼女の音が好きになった。

 入学式の翌日。音楽室で。

 楽しそうに鮮やかな音楽を奏でる彼女を見ながら、「僕もこんな音を出せたら」と思った。

 

 しかし思わぬことが起こった。

冴島さえじまさん!」

 初めて彼女の演奏を聴いた日から二週間。

 一年生を交え、パートごとの練習を始めた日だった。

 練習後、荷物をまとめて音楽室を出た僕を彼女が呼び止める。小走りに近づいてくるその肩口で、柔らかそうな黒髪が揺れていた。

「え、どうしたの」

「あ、えっと……」

 彼女は抱きしめるように持っていた二つ折りのファイルを開き、こちらに見せる。

「ここ……明日の練習の時、教えてもらえませんか」

 彼女の白く細い指が指す場所を覗き込む。

 三ヶ月後の校内演奏会の楽譜だった。指さされた所は、曲の中でも柔らかな音で、ゆったりとした演奏が求められる場所だ。

「私、こういう優しい感じで弾かないといけない所が苦手で……」

「何で僕?」

 心の中で「君の方が巧いのに」と付け足す。

「……冴島さんの音が」

 彼女はどこかいっぱいいっぱいの様子で、小さな声を絞り出した。

「冴島さんの音が、一番きれいだったから」 

 楽譜を閉じて抱え直した彼女の指先が白くなる。いたたまれなくなったのか俯いてしまった彼女の頭に、廊下の照明が銀色の輪を作っていた。

「僕に何が教えられるかは、わからないけど」

 出た声は言葉と同じであまりにも自信が無かったけれど、彼女は「ありがとうございます!」と少し上擦った声で言って、笑った。

 廊下の白い明かりに照らされた彼女は、なぜかとても美しく見えた。

 

 吐く息の真白に、幻燈のように思い出が映る。悲しいほど、鮮明に。

 中でも、初めてというのは殊更に鮮明で、あまりにも美しい。

 思い出は美化されるという。

 だからこんなにも彼女の姿が美しく思い出されるのだろうか。

 そこでふと、気づく。

 昨日まで、部活で毎日顔を合わせた。

 毎日顔を合わせて、毎日言葉を交わした。

 そんな人がもう、「思い出」になっている。

 二度とその時間が戻らない「思い出」という言葉の中に、僕は彼女を既にしまい込んでしまっている。何も感じることなく、自然に。 

 鼓動が速くなるのを感じた。

 彼女とは毎日言葉を交わし、それなりに親しくなった。どうして僕を選んだのかはわからないが、彼女は僕に教えを乞い、僕はその度に初めの日と同じ言葉を返しながらも、彼女に失望されぬよう、必死に様々なことを教えた。それは昨日まであった日常だ。

自分と彼女の演奏を携帯で録音しては、何度も家に帰って聞き直し、違いを分析したりもした。

 僕は人生で初めてと言っていいくらいサックスを練習し、音楽と、その先にいる彼女と向き合った。

 人に嫌われるということはいつだって怖いけれど、彼女に嫌われることは何よりも怖かった。考えただけで手や足に震えが走るほど。

 そんな彼女が、「思い出」になっている。

 まだ涙の一滴すら流していないのに。

僕は自分が考えるよりもずっと、冷たい人間だったらしい。足下で鋭く光る雪が「やっと気付いたのか」と冷たく笑った気がした。

 

 不意に風が吹いた。

 凍える冬の風だ。

 その中に、僕は確かに声を聞いた。

 

 気が付いたときには走り出していた。

 固い雪を踏みしめて、向かい側の歩道へ。その先にある神社へ。

 雪が除けられた石段を駆け上がる。

 鳥居の奥から、風が吹く。

 聞こえる。声が。

 彼女の、声が。

耳元で騒ぐ風を押しのけて、かき分けて。

 上がりきった石段の先の光景に、息をのむ。

 そこはまさに、幻燈の中。

 

 真っ白な境内で揺らめく燈籠。

 炎の色が地面に、空に、明るい影を作る。

 その中心に彼女はいた。

「冴島さん」

 まろい肩の曲線の上で黒髪が、ふわりと揺れる。色の薄い唇が柔らかく弧を描いた。

星野ほしの、どうして」

 信じられなかった。

 足元に目を走らせるが、彼女の足はしっかりと地面についていて、伸びた影が燈籠の火に揺れている。

 彼女が目を細めて笑った。淡雪のような笑顔だった。

「先輩、私、死んじゃいました」

 つとめて明るく放たれたその言葉を聞いた途端、頭の中にサックスの音が響いた。

 鮮やかな色彩を持った、存在感のある音。 

 ほぼ一年、毎日のように聞いた彼女の音だった。

「……星野は今、幽霊ってこと?」

「幽霊、なんですかね。目が覚めたらここにいて。最後に一度でいいから、先輩に会いたいなって思ってたら、本当に会えました」

 「最後」という言葉が僕の胸に穴を開ける。

 星野はもうこの世にいないのだという事実が、彼女を目の前にしながら迫ってくる。空気が冷たいからだろうか。思い切り息を吸うと鼻の奥が重く痛んだ。

「車が近づいてきているのを見たとき、思い浮かんだのは家族じゃなくて先輩でした。言えていないことがたくさんあって、ちゃんと言っておけばよかったな、って」

「……言えていないこと?」

うなずいた星野がおっとりとした動作で頭を下げる。

「冴島さん。いろんなことを教えてくれて、ありがとうございました」

 顔を上げた彼女が笑う。雨が混じった重い雪のような、悲しい笑顔だった。

 しかしそれがあまりにもきれいで。何も言葉が出ない。

「冴島さん、自分の音がぼんやりしてるって気にしてたみたいですけど、私は冴島さんの音が好きでした。優しくて、柔らかくて、ふわふわしてて……。綿雪みたいで、大好きでした」

 僕の音。

 輪郭がぼやけた、存在感の薄い音。

 正面に出ることができず、ひとつではあまりにも頼りない音。

「誰が何を言っても、冴島さん自身が自分の音を嫌いでも。私は、冴島さんの音が好きです。だから……」


「自分の音を、大切にしてください」

 

 彼女が言った瞬間、本堂の方からひとつ大きく風が吹いた。

「星野!」

 その風にさらわれて、笑う彼女が消えてしまう。

 気がついたときには、境内の燈籠は暗く沈黙し、星野の姿は消えていた。

 さっきまでの光景が、夢だったかのように。

 夜の中に静かに佇む神社はひどく寒い。

 押しつぶされそうな静けさに耐えられず歩き出そうとしたとき、ちぎった雲のようなものが、ふわふわと空から降ってきた。

 雪だ。

「あ」

 地面に降りる雪。

 目で追ったそこに、足跡が残っている。

 さっきまで星野が立っていた場所だ。

 夢じゃなかった。すべて、現実だった。

「自分の、音……」

 「大切にしてください」と笑った彼女の顔が分厚い雲に映る。

 胸のあたりから何かが込み上げる。

 温かいものがひとつ、頬を伝った。

                 

 

                                  了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

幻燈 宮守 遥綺 @Haruki_Miyamori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ