翌日の始業式、理子の姿はなかった。美貴は昨日遊びすぎて熱でも出したのかしらと心配した。

 教室に帰って担任教師の話を聞いているとき、美貴は突然物凄い不安感に襲われた。明らかに何か変だった。視界が異様に暗い。耳鳴りがして、自分の心臓の鼓動がガンガン響いた。美貴は立ち上がり、早退を告げるとカバンを掴んで駆けだした。


 住所を当てに理子の家に行った。初めて理子の家に来た。ごくふつうの一戸建てだった。

 呼び鈴を押したが返事はなかった。鳴らし続けていると隣の家の主婦が怪訝そうに顔を覗かせた。美貴は頭を下げて訊いた。

「今日、理子さんは家を出ましたか?」

 主婦はああそういえばと言った。

「朝いったん出て、一時間位して帰ってきたみたいだったわねえ」

 美貴は庭に回るとガラス戸を蹴り割った。主婦が悲鳴を上げた。美貴はカギを開けて土足で上がり込み、風呂場に向かった。

 居た。

 理子が。

 左手を入れた浴槽の水は真っ赤に染まっていた。


 理子は救急車で病院に運ばれた。パートに出ていた母親に連絡され病院に向かった。

 美貴は警察署で事情を訊かれた。そのまま答えた。当然信じてもらえなかった。

 学校から美貴の担任が呼ばれてきた。理子の担任はまず病院に向かった。理子は、まだ死んではいなかった。

 伯父も来た。また母が頼ったのだ。

 美貴はまた伯父にこってり叱られた。二年前のことを持ち出されて「おまえはあんなだから」と言われた。伯父にしてみれば警察に言われるより身内から言ってしまった方がというつもりだったかもしれない。事実警察は美貴を疑った。理子の部屋の机の引き出しから遺書らしき書き置きが見つかったのだ。そこには『ごめんね、美貴』とだけ書かれていた。少なくとも自殺の原因を美貴が知っているはずだと信じられた。

 美貴にはまったく心当たりがない。

 じゃあ何故彼女が自殺を図っていると分かったんだ?と厳しく問われた。

 何故か?なんて分からない、自分には、分かった、のだ!

 どうせ、誰にも分からない!

 わたしのことなんてっ!!!!


 じきに美貴の疑いは晴れた。理子の自殺の原因が分かったのだ。

 理子は妊娠していた。

 自殺を図ったせいでお腹の子は流れてしまったが。

 理子は、ずっと生死の境をさまよっていた。


 美貴は警察から解放された。伯父は美貴にすまなかったなと謝った。美貴は冷たい顔で何も答えなかった。美貴だって誰よりショックを受けていたのだ。

 また、心の傷が深くなった。

 蒼白の頬に一粒だけ涙が流れた。


 理子の運ばれた病院の前に立った。もう夕刻だった。窓に明かりが灯っている。理子はどの窓に居るのだろう? 今はまだ集中治療室だろうか……

 立ち去ろうとした美貴は一人の男の子に声をかけられた。自分と同じ年頃の高校生。

「君、もしかしたら美貴さん?」

「誰?」

「俺、北高の森っていうんだ」

「だから、誰?」

 美貴の冷たい問いに高校生はムッとして言った。

「理子の彼氏だよ。理子、ここに運ばれたんだって?」

 美貴は無言でいる。

「自殺しようとしたなんて聞いたけど、嘘だよな? 理子がそんなことするわけないよな?」

 美貴は怒りを感じた。

「本当よ。手首を切って、浴槽が真っ赤になっていたわ」

 高校生はショックを受けてよろめいた。

「な、なんだよ、それ……。ど、どうしてだよ? どうしておまえがそんなの知ってるんだよ?」

 知ってる?だと? わたしは何も知らなかった、理子のことを、何も!

 美貴は無言で睨んだ。

「なんだよ……。やっぱりおまえのせいなんだな? 理子が自殺なんかするわけないんだ、俺たちは愛し合っていたんだ! おまえが理子に何かしたんだろう!?」

 美貴は無言でいた。こんな男が……

「おまえが理子を死なせたんだ! おまえのせいだ!!……」

 男の目に脅えがあった。美貴に対しての脅えではないだろう、理子の自殺を自分のせいにはされたくないだけだ。こんな男が、こんな男が、理子を、「愛し合っていた」、だ?

 美貴はビュッと拳を突き出した。物凄い風圧に頬をなぶられ、高校生は今度こそ美貴に怯えた。

「な、なんなんだよ、おまえ……」

 腰が抜けそうにしている高校生に背を向けて、美貴は病院を去った。

「おまえのせいだ!」

 まだ声が投げつけられた。

「よくも俺の理子をひどい目に遭わせやがったな!」

 おまえこそ、よくもわたしの理子の体に傷をつけてくれたな!

 美貴は戻っていって今度こそ本当にぶん殴ってやりたい激情を必死に抑えた。

 わたしの理子………、ちくしょう!………………

 家に帰ると美貴は自分の部屋に引きこもった。母親が心配して様子を見に上がってきたが答えなかった。

 『ごめんね、美貴』

 なにが、ごめんね、なんだろう?

 自分一人が美貴を置いて大人になってしまったことがだろうか?

 美貴も感じていた、クラスの女の子たちを見ながら。

 一年二年の頃と比べて見違えて綺麗に、女性らしく変身した子が何人もいた。

 大人になったのだろう……

 別に下世話な意味でなく、大人の女性としての意識を持って自分の人生や生活や自分自身を見るようになったのだろう。

 美貴は、中学校の頃から全然変わっていない。

 大人っぽく見られていたが、それは見た目だけだ。背伸びして、周囲と折り合えず、孤立している今の自分はまったく子どもじゃないか? 全然成長していないのだ。

 今は、周りの女たちがみんな自分より大人に見える。背だけは美貴がクラスで一番高いが。


 ああ、嫌になった。何もかも。子どもの自分も。

 むしゃくしゃして、テレビのリモコンを押した。思いっきりくだらない番組を見て思いっきり悪態をついてやろうと思った。

 やっていたのは「本当にあった恐怖心霊事件ファイル」という実にくだらない番組だった。

 心霊現象=お化けを扱ったオカルトバラエティーだ。

 美貴はこの手の番組が大嫌いだった。

 子どもの頃、家族が別れる前、姉はよく喜んでこういう番組を見ていた。姉には美貴のように霊感は受け継がれていないらしかった。美貴は姉の背に隠れて怖がっていたが、恐かったのは、自分がそういう世界に引き込まれていくことだった。自分がよく感じるモヤモヤとした黒い不安、その姿をはっきり見たくなかったのだ。

 もうどうでもいい…………

 ベッドの上でふてくされて芙蓉は小さなブラウン管テレビを眺めていた。

 不意に、美貴の目が大きく見開かれた。視線が釘付けになり、離せなくなった。美貴は慌てて起き上がり、まっすぐ画面を見つめた。


 天使が、そこに居た。

 いや、女神か………………


 『紅倉先生』と、その女神は呼びかけられた。

 ああ、そういえば……と思い出された。クラスメートたちの会話でその名前を聞いたことがあった。たしか……べにくら……みき…………

 この人が、それか。

 人間離れした、まさに天上の天女の美貌だった。銀色の髪をして、真っ白な肌をして、丸い頬に尖ったあごをして、鼻が高く、丸くお人形のような唇をして、まつげの長い大きな目の瞳が……緑と紫が混じったような不思議な色をしていた。細い首に、きゃしゃな肩。

 この人は、絶対人間じゃない!

 ある種のショックを覚えながら美貴は強く思った。

 美貴は夢中で彼女に見入った。

 紅倉は心霊写真の鑑定中らしかった。

 じっと覗き込むカメラに、紅倉はふいと視線を上げた。ちょっと呆けたような表情。そうだ、確か彼女は目がほとんど見えないんだ。しかしその目が、きゅっと、カメラを、美貴を、見た。美貴はドキンと胸が鳴った。紅倉はニコッと美貴に天使の顔で微笑みかけた。美貴の胸が高鳴った。

 紅倉が言った。

『これはたいへん良い写真ですよ』

 女の司会者が問う。

『悪い霊ではないんですか? 鑑定を依頼された方はたいへん怖がっていらっしゃいますが?』

『どうぞ、ご安心を。ここに写っているのは、天使です』

『天使ですかあ!?』

 司会者の驚きの声と共に画面にはその写真が映し出された。若いカップルが窓の外の夜景をバックに笑顔でブイサインをしている。高いビルらしく外には高層ビル群の窓明かりが広がっている。なんのヒントも必要とせず美貴はその左上の黒い空を見た。そこに灰色の渦が巻いて、なんだか人が叫んでいる顔に見える。……とうていこれが天使には思えないが………

 『本当ですかあ?』とスタジオでも疑問の声が湧く。紅倉はスタジオの声を無視してテレビに向かって天使の笑顔で言った。

『美しいあなた』

 美貴の胸が三度高鳴った。美しいあなた……美しい貴方……美しい貴方……

 美・・貴・・・・

 紅倉がニッコリ微笑んだ。美貴の背にゾクリと電気が流れた。

『ちょっと、右手を出してくださる?』

 美貴は、右手を持ち上げ、

『開いて、画面に向けて』

 手のひらを開いて、画面に向けた。

『ちょっと、借りるわね』

 美貴はギョッと身をのけ反らせた。開いた手のひらから、何かが、抜き取られた?!

 ……いや、美貴の体から、何か、エネルギーのような物が、放たれたのか?………

『はい、出来上がり』

 紅倉はカメラに手元の写真を示した。

『あ、これは?!』と司会者から驚きの声が漏れる。

 左上の灰色の渦が、金色の光の放射に変わっていた。

『先生、手品と違うんですかあ?』とゲストから疑問が問われた。紅倉はおほほと童女のように笑った。

『まあ、確かに手品でしたわね。でも、これは間違いなく天使の光ですよ。はい、写真のお二人さん、これで安心ですよ』

『じゃあさっきのままじゃやっぱり……?』

 うふふ、と紅倉は悪戯っぽい笑顔をテレビに向けた。

『ありがとう。美しい貴女。お礼に、わたしの女神さまが一つ、貴女の願いを叶えてくださいますよ。さあ、何を望みます?』

 美貴は混乱した。これは、夢か? こんな番組がまさか生放送じゃないだろう? 現に明らかに編集されている。それなのに、これは、まるで…………

 自分に語りかけているようじゃないか!?

 紅倉は優しい笑顔を美貴に見せている。

 美貴はうなずき、祈った。

 願いは決まっている。

 ・・・・・・・・・。

 スー………ッと、天上からあの金色の光が差した気がした。

『はい。確かに願いは聞き届けられました。でも、それは貴女の力なんですよ』

『先生、さっきから誰に話されているんですか?』

『ウフフ、だから、美しい、あ・な・た。ね?』

 美貴は、奇跡を信じた。

『じゃ、次行きましょうか?』

『はい。では次の鑑定依頼です。拝啓、番組スタッフの皆さん、紅倉先生。……え〜、先生は他にもいらっしゃるんですが、紅倉美姫先生、大人気ですねー。えー、先生に是非視ていただきたい写真があります。それは………』

 番組は続く。紅倉は何事もなかったように軽やかで優しい表情で心霊写真の鑑定を進めていく。美貴は、もう彼女以外まったく目に入らなかった。

 翌日登校すると担任に呼ばれ、理子の容態が持ち直したと伝えられた。もう命はだいじょうぶだろうと。美貴は、嬉しかった。


 その後理子は二度と学校に来ることなく退学した。美貴もその後会うことはなかった。

 一通だけ手紙を出した。

 貴女の幸せを心から願っています。

 その一文だけしたためて。


 年が明けて三月。美貴は国立大の入学試験に受かった。

 入学手続きの書類を送らなければならない。

 美貴は迷って、テレビ局宛に一通の手紙を速達で送った。一週間待って返事がなければきっぱり諦めようと思った。だが、二日後に速達で返事が来た。東京都内のある住所が記されていた。

 美貴はあの番組の担当者宛に紅倉先生の下で働きたいから紹介してくれと依頼する手紙を送ったのだ。

 まさか返事は来るまいと思ったら、来た。

 そしてその日のうちに居ても立ってもいられず住所を訪れた。某高級住宅街の広いお屋敷。白壁の続くその敷地面積に美貴は圧倒された。テレビで見た紅倉美姫の印象とはだいぶズレがあった。その馬鹿でかい屋敷はひどく俗物に思えた。ためらいが生じたが、インターホンのスイッチを押した。表札はなかった。サーーーッとスピーカーから機械音が聞こえたが、返事はなかった。帰ろうかと思ったが、ふと、門扉を押したら、あっけなく開いた。恐る恐る広い庭を通って玄関の呼び鈴を押した。中でベルの鳴る音が聞こえたが、誰も出てこなかった。

「ごめんください」

 引き戸を開け呼びかけたが、それでも誰も答えなかった。

 美貴は心配になった。これだけのお屋敷で誰もおらず、戸締まりもされておらず、何か事件かと思った。

 きゃしゃな紅倉の天使のような笑顔が脳裏に浮かんだ。

「先生!」

 美貴は屋敷に上がり込み、

「先生! 紅倉先生! どちらですか!?」

 と大声で呼ばわって駆けめぐった。

 紅倉美姫は、台所で膝を抱えて丸くなっていた。

 美貴は驚き、なんと言って良いやら、びっくりしたまま、

「あの……、わたし、本多美貴といいます。あの……、先生の弟子にしてください!」

 と、勢いよく頭を下げた。

 ギュウ〜〜〜、と、音がした。は?と美貴は顔を上げた。

 紅倉美姫はか細い声で美貴に言った。

「おなか……すいた………」


 それが、二人の出会いだった。


 喪服の美貴は思い出し笑いをした。

 あの時の先生ったら、通いのメイドさんの用意していったお料理が分からず、寒がりなのに暖房の付け方も知らず、お腹が減って、寒くて、子どものようにべそをかいて丸まっていたのだ。

 まったく、なんて人だろう。

 美貴が料理を温めてやるとよほどお腹が空いていたようでがっついて食べた。そしてお腹を壊して二時間トイレにこもっていた。美貴は家に電話をかけて友だちの家に泊まると告げた。大学に受かったばかりなので母もうるさいことを言わずに許可した。

 呆れたことに先生は美貴が誰か知らなかった。食べている間に美貴が話したことをまるで聞いていなかった。新しいメイドと思ったらしい。怒られるのが怖くて無理やり急いでがっついたようだ。トイレから出てきてげっそりした先生に改めて説明すると、いきなり慌てだし、毛布に隠れるようにして美貴を見た。

「居てくれる? わたしの側に?……」

 紅倉が人を恐れるのは最初に会ったときから分かった。

 美貴は、心からの笑顔で言った。

「居させてください。先生のお側に」

 こうして美貴は紅倉美姫先生のアシスタントに就職した。


 大学入学は辞退するつもりだったが、それは先生に止められた。

「わたし、あなたの人生に責任持てないから」

 と。すっかり先生に全てを捧げるつもりでいた美貴はがっかりしたが、

「あなたが、わたしの外の世界の窓口になってくれたら嬉しいから」

 だからあなたは外の世界との関わりを捨てないでほしいと言われ、承知した。

 ただし、美貴が合格した大学は遠く離れた地にあって……それは家を離れたい為、敢えて選んだのだが、

 先生のお屋敷から通える都内の女子大を受け直した。受験は楽勝だったが、せっかく受かった国立大を袖にして、「おまえは何を考えているんだ!」とまた伯父に叱られた。しかし今度ばかりは美貴は折れずに我を通した。最終的には、大学に行くだけマシ、ということで決着した。


 美貴は紅倉先生のお屋敷に寄宿し、先生のお世話をし、先生のお仕事の手伝いをしながら、大学に通い出した。

 美貴は、嬉しくて仕方なかった。

 美貴が求めていたものを、先生は全て与えてくれた!

 美貴は、心から笑うことが出来た。

 家族が別れてから決して感じることの出来なかった安らぎを、先生はいとも簡単に与えてくれた。

 それは、先生が心から美貴を頼ってくれること。美貴を、この世で一人自分だけを、特別に必要としてくれること。

 美貴が、望み、……失ったもの………

 先生は、すべて、与えてくれた。

 美貴の幸せは、ここにある!



「なんですか、不謹慎に」

 思わず思い出し笑いして母にたしなめられた。葬式は済んで、会場を移しておとき(葬儀後のふるまい)の最中である。和んだ席だが、伯父はまだ、そこ、棺に居る。

 親戚、知り合いが集まる席に、本多の父と弟、姉と益村の父もいた。さすがにあちらの奥さんとお兄さんはいなかったが。本多の父と益村の父も礼儀正しく、特にわだかまりもなく故人の思い出を語り、それぞれの近状を話した。高校生になった弟と大学生の姉も仲良く会話している。母はちょっと居心地悪そうにあちこち挨拶に飛び回っている。

 美貴は和やかな心で父たちと姉弟たちを眺めた。一時嫌悪感を抱いていた父と弟だが、父は新しくできた年頃の娘にどう接したらいいか戸惑っていただけだし、弟も急にできた美人過ぎるお姉さんにドキドキしていただけだ。二人にとって今や美貴は自慢の種だ。

「あーあ、あんた上手いことやったわねえ。あんな車運転して。あたしも来年就職なのよね〜。あーもう、胃が痛いわ」

 と、姉に愚痴られた。たしかに美貴は最新ハイブリットカーの最上級モデルに乗っている。もちろん美貴の持ち物ではなく、美貴はあくまで先生の運転手だが。先生のアシスタントになってからすぐに運転免許を取った。いきなりこの高級車を運転させられてびびったが、美貴は運転が上手かった。先生も美貴の運転する車以外では絶対に外出したがらなかった。

 美貴は今ふつうに笑うことが出来る。親しい者たちに対して。


 伯父に最後の別れを告げた。棺の窓から白い顔を覗くと、伯父が微笑んだ。まだまだ若すぎる死で残念でならないが、こうして、ようやく認めてもらえた。

「お世話になりました。伯父さん。さようなら」

 寂しいが、美貴も微笑んで別れを告げられた。


 火葬も済み、美貴は家に帰ってきた。

「先生、帰ってまいりました。お昼は食べましたね? はい、けっこうです。ではわたし、ちょっと買い物に行ってきます」

 特に必要もなかったのだが。

 帰り道、赤信号の合間に街並みを眺めていると、お菓子屋でチョコレートの値引き販売の張り紙が目に入った。二月十七日。伯父は十四日、バレンタインデイに亡くなったのだ。

 安売りされる売れ残りのかわいそうなチョコレートたち。

 思い出した。

 高校二年の二月、美貴は理子からバレンタインデイのチョコをもらった。美貴は三月のホワイトデイにキャンディーをお返しした。ラブラブだった二人の、最後の、純粋に楽しい思い出だったかもしれない。

 売れ残りで悪いけれど先生にチョコレートをプレゼントしようと思った。準備するつもりだったのだが、先生のお仕事があり、伯父の危篤の知らせが入って、十四日にはプレゼントできなかった。

 チョコレートなら先生でも食べられる。たくさんはダメだが。

 ホワイトチョコにしようと思う。

 そういえば美貴の芸名、芙蓉ふようは、先生の香水にちなんで決めた。幼い頃美貴は白い芙蓉の花をバラと間違えて姉に教えられたことがあったのだ。「薔薇美貴」じゃなんなので、真っ白な芙蓉の花を思い出した。先生の身にまとう薔薇の香水のように、芙蓉も先生に常に寄り添い、守っていこうと思ったのだ。

 芙蓉美貴。美貴はこの新しい自分の名前をとても気に入っている。

 先生に渡すチョコレートを選びながら、芙蓉はとても華やいだ気分でいる。

 少女のように。



 終わり


 二〇〇八年二月作品 二〇二〇年三月改稿

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霊能力者紅倉美姫19 薔薇の独り言 岳石祭人 @take-stone

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