美貴は昼休みと放課後を図書館で過ごすようになっていった。

 そういえば美貴は本をあまり読まなかった。子どもの頃は母や姉によく物語の朗読をねだっていたように思う。楽しかったように思う。だから、その後ずっと本が嫌いになっていたのか。この頃になるとだんだん気付いてきた。自分が苦手なものは自分が子どもの頃大好きだったものだと。

 再び本を読もうかと思ったのは「2001年宇宙の旅」という映画を見てニーチェに興味を持ったからだ。この映画はたまたまテレビでやっているのを「変な映画だ」と思いながら結局最後まで見てしまった。さっぱり分からなかった。後で忌まわしきあの「ロリータ」を撮った監督の作品だと知ってひどく嫌な感じがした。

 その「2001年宇宙の旅」の中で印象的な音楽があった。クラシックの楽曲で「ツァラトゥーストラはかく語りき」という変なタイトルのリヒャルト・シュトラウスという作曲家の作った曲だそうだ。この変なタイトルが「ニーチェ」の哲学書に関係するらしい。

 たまたま歴史の授業で教師の無駄話の中にこの哲学者の名前が出てきて、なんでも「超人思想」を唱え、あのナチスヒトラーに利用されたのだそうだ。

 それをふと思い出してどんなものなのか図書館の蔵書を開いてみたのだ。

 眠くなる前に頭が痛くなった。分厚い本をパラパラ飛ばし読みした美貴の結論は要するに「強者の論理」で、「強者は強い故に正しい」「弱者は弱い故に悪意を説いて人を貶める」といった調子で、なるほどこれはナチスが大喜びで利用するだろうと美貴は嫌悪感を抱いた。こんな一面的な読み方ではニーチェに怒られるだろうが。

 だが、「強い故に正しい」とした論理は、美貴が合気道に求めたものだった。美貴は合気道を当初誤解して入門した。他の武術同様、当然試合があって勝ち負けがあるものだと思い込んでいた。あの空手の黒帯とさしたる違いもなかったわけだ。

 美貴はますます道に迷った。


 時が過ぎ、二年の秋になった。

 美貴は孤高を守りながら、けっきょく流れに任せるまま何もなし得ず、上っ面だけの空虚な学園生活を送っていた。それでも勉強はできたから学校にとっても親にとっても優等生だった。

 女の子にももてた。毎日のように下駄箱にファンレターが入っていた。美貴はため息をつきながら律儀にそれを全部読んだ。そういうところがまたモテた。正しくあろうとする美貴は人に誠実であろうともしていた。周りから浮こうがその態度は変えなかった。

 だからクラスの中では笑い物にされることが多かった。

 別にかまわない。多くは悪意のない感想だ。よそのクラスでは「イジメ」の噂もあったが、美貴のクラスにはなかった。美貴に自覚はなかったが、それは美貴のおかげが大きかった。美貴を笑う者の中には悪意のある者もいた。だが「正しく」「強い」美貴に面と向かって悪口を言えるような者はいなかった。何かあって、美貴が一つ視線を送れば、その何かはすぐに立ち消えた。口に出さないまでも美貴に憧れと感謝の視線を送るクラスメートは数人いた。そうした視線にも美貴はまるで揺らぐことはなかった。美貴はただ純粋に「自分」であるだけだった。ただ、「自分」がどこに向かってどうあるべきなのか、その迷いは常にあったが。

 昼休みと放課後の図書館通いはすっかり毎日の日課になっていた。

 やはり小説を多く読んだ。あまり重い文学物は眠くてたまらず、エンターテイメントの推理物やSF、ファンタジーを多く読んだ。大した読書家ではない。

 歴史物も読んだ。哲学書よりよほど人間存在に対する答えが多く含まれているような気がしたし、そもそも人間存在に意味なんてないようも思えたが。

 図書館に通いながら、美貴には一人、気になる人がいた。


 同学年の生徒だ。二年になるときのクラス替えで彼女と同じクラスにならないかと心密かに期待したが、また違うクラスだった。

 彼女は住友理子(すみともさとこ)といった。

 物静かな少女だった。色白の肌にまつげの長い目。本ばかり読んでメガネをかけている。夢中になるとブツブツつぶやく癖がある。小さなお人形のような唇が可愛いと美貴は思っていた。

 美貴は本を読むふりをしながらこっそり彼女を覗き見ていた。

 彼女を見ていたかった。

 彼女を見ていると何か心ときめくものがあった。

 ガラス玉の中に一つだけ混じった宝石を見つけたように思った。

 自分だけが知っている綺麗な、宝物。

 「お姉さまになってほしいです」

 と、下級生からのファンレターによく書いてある。ファンレターのほとんどは一年生からだ。

 お姉さま……

 彼女たちは自分にいったい何を期待しているのだろう?と不思議に思った。たまに会う姉のことを思った。姉との会話はスムーズだった。お互いの近状報告。しかしそれだけだった。いっしょにいた、家族だった頃の、濃密な親しさはすっかり失われていた。

 お姉さま……

 お姉ちゃん……

 姉に感じていた濃密な親しさ、その関係を彼女たちは望んでいるのか?

 無理だ。美貴は人が苦手だ。男も嫌いだし、女の子の相手も疲れる。

 美貴は一人がいいのだ。一人が似合っている。

 …………本当にそう思っているか?

 本当に人を遠ざけ、独りがいいと思っているか?

 孤独感を、

 彼女を見ていると思い出してしまう。

 平気だった独りでいるということを、彼女を見ているとひどく苦しく思う。

 こんな風に毎日図書館にいて、あなたは寂しくないの?と問いたい。

 いえ、あなたは本を読むのが好きなのね。とっても楽しそうにしているもの。

 わたしはね、そんなに好きなわけじゃないのよ。

 他にすることがないから本を読んでいるだけ。

 人との関わりが煩わしいからここに避難しているだけ。

 本当はね、

 寂しいのよ。

 本当はね、

 あなたと親しくなりたいのよ。

 あなたを見つめる視線に、気が付いて。

 ………………

 が、美貴は目を逸らす、ふと彼女が本から顔を上げた時に、持ち前の鋭い勘でそれと予知して。彼女は疲れた首を運動させてまた本にうつむく。小さな唇が無意識に文字を辿り、時折、微笑む。

 その微笑みをわたしに向けて。

 その唇を、わたしに…………


「あ〜〜〜〜〜……」

 まったく毎日毎日こんな手紙ばかり読まされているから変な気持ちになってしまうのだ、と美貴は律儀に下級生からのファンレターに目を通す。

 お姉さま。

 わたしが誰かの「お姉さま」になってあげたら、この手紙攻撃は無くなるのかしら?と思う。どんなことをしてあげたらいいのかしら………

 ふと、一通の封書に惹かれた。他がかわいいピンクだの水色だのの封筒なのに対して、それは白い事務用の封筒で、ていねいな綺麗な文字で「本多様」と書かれていた。


 あなたの好きな本はなんですか?


 便せんにそれだけ。

 美貴が図書館に毎日通っているのはファンなら誰でも知っているだろう。何を読んでいるのか興味もあるだろう。

 美貴は彼女、住友理子のことを思った。

 その封筒に返事を書いて入れた。帰りに下駄箱に入れておいた。


 翌日放課後。


「嘘よ」

 美貴が言うと住友理子はビクッと顔を上げてカアーッと真っ赤になった。美貴は笑って言った。

「絶対誰も読まない本を選んだだけ。目立って、すぐに犯人が分かるようにね」

 それは分厚い、「夢野久作全集〜ドグラマグラ」だった。

 住友理子は何か言いたそうにしながら言葉が出てこないようだった。

「来て」

 美貴は周りの目を邪魔に思って理子の腕を取ると立たせた。理子は置きっぱなしの本とカバンを気にしながら美貴に引っ張られるまま書架の奥に連れ込まれた。めったに誰も来ない哲学書のコーナーだ。

「わたし一組の本多美貴。知ってるわよね?」

 理子はうなずいた。

「わたしは……」

「三組の住友理子さん。知ってるわ。あなたの好きな本は、『モモ』『人間になりたがった猫』『時の旅人』『トムは真夜中の庭で』『床下の小人たち』『クローディアの秘密』」

 得意になって言う美貴を理子は小さく睨んで、笑った。

「やっぱり……」

「ばれてた?」

 美貴はその本たちを理子の後を追って図書館で読んでいた。二人はクスクス笑い合った。理子は言った。

「でもわたし読んだわよ、あの本」

「ドグラマグラ?!」

「ええ。中学の時に。おかげで三日間熱を出して寝込んだけど」

「わたしは五〇ページ読まないうちに目眩がしてきてギブアップしたわ」

 そうか、読んだんだ……と考え込む美貴に理子はまた笑った。

「本多さんって面白い人ね。もっと……恐い人だと思ってたわ」

「美貴って呼んでくれる? その方が嬉しいんだけど」

「じゃあ、わたしは理子って呼んでくれる?」

「理子」

「美貴」

 二人は見つめ合って嬉しく微笑んだ。


 それから二人は昼休みと放課後をいつも二人で過ごした。楽しかった。理子は美貴の読書の先生になった。面白い本を紹介してくれ、その感想を聞いてくれた。美貴も理子の話をたくさん聞きたがった。理子の本に関する知識は膨大だった。ファンタジーとSFを中心に、それもハードなものからソフトなものまで幅広く読んでいて、その読み方も奥深く、理子の言葉はイマジネーションに溢れていて、物語を読むより面白く、心地よかった。理子の言葉と、声と、表情が。

 やがて二人が「つき合っている」という噂が広がり、好奇の目が向けられたが、美貴には却ってそれが心地よかった。下級生から「恋人なんですか?!」という涙ながらの手紙を受け取ったりもした。

『そうよ』

 と美貴は心の中で微笑んだ。

『理子はわたしの恋人。わたしの大好きな彼女。わたしだけの大切な宝物』

 と。幸い理子は目立たない存在だった。地味で大人しく。その光り輝く魅力を美貴だけが知っている。自分だけが独占している、理子にとって自分が特別な存在であることが誇らしく、嬉しかった。

 恋をしていた、と思う。


 しかし幸せな時は存外続かなかった。

 春休みが終わり、三年になると、理子は図書館に現れなくなった。

 クラスに新しい友だちができたようだ。美貴が一年の一時期そうだったようにその友だちにつき合ってカラオケに行ったりしているらしかった。

 美貴は寂しかったが、理子にそれは言えなかった。自分たち二人きりの世界に閉じこもるより、多くの友だちとつき合って外に世界を広げていく方がいいだろう。

 そういうことを、三年になって周りのクラスメートたちを見ていて感じた。

 理子とは廊下ですれ違っても軽く挨拶を交わすだけで、二人の親密なお付き合いは終わってしまったようだった。

 理子にはいつも同じクラスの友だちが付いていた。

 廊下ですれ違ったときその友だちが自分のことを何か言って笑っていたようだ。

 理子も……いっしょに笑っていたのだろうか…………


 美貴も図書館に行かなくなった。三年になって「受験勉強」という言い訳ができた。一流校を目指すクラスメートの中には一学期早々から教科によって授業に出てこない者もいて、教師もそれについて何もとがめなかった。別のところで自分の勉強をしているのだろうと。そんな雰囲気の中美貴も他の者に煩わされることなく一人でいられた。ファンレターの数もめっきり減った。美貴も、それを読まなくなった。

 どんどん自分を孤独に追いやっていた。

 理子のいない世界では孤独に浸っていたかった。

 部屋で、ふと、涙を流した。

 あんなに仲が良くて楽しかったのに、

 どうして、

 わたしを裏切ったの。

 美貴は孤独に泣いた。

 寂しかった。

 夏休みも受験勉強で過ごしていた。

 最後の一日。前夜に思いがけず理子から電話がかかってきた。

『明日、よかったら、ドリームランドに遊びに行かない? 二人で?……』

 美貴は「うん。行く」と返事した。嬉しかった。

 開園三十分前にゲート前に着いたが、もう長蛇の列ができていた。けれど待っている間もこんなにワクワク楽しかったことはない。となりに理子がいる。美貴は笑顔を向けた。何事もなかったように。理子が自分の元へ戻ってきてくれた。嬉しかった。理子もニッコリ笑ってくれた。自分の知っているそのままの理子だった。嬉しかった。

 入場してからもどこへ行っても長蛇の列だったがめげずにアトラクションを楽しみ続けた。ジェットコースター系でキャーキャー悲鳴を上げて楽しんだ。ロマンチックなショウをうっとり眺めた。美貴は自分がこんなに女の子だったとは知らなかった。パレードのダンサーたちに誘われて理子といっしょに踊った。美貴は誰より上手かった。ダンサーたちよりも。理子は目を丸くして喜んだ。嬉しかった。

 食事を楽しみ、夜のパレードを見た。お城のショウを見て、花火を見た。美貴は理子の手を握り、言った。

「好きよ。理子」

 理子は花火を見上げたまま、

「ありがとう」

 と、美貴の手を握り返した。

 花火は綺麗だった。その色とりどりの光に照らし出される理子の横顔は、さまざまな宝石のように綺麗だった。

 自分の、理子だ、……と、美貴は思っていた…………

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