ばあちゃんは東京オリンピックの夢を見る

山南こはる

ばあちゃんは東京オリンピックの夢を見る

 あおいというのが祖母の名で、昭和十三年生まれにしてはずいぶんしゃれた名前だと、昔から思っていた。


 色白でくっきりした二重で、左の目元に小さなホクロがある。若いころの写真を何枚か見たことがあるが、今とあまり変わらなかった。美人だったと思う。でも子どものころの写真は一枚も見たことがない。空襲で焼けてしまったのだそうだ。



 祖母は孫の目から見ても不思議な人で、たまに予言めいたことを口にしては、周囲を驚かせていた。


「今日はでかけるの、やめておきなさい」


 あの日。三月十一日の金曜日、祖母はそう言って空を見た。


「なんで?」


 もう少しで春休み。遊びたいざかりの自分。友だちがもうすぐ迎えに来る。はやくランドセルを置いて、支度をしなくては。


「地震が来るのよ」

「地震?」

「そう、とても大きな地震よ」


 午後二時四十六分。

 ほんとうに地震が来た。とてもとても、大きな地震だった。



 東日本大震災だけではない。最近では新型コロナウィルスの流行も予言してみせて、それらは実際に起こり、日本中が大混乱に陥った。


 祖母の葵は今年の五月に、八十二歳でこの世を去った。死んだ当初は悲しかったけれど、時間の流れは感情を癒す。このごろは祖母のことなど、考えたことはなかった。




 ある少女の誘拐事件が起きたのは、先週の日曜日だ。まだ警察は公開捜査に踏み切っていない。ただネットでは、その子の名前が『葵』であるともっぱらのウワサだった。葵ちゃん。昭和十三年生まれの祖母にしてはハイカラだが、平成生まれの女の子なら、そう変な名前ではない。


 夏。二〇二〇年の夏。コロナウィルスは収束したし、オリンピックは無事に開会される。


 テレビをつける。オリンピックまであと一週間。セミの鳴き声が聞こえる。アパートの前の木に止まっているセミ。西日が室内に差し込んでいる。生ぬるいそよ風。風鈴がゆれる。冷蔵庫のうなるような排気音が、うるさかった。



「二〇二〇年にはね、東京でオリンピックをやるんだよ」


 祖母の葵が口にするオリンピックとは、いつも二〇二〇年の、東京オリンピックのことだった。一九六四年の東京オリンピックだって見ていたはずの、祖母の葵。

「ばあちゃん、東京オリンピック、日本は何個、メダル取ったの?」

「さあねえ、それは分からないね」


 そう、いつも分からないままだった。未来予知が得意な祖母だって、分からないことはあるのだと、子ども心にそう納得せざるを得なかった。



 オリンピックの話題ばかり。たまにニュース。やれ教師が生徒へのわいせつで捕まっただとか、コンビニ強盗をしたフリーターの男の話やら。そして合間に少女誘拐事件。


「……」


 テレビの音を背景に、缶ビールを開けた。泡立つ黄金色の液体。缶の表面は早くも汗をかいている。

 床に開きっぱなしだった文庫本を手に取る。ハインラインの『夏への扉』。コールドスリープとかタイムトラベルだとか。SFなんて、現実には起こりっこないからSFなのだ。でも猫はかわいいと思う。



 祖母のことが、頭から離れない。


 オリンピックのことだけではない。山手線に新しい駅ができるとか、築地市場が転移するだとか。あとはアメリカ大統領選挙の結果だとか。


 祖母はなんでも知っていた。でもそれは、二〇二〇年までのことだけだ。祖母はオリンピックの結果を知らなかった。コロナウィルスが収束したことを知っていても、オリンピックが開催されることを知っていても、オリンピックの結果は知らなかった。


 興味がなかった? そんなことはない。祖母はスポーツ観戦が好きだった。もしほんとうに未来予知ができるのなら、祖母は真っ先に、オリンピックの結果を知りたがっただろう。


 でも祖母は知らなかった。オリンピックの結果を。大震災の後には原発事故、トランプ大統領が勝って、コロナウィルスが流行して。祖母は次から次へといろんな予言をしていたのに、東京オリンピックの先、二〇二〇年の秋以降のことを、一度も口にしたことはなかった。


「ばあちゃんは、未来人」


 そんなわけはない。コールドスリープとかタイムトラベルだとか。SFなんて、現実には起こりっこないからSFなのだ。


 夏への扉を置いた。つきっぱなしのテレビ。焚かれるフラッシュ。記者会見。少女の写真が映し出される。


 少女誘拐事件。警察はついに公開捜査へと踏み切ったのだ。


「あ……」


 思わず声がもれた。左足がビールの缶にぶつかる。畳の上にこぼれていく液体。セミは鳴いているし、夕方だし、もうじき東京オリンピックがはじまろうとしているのに。


 それでも扉は開いたのだ。二〇二〇年の夏へと向けて。


 テレビに大写しになった少女の写真。目を見開いた。

 葵ちゃん。小学校の五年生。鮮明な写真。色白でくっきりした二重で、左の目元に小さなホクロがある。


「う、うそ……」


 葵ちゃん。昭和十三年生まれの祖母にしてはハイカラだが、平成生まれの女の子なら、そう変な名前ではない。

 若いころの写真なら見たことがある。美人だった。でも子どものころの写真は一枚だって見たことがない。空襲でぜんぶ焼けてしまったから。


 セミが頭の中で鳴いている。ハインラインの表紙が西日で照らされている。うちに猫はいない。ビールが畳の表面に、ゆっくりと染み込んでいく。


「ば、ばあちゃん……」


 葵ちゃんはばあちゃんの顔をしていた。色の白い肌、くっきりとした二重。左目の小さなほくろ。歳をとっても面影を残している顔。いなくなった葵ちゃんは十一歳で、平成生まれで、自分の知らない葵ちゃんという女の子で。

 でも公開された写真はどう見ても、昭和十三年生まれの、二〇二〇年の東京オリンピックを予言してみせた、祖母の葵のものだった。


「ばあ、ちゃん……」


 声が震えた。晩年の祖母を思い出す。甘い胃ろうと排せつ物の臭いが溜まった老人ホームの四人部屋で、眠るようにして息を引き取った祖母。「葵さんってかわいい名前だよね」と、いつも職員さんに言われていた祖母。


 祖母の葵は東京オリンピックを楽しみにしていた。誰よりも誰よりも、楽しみに待っていた。画面の中の葵ちゃんの写真がぼやける。


 今なら分かる。祖母は東京オリンピックを楽しみにしていたのではない。二〇二〇年の夏を待ち焦がれていたのだ。自分が消えた夏を、二〇二〇年の夏へと戻れるのを、心の支えにしていたに違いない。


 コールドスリープとかタイムトラベルだとか。SFなんて、現実には起こりっこないからSFなのだ。ハインラインの表紙はツルツルしていて、キジトラの猫の背中の上に、暮れた西日が影を落としている。


 警察の記者会見は続く。矢継ぎ早に飛び交う記者の質問。


 ぜんぶムダだ。だって五年生の葵ちゃんは今ごろ、過去にいるのだから。


 祖母の葵は昭和十三年生まれだった。昭和十三年に、五年生の十一歳を足して。きっと昭和二十四年にいるのだろう。

 戦後の混乱期。昭和十三年生まれにしてはハイカラな名前の葵さんは、二〇二〇年の夏を目前にして死んだ。


 コールドスリープとかタイムトラベルだとか。SFなんて、現実には起こりっこないからSFなのだ。


「ばあちゃん……」


 二〇二〇年、夏。オリンピックはもう少しではじまる。

 祖母の葵が予知できなかった先の未来は、もう目の前までせまっている。

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