海鮮丼を食べながら

 カーキ色の厚い布の鞄の中で、ブリュンヒルデはバケツに入れられていた。彼女を背負っているジークフリートが船体から港への階段を降りる度に、ゆらゆらと揺れる衝撃があったが、バケツをしっかりと太い紐で固定されているため、安定しており、不安感は無かった。むしろ初めての体験で、心地よいくらいだ。

「……辛くは無いか」

 ジークフリートが、ブリュンヒルデにだけ聞こえる小声で彼女に問うた。ブリュンヒルデは、ジークフリートにだけ見えるように開けられた縦に長い穴の前で、大きな瞳をぱちくりとさせて応える。そうするとジークフリートは安心したようなやわらかな笑顔を浮かべた。

 ジークフリートの足音で階段を降りきったことを悟ったブリュンヒルデは、魚の尾である膝を両腕に抱いて身を丸くした。船から降りれば、港である。周囲に少ないとはいえ人がいるかもしれない。緊張から真白き二の腕に震えが走った。ジークフリートたちが港を歩いていく、重量のある確かな足音だけが、彼女の耳に聞こえていた。

「ーーおい」

 ジークフリートの足が止まった。港の男に話しかけられているらしい。

 ブリュンヒルデは心臓がばくばくと高鳴るのを感じた。思わず片手で息を止める。指の間から漏れる吐息が、自分で考えていた以上に熱かった。ジークフリートたちがふたこと、みこと、男と会話する。男は訝し気に咥えていたパイプを吸ったが、やがて興味がない素振りで顔を海に向け、白い息を吐いた。

 ジークフリートたちはなるべく早足で港を去って行った。

 ブリュンヒルデは片手をあまりにも強く口に押しつけていたため、苦しくなってしまい、顔を赤くしてぜいぜいと呼吸をした。だが周囲に仲間以外の人がいなかった為、彼女の呼吸音で存在がばれることは無かった。彼女の折り曲げた尾が、バケツに入れられた海水の中で跳ね、ぱちゃぱちゃと鳴る。

「あっ」

 ブレンは早足で走る一行の中で、一人立ち止まった。

「おい、どうした」 

 アルべリヒが若干イライラとしながら隣を振り向き、ブレンに話しかける。

 ブレンはくちびるを噛み、元々白かった顔をさらにしろくしている。鼻に浮いたそばかすの朱色が、さらに濃くなっているように見えた。腹を押さえ、うずくまる。

「おい、腹がいてえのか。気持ち悪いのか。大丈夫か?」

 さすがにアルべリヒも心配になり、小柄なブレンの顔に近付くように腰を屈める。

「まさか船酔いか……? 胃薬でもあっただろうか」

 ジークフリートはズボンのポケットをまさぐる。それを制するかのように、ブレンはさっと手を上げ、ジークフリートの手にそっと重ねた。

「おい、ブレン・フィッシャー……」

「お腹が……」

「あ?」アルべリヒが眉を上げる。

「お腹が……、すいて……」

 そう言うや、ブレンは顔を真っ赤にした。そして彼のベージュのジャケット越しに、「ぐー」という腹の音が鳴る。

 一同は溜息をついた。

「ここがクルワズリ……」

 ブレンは空腹で痛む腹を押さえながら、ぼうっと天を仰いでいた。彼の頭上には赤や橙、黄色などの暖色系の布で作られた傘が幾重も重なっている。明るい陽光が差し、ブレンの白い肌を重なったとりどりの傘の色とひとしく、淡く染めていた。

「クルワズリってこおんなとこだったのか」

 アルべリヒは周囲を見渡す。両手をサスペンダーのポケットの中にしまい込み、口を開けていた。そよ風が吹き、アルべリヒの赤茶色の前髪を揺らす。久しぶりの穏やかさだと感じた。

 耳をすますと、そよ風と共に玲瓏な音楽が流れてきた。

「何だ、これ……。ヴァイオリンかぁ?」

 弓で何かを弾く音。

 聞き慣れた弦楽器の音ではない。

「琴だ」

 ジークフリートは何食わぬ顔で応える。

「は? コト?」

 アルべリヒは眉を寄せてジークフリートの方を見た。

 ジークフリートは一瞬アルべリヒを横目で見たが、すぐに視線を前に戻した。

「飯にしよう。ブレンの腹も限界だろうしな」

 返事の代わりにブレンの腹から盛大な音が鳴り、顔を真っ赤にして背を曲げたブレンを大人たちは見下ろした。


 傘の下には横一列に並ぶ商店街が広がっていた。とりどりの瑞々しい野菜や果物が並ぶ中、ジークフリートたちはその一角にある小さな飯屋に席をついた。天蓋には白い布が客席を覆うように張られている。

 ブレンが腹をこすっていると、奥から店長らしき太った男が現れた。

「お客さん、ここは初めてかい」

 黒髪に黄色い肌の店主は、腰に手をあて、満面の笑顔で座っているジークフリートたちを見下ろしていたが、彼らの顔を見ると、残念そうな顔になった。

「なんだ……あんたら皆西洋人だね。じゃあここの店の丼は口に合わんかもしれんな……」

 脂肪のついたやわらかな顎に指をあて、視線を斜めにそらして考え込む素振りをする。

 そんな店主を見て、アルべリヒはイライラしてきた。眉を上げて店主を睨み上げる。

「なんだぁ? 俺達には食いもんは出せねえって言うのかよ。俺は好き嫌いはねえんだ。何でも持ってきやがれ!」

「そうかい? そんじゃあ持ってくるけど……一人ロッピャクハチジュウエンだよ」

「エン?」

「ーーああ、気にするな。持ってる」

 そう言うとジークフリートは懐から、てのひらサイズの飴色の革の財布を取り出し、ぱちりと大きな金のボタンを指で弾くと、中から丸い金貨を何枚か取り出した。そして、店主が取りやすいようにテーブルの上に乗せた。

「ありがとよ、ほんじゃ、待っといでな」

 店主は満足そうな笑顔を見せ、店の奥へと消えていく。

 アルべリヒは訝しむように店主の背を見つめていたが、ジークフリートに顔を近付けると、何かを問おうとして口を開き、結局やめて片手で顎を支えた。

 店主は器用に両手で三杯の丼を持ってくると、ジークフリートたちの目の前に置く。丼は藍色で細かな筆致で何かの模様が描かれており、アルべリヒが興味を持って顔を近付ける。

「……ドラゴンか?」

 丼に描かれていた髭の長い一見蛇のような怪物は、昔アルべリヒが幼い頃、父母から見せてもらった東洋の絵本の中で見た事がある龍であった。西洋のドラゴンとは違い、翼のついた巨体ではない。それが奇妙で不思議で、逆に惹きつけられたのだ。

 そんな遠い記憶を思い返していたが、意識を丼の上に乗せられたものにうつす。

 赤いマグロの切り身と、白身魚の切り身、そしてサーモン、イカの切り身が端だけが重なるように乗せられ、その横に黄緑色のものが、ちょこんと置かれている。

「生魚のオンパレード……」

 アルべリヒは口を大きく開けた。

「なんだ、生魚は嫌いなのか」

 隣でジークフリートは何食わぬ顔で箸を持ち、マグロの切り身に手をつけようとする。

「いや、別に嫌いってわけじゃねえけど……」 

 アルべリヒはぶつくさ言いながら箸を持ち、丼を片手で持ち上げると、そのまま丼の縁にくちびるをつけ、スープをすするかのように、かっくらおうとする。

 だが、違和感を感じ、丼から顔を離す。

「ん? なんだ、この魚の下に敷かれてるの……」

「米だろ」

 ジークフリートが淡々と応えた。

「コメ?」

 アルベリヒはジークフリートの方を見やる。

「美味いぞ。いいから魚と一緒に食ってみろ。ああ、そうだ、そのテーブルの上に置かれている醤油を適当にかけてな」

「ショウユ?」

 黒パンとビール、ハムで生活しているアルべリヒに、先ほどから聞き慣れない言葉がぽんぽんと飛んでくる。

 目の前を見れば、テーブルのくぼみに硝子がらすで出来た瓶が置かれている。吸口がついているようだ。その中に半分ほどの量でほのかに透明な黒い汁が入っていた。

(なんだこれ、黒ビールか?)

 アルべリヒは眉をひそめながらそっと手を伸ばし、瓶を取り上げた。そして丼の上から距離を離し、指で蓋を押さえながら魚の上に垂らしてゆく。

 硝子の口から漏れる醤油は、陽の光に当たると少し赤茶色であることがわかった。マグロの脂に弾かれ、切り身の上をすべり、米に染みていく。食べたことが無いので味がわからなかったが、見た目は美味そうに感じる。ソースとは少し違う味なのだろうか。

 己のくちびるを舐めると、乾いていることがわかった。

 丼を再び持ち上げ、箸で刺身と米を同時にかきこむ。

「んっ、ほっ。こりゃうめえ……」

 口いっぱいに広がる米の甘みと、魚の新鮮な脂、そして醤油の甘くもあり辛くもある絶妙な調味料の味が合わさり、幸福感を得る。

「ほい、ほりゃ、ふめえな」

 笑顔で隣のジークフリートを見ると、淡々と箸を口に運び、半目を閉じて味わっている。まるで懐かしい食べ物を味わっているかのようだ。ジークフリートの喉が嚥下する。形の良いしろい喉ぼとけの動きを、意識せずとも見つめてしまう。

「だろうな」

「……なんだそのわかりきった態度……」

 ジークフリートはアルべリヒを無視して、店主がこちらに来ないこと、また通りから人が来ないことを首を回して確認し、刺身を箸で挟んだ。そして、背負った鞄の薄く開いた口から箸を入れ、ブリュンヒルデに食べさせようとする。

 ブリュンヒルデはそれに気付き、ジークフリートの手に顔を近付けると口を大きく開けて、ぱくりと刺身を食べる。彼女の舌先に、ひやりとした魚の風味が広がり、嬉しさでほのかに頬が薄紅に染まる。

 ジークフリートはそれを手の振動で確認すると、すっと箸を離し、ふたたび何食わぬ顔で元に戻した。

 アルべリヒはふとジークフリートの手を見て、自分が箸の持ち方を間違えていることに気付いた。愕然とし、慌てて見よう見まねで箸の持ち方を変える。

 アルべリヒの隣に座るブレンも、箸の持ち方がわかっておらず、困り顔で、まだ食事にありつけていないことに気付いた。

 教えてやろうかと口を動かそうとすると、ジークフリートが前屈みになり、アルべリヒの前からブレンに手を伸ばし、箸の持ち方を無言で教えてやっている。ブレンはジークフリートからの指示で頭のねじがひとつ抜け、すっきりしたかのように箸の持ち方を変え、笑顔で丼にぱくつく。 

 またジークフリートは何食わぬ顔で自身の丼に手を付ける。

 さきほどからアルべリヒはジークフリートのクルワズリへの適合の仕方に驚いていた。

(こいつのこの落ち着きようはなんなんだ……。地元住民か……? この街に元から住んでたんじゃねえの……?)

 アルべリヒのこめかみを汗がひとつ、たらりと流れた。丼の刺身と米を一口ずつ丁寧に食べるジークフリートにアルべリヒは肩を寄せ、口に手を添えて声をかける。

「ジークフリートさんよぉ。お前さん、なんでクルワズリの楽器やら飯やらに詳しいんですかい」

 ジークフリートは口の前で箸を止めると、瞳をちらりとアルべリヒに向ける。

「……実は俺は、日本趣味ジャポニズムなんだ」

「は?」

 ジークフリートは、箸を丼の上に乗せると、その指先でこめかみを掻いた。半分まぶたをおろし、視線を逸らす。

「……俺の部屋は、和風の骨董や絵画で溢れている。子供の頃からそういうものに惹かれるところがあった。リリューシュカには俺のそれをまだ理解してもらえていなくて、いつも新しい物を手に入れると、またかという感じで、ちょっと怒っているように見えたがな」

 アルべリヒは唖然とした顔でその話を聞いていたが、やがて耐えきれず噴き出した。彼の口から米がジークフリートの白い頬へ飛んだので、ジークフリートは嫌そうにそれを拭う。その様子は照れているようにも見えた。

「はは……、まさかお前にこぉんな趣味があったなんてなぁ。想像もしてなかったぜ」

「ほっとけ」

「付き合いなげぇのに。隠してたな。なぁにを恥ずかしがってたんだか」

「うるさい、お前だって親しい者に知られたくない趣味のひとつやふたつ、あるだろうが」

 ジークフリートは長い睫毛を伏せ、嫌そうに顔を横に向けた。

 アルべリヒが箸の先をジークフリートに向け、さらに彼をなじってやろうとした刹那であった。

 通りから、一人の女がこちらに歩いて来る。女の肩にかけていた紫色のショールが風に流れ、アルべリヒの目の端に映った。アルべリヒの後ろを通り過ぎたその女の着ている黒のディアンドルからのぞく、健康的な小麦色をした大きな胸元が、アルべリヒのまなこに映る。彼女の背に流したうつくしい黒髪が、アルべリヒの頬に触れそうな距離感になったとき、アルべリヒは息を止めた。

 がたりと音を立てて椅子を蹴倒し、アルべリヒが立ち上がった時には、女は通りから姿を消していた。

「おい、どうした」

 ジークフリートは眉を寄せ、アルべリヒに問いかける。ブレンも彼の隣で驚いた顔をし、持っていた箸を地に落としてしまう。からんと朱色の箸が跳ねる。

 アルべリヒは応えず、サスペンダーに両手を突っ込むと、彼らに背を向けて歩き出そうとする。

「アルべリヒ!」

 ジークフリートは強く声をかける。

「俺達は船ん中で、女抱かないで何カ月過ごした?」

 アルベリヒは背を向けたまま応えた。

「は?」

 ジークフリートは軽く目を瞠る。

「娼館くらい行かせろよ」

 そういうや、アルべリヒは片手を上げて去って行った。

 残されたジークフリート達は、暫し茫然としていたが、ジークフリートが背負っていた鞄の中で、ブリュンヒルデが彼らにだけ聞こえる声の大きさで「ショウカンって何?」とつぶやく。

 ジークフリートは一度地を見た後、溜息をついて鞄の方へ視線を向けると、「お前は知らなくて良い」と言って優しく叩いた。

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