菖蒲の着物
残されたジークフリート達は、海鮮丼をたいらげると店を後にした。
「美味しかったですね」
ブレンがジークフリートに笑顔を向ける。
「ああ、久しぶりに食べたな」
「前も食べたことがあったんですか?」
ジークフリートは眉を上げる。
「ここは俺の故郷に通じている街だからな。以前も通ったことがある」
「へえ。なるほど」
ジークフリートは鞄を揺らし、体勢を整えた。
「腹ごしらえも済んだことだし、今後のことをどうするか考えねばな。まずは俺の家に帰って、ブリュンヒルデを仲間の人魚にどうやって帰すか作戦会議を立てようかと思っている」
「そうですね……。司令官のご自宅って、クルワズリを徒歩で抜けて行けば、辿り着けるところにあるんでしょうか」
「ああ、港と陸は繋がっているからな」
そう言うと、ジークフリートは遠い眼をして海の方角を見た。半分瞳を閉じ、切ない眼差しをする。
(司令官、海で起きた悲劇を思い返しているのだろうか)
ブレンは上目遣いでジークフリートを心配した。
「……どうしましょう。ベルツさんが帰ってくるまでここらをぶらぶらして待ってます?
それとも、先に進みましょうか。伝書鳩を飛ばせるところがあればいいんだけどな。そうすれば、ベルツさんに僕達の居場所を教えられるから」
ブレンは通りをきょろきょろと見渡した。口では真面目に言っているが、内心では初めて見るクルワズリの街の商店街を探検したくてたまらなかった。縦に長い、弦の張られている楽器を演奏する女性達の演奏も聞いてみたかったし、もっとこの街を堪能したかった。
うずうずとした気持ちで、握った拳が震えていた。
「……どうした。体調でも悪いのか」
「い、いいえ。そんなことはないです」
震えた拳を見られていたらしく、心配して自分を見るジークフリートの様子に恥ずかしくなってしまい、顔を赤くして胸の前で手のひらを広げ、ぶんぶんと首を左右に振った。
「そうか、ならいいが」
ジークフリートは薄く口角を上げると、興味を失ったように再び遠い眼をした。そして数秒黙っていると、鞄を背負い直して背筋を伸ばし、淡々と通りを歩こうとする。
「えっ、司令官」
ベルツさんは待たなくていいんですか、と問おうとして口の形が開いたまま止まる。
「本来の目的を忘れ、性欲に溺れた者のことなどほっておこう。先に進むぞ」
「え、は、はい!」
歩幅が広く、ブレンが早足で歩かないと追いつけない速度でジークフリートは歩いていく。咄嗟のことだったので、先ほど食べた海鮮丼がまだ腹の中で消化されきっていなかったのか、えずきそうになるのを頬を膨らませて必死に押さえた。
温かなそよ風が、ジークフリートの金の前髪を揺らし、ふと商店街の呉服屋に目を留める。
腰の曲がった白髪の老婆が、長い髪をつむじで1つに纏め、横に真っ直ぐになるように赤い珊瑚の玉のついた櫛を差している。老婆の着ている着物は、薄紫の地に黄色い牡丹の花模様で、凛とした佇まいを現わしているが、それを着ている老婆の顔は丸く穏やかなので、愛らしい印象である。
ジークフリートは老婆の前に置かれた色鮮やかな着物に視線を落とした。独自の折り畳み方で丁寧に置かれたそれらにそっと指先を置き、すうっと横に撫でる。普段己が着ている革のジャケットや、固い軍服とは比べ物にならないほど柔らかな手触りがし、蒼い瞳を揺らした。
「手に取ってみてもいいんですよ」
老婆は微笑んでそう言った。
ジークフリートは着物に手を置いたまま、老婆に微笑みかえすと、さっと両手のひらの上に一番上に置かれた濃い紫色の着物を載せた。横に長いその着物は、ジークフリートが少し斜めに傾けると、陽の光を受けた繊維が薄い桃色に煌めく。その煌めきを見ていると、ジークフリートは胸がいっぱいになった。
「菖蒲のような色でしょう。この店自慢の一品ですよ」老婆は言った。
ジークフリートは顔を上げて老婆に微笑む。
「菖蒲、琳派の絵画の中でしか目にしたことはありませんが、好きな花です」
「あんた、西洋人なのに珍しいね。好感がもてるよ」
老婆はにやりと歯を見せる。前歯が一本金色だった。
ジークフリートは眉を上げ、手にした紫の着物を丁寧に整えてから置かれていた着物の上に再び置き直した。そして、2歩後ずさり、両手の指を四角の形にして顔の前に翳す。写真を撮るポーズだ。四角く囲った指の間を紫の着物に焦点を当て、じっと見つめる。そうして再び2歩進み、店の前で足を止めると、紫の着物を片手で抱くように取り、老婆に微笑む。
「ばあさん。これをくれ」
「あら、誰か良い人にでもあげるのかい」
「ああ、この世で一番愛している女へな」
「ふふふ、お熱いったら」
ジークフリートの脳裏には、この紫の着物を着たリリューシュカの姿が浮かんでいた。彼女の淡い色の金髪には、こういった濃い紫も似合うだろう。
長い髪を結い、着物を着て車椅子をくるりと一回転させて微笑むリリューシュカの姿が、目に浮かぶようだった。
老婆はジークフリートから着物を受け取ると、ゆっくりと後ろを向く。そして白い和紙でかさかさと音を鳴らしながら着物を折り畳むように包み、赤い紐で縦横十字の形で着物を結んだ。両手にそれを載せると、ジークフリートの胸の辺りに差し出す。
中央で結ばれた紐が蝶のようで愛らしいとジークフリートは思った。老婆のしわがれた手から、そっと受け取る。
「ありがとう」
ジークフリートは礼を言った。
老婆は微笑み、軽く会釈をする。彼女の白髪を見て、死んだ母を思った。母はジークフリートが11の歳に亡くなった。その頃はまだ40代であったが、故郷で流行った突然の感染症で、命を落とした。死の間際は医師達から遺体から感染することを懸念され、死に顔を見ることは無かった。なので、記憶に強く残っているのは、木漏れ日の下で洗濯物を干そうとする、穏やかな笑顔を浮かべた母の姿しかない。己とリリューシュカのブロンドは、母の死より前に戦死した父譲りなので、母の髪は磨いた銅のような赤毛であった。美人というより小柄で愛らしい人だった。母も生きていたら赤毛から老婆のような白銀の髪になっていただろうか。そんなことを無意識に考えた。
踵を返すと和紙で包まれた着物を片腕に挟み、元の通りへ戻ろうとする。後ろにブレンが立っており、興味深そうに老婆の着物の店とジークフリートの腕に挟まれた和紙の包みを交互に見やる。
ブレンの細い肩を叩き、先へ行くことを促そうとした刹那であった。
「この野郎! 待て、この盗人共が!! おうい、誰かこいつらを捕まえてくれぇ!!」
先ほどジークフリートたちが辿ってきた通りからばたばたと足音が聞こえてくる。
視線を声のした方へ向けると、ペールグリーンのハンチング帽を被った小柄な少年と見える2人がぱたぱたとこちらへ駆けてくる。ジークフリートは咄嗟に2匹の子犬を思い浮かべた。
ものすごい駆け足で、無茶苦茶に手を振り回して必死で駆ける先頭の少年の右手には、サンタクロースの持っているような大きな布の袋が、左手には、もう一人の少年の小さな手が握られていた。
先頭の少年の必死さに比べ、手を引かれている少年は、帽子の縁から覗く琥珀色の瞳が虚ろな様子で、自分で走っているというより走らされているといった印象であった。
気にはなったが、今は面倒事に関わっている暇はないので、見なかった事にしようと彼らに背を向ける。
すると横から風が起き、はっと視線を向けると、少年たちがジークフリートと触れる寸前で駆けていくところであった。
少年が一瞬顔を上げ、ジークフリートの蒼い瞳と目が合った。少年の琥珀色のアーモンド形の瞳が、きらきらと輝き、生命力に溢れていた。先ほどは遠目から子犬のようだと感じていた少年の印象が変わり、触れれば噛まれる子猫のようだとその時感じた。
ジークフリートと目が合うと、少年はきっと鋭い目つきになった。そして当てつけのようにジークフリートの脛に自分の腕を触れさせた。
その時、ジークフリートは咄嗟に少年の腕を強く掴み、後ろへ引きずり込むように引っ張った。
少年は驚き、目を丸くする。少年と手を繋いでいた後ろの少年も同時に引っ張られる。
ふわりと2人の少年は地から宙へ浮き上がった。ジークフリートはその軽さに驚いた。何も食べていないかのような軽さであった。
先頭の少年と再び目が合う。目の端の睫毛が吊り上がるように長く上を向いていて、桔梗の花弁の先のようだった。
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