新しい海へ誘う風

 甲板に出ると、船室にいた時にはかすかにしか聞こえていなかった潮騒が、一気に音量を増して耳に迫ってくる。いつの間にか船は川を抜けて、大きく広がる碧い海の上を走っていたらしい。

 船室にいた時も小窓から漏れる朝の光を感じていたが、外に出るとその白きまぶしさがジークフリートの金の睫毛をちかちかと照り映えるようにきらめかせる。

 一瞬、眉をしかめて瞳を閉じる。

 片手を額に当て、かざしを作ると、潮の匂いをはらんだ風が、彼の白い頬を撫でた。

「いい朝だなぁ。司令官殿」

 聴き慣れただみ声が背に響く。

 振り返る必要はないと感じ、口の端を上げて微笑みを作る。

 コツコツという足音が近づく。それはジークフリートの隣で終わった。

「そうだな……」

 前を向いたまま返答した。

 隣に立ったアルべリヒの、赤茶色の前髪を陽光がちかちかと磨いた銅色に照らす。

「もうすぐウェイルスの浜辺に到着する」

「あー、やっとかよ。長かったなぁ」

 アルべリヒは大きくあくびをして、気怠そうに肩を回した。羽を伸ばすカモメのように、両肩を背に近付け、肩甲骨をほぐす。

「しっかし、まさかこんな事になるなんてなぁ。この俺様ですら予想もしてなかったぜ」

「どこの俺様だ。貴様、どの口が言うか」

「へっ、天才軍師の司令官殿も、まさか人魚が実在して、その人魚に襲われて俺らの仲間が溺死するなんて。しかもその人魚の女の子を俺とアンタが協力して護るなんて展開、予想もしてなかっただろ?」

「……まあな」

 改めて言葉にして言われると、本当に不思議な気持ちになる。

 あの日、あの夜、自分たちはローレライ伝説について話題にし合い、絵画の世界でしか見たことのない人魚たちに取り囲まれ、その美しい歌声によって惑わされ、仲間たちを海に沈められた。

 その後、人魚たちの白い女体、宝石のように煌めくうつくしい鱗の下半身に、次々と銃弾の雨を降らせ、彼女たちを殺していった。

 戦争で敵を殺す道具であったはずの銃で、いつの間にか人外の女性達の、薄くやわい肌から血を吹き出させた。戦争は終わったはずなのに、その先の戦いがあった。それも悲しい戦いが。

(あの夜の、血に染まった飛沫を、未だに覚えている……)

 ジークフリートは腕を顔の前まで上げ、己の乾いたてのひらを見つめた。

 自分は手をくだした訳では無かったが、何故かこの手で直接、人魚たちの体を引き裂いて殺していったかのように感じられる。それは自分と船員たちに共鳴心を感じているからというのもあるだろう。海で命を預け合った仲間達は、ジークフリートの大切な体の一部であったはずだ。そんな船員たちを、歌で理由もわからず黒い海に引きずり込んでいった悪魔のような人魚たちには、恐ろしさと怒りをもちろん感じた。しかしそれは戦争で敵軍と戦った時のような、絶対に勝利してやるという暴力的な衝動を起こす出来事ではなく、どこか自然災害に遭ってしまった被害者の気持ちを抱いていた。そんな彼らが、人外のうつくしい女たちを手にかけていく光景に、何故だか言葉で上手く説明出来ぬ虚しさを感じていた。

「おい、ジーク。大丈夫か」

 耳元で囁かれただみ声にはっと瞠目する。

 碧い眸を震わせ、声のした方に視線を向けると、心配そうに自分を見つめる幼馴染の顔があった。普段自分を小馬鹿にしている男と同一人物とは思えないほどに、透き通った純真さがそこには宿っていた。

「……ああ。少し船酔いしただけだ」

 ジークフリートが額を右手で撫でて瞳を閉じ、顔を逸らすと、アルべリヒは目を見開き、数秒ぽかんとした顔をした。口を閉じ、むずむずとくちびるを動かす。耐えきれず乾いた息が、赤い口の端から漏れいずる。

 次いで腹を抱えて、大声で笑いだす。

「あっはっはっはっはっは!!」

 一度笑いの波がおとずれると、抑えられない質のようで、体をくの字に曲げてひぃひぃと心配になりそうなほどの引き笑いを起こした。

「おい」

 いきなり自分の発言に大笑いされるのは気分のよいものではない。ましてやジークフリートは大真面目な男である。少し怒った顔で金色の睫毛に覆われた切れ長の瞳を細めてアルべリヒの屈んだ背を睨む。

 そのことに気付いているのかいないのかわからないほど、ひたすらアルべリヒは笑い続けた。

 やっと波が収まったかと思うと、体制を整えて目尻に宿った笑い涙を指で拭う。

「いやあ。すまねえ、すまねえ。アンタってさぁ。ちょっと天然なところあるよな。自分で気づいてねえみたいだけどさ」

「は……?」

「いや、何でもねえ。忘れてくれ。そのままのアンタでいてくれや」

 むっと不機嫌な顔を返すと、アルべリヒは嫌味な微笑みを浮かべながらバシバシとジークフリートの肩を叩いた。

 そんなふたりの周囲を潮風がふっ、と流れる。割と強い風であったので、金髪と赤茶色の髪は巻き上がり、波打つ。

 瞳を眇めて前方を見つめると、白く輝く朝の漣に、スカイブルーの濃く爽やかな青い海が広がっている。

 その美しい青の向こうに橙や黄、赤の屋根を載せた白い壁を持つ家々のつらなりが、小さいビーズの繋がりのように見えていた。

 その向こうには深緑の小高い丘が広がっている。

「……見えた」

 ジークフリートは嬉しそうに微笑む。

「ああ、やっと着いたな。あー待ちくたびれたぜ」

 アルべリヒはちらりとジークフリートを見ると、口角を上げた。そして伸びをする。気持ちよさそうに全身で流れ続ける風を受け止めた。

 陽射しはあたたかく、船を照らし続けている。

「アドルフ司令官ー!! ベルツさーん!!」

 ふたりの背後からパタパタと愛らしい足音が聞こえて、近づいてくる。

 ふたり同時に振り返ると、息を切らしながら赤い顔をしてブレンがやってきた。その顔は晴れやかな笑顔をしている。

 アルべリヒは不敵な笑みを浮かべると、両手のこぶしを作り、ブレンのこめかみを左右から挟んだ。

「ひゃっ!!」

「お前、名前呼ぶときが俺が最初だろうが!!」

 ぐりぐりとこぶしを回すアルべリヒの手首を「やめてくださいよ!」と叫びながら剥がそうとするブレン。

 ジークフリートは何食わぬ顔で前方に視線をもどす。

 風で露わになった彼の富士額に浮いた汗が、きらきらと光った。彼がゆっくりと穏やかな微笑みを浮かべたことに、アルべリヒとブレンは気付かなかった。

 陽射しはあたたかく船の上に降り注ぎ、船室で未だにいびきをかきながら寝ている男達と、切なげな瞳で小窓から漏れいずる光を見つめるブリュンヒルデを平等に照らし続けた。


 一行が辿り着いたのは、故郷の帰路へと繋がる国、クルワズリの白い浜辺である。固い鋼で覆われた船は、朝日を受け、銀色に煌めいている。

 穏やかな波を起こしながら、徐々に速度を落とし、重いいかりしずめると、クルワズリの港に停泊した。

 地上へと伸ばされた階段を、船員たちは続々とくだってゆく。

 水上での長旅からやっと解放され、馴染んだ地上へ降り立つと、一気に解放感が体を駆け巡っていくのか、腕を高々と上げて伸びをする者や足を延ばしたり縮めたりする者などで港は溢れた。

 船員の男のひとりが、かたわらにいたもう一人の男と目が合い、話しかける。

「よう、やっとクルワズリへ到着したな」

「ああ、長かった」

「ここからは各々の帰路で故郷へ向かってよいと、アドルフ司令官からのお達しがあったな」

「そうだな……、あぁ、やっと家に帰れるのかぁ。早く我が家で嫁を抱きしめてキスしたい」

「はは、お前は新婚だったからな。今まで家を空けてた分、存分に新妻にいづまを抱いてやれ。子供の顔が見られるのも、そう遠くないかもな」

 ふざけるような笑いを浮かべながら言う男に、顔を赤くしながらもう一人の男は笑みを返す。

「ああそうさせてもらうぜ。……それにしてもさ」

 男は不思議そうな顔で、背後にそびえる船を見上げる。

 乗っていた時は感じなかったが、降りてから客観的に見ると、その人工的で硬質な船の肌に何だか畏怖のようなものを感じた。

 男の前髪を柔らかな風が撫で、朝日が鼻筋を白くひからせた。くちもとに優しい微笑みを浮かべる。

「普通なら、アドルフ司令官が真っ先に港に降り立つはずなのに、俺達船員を先に行かせて、自分は最後に降りるなんて、やっぱり仲間想いの優しい人だよな」

 それを聞き、もう一人の男は満面の笑顔になった。

「だな。あの人の元で共に戦えたのは、俺の生涯の勲章だ」

 ジークフリートは自室の小窓から半分顔を覗かせ、外の様子を伺っていた。

 きらきらと輝く漣と、灰色から途中で街へと続く道となる赤茶色へと変化している港に目を細める。

 談笑していた船員たちが、互いに手を振り合いながら家路へと向かい、散っていくのを注意して見届けた後、さっとカーテンを下ろし、立ち上がって後ろを振り向いた。

「港に残っていた船員たちは全員いなくなった」

 ジークフリートの視界には、胡坐をかいて彼のベッドに座り、壁に背をついて両腕を枕のように頭の後ろに置いているアルべリヒと、バケツの縁に腕を重ねて半身をもたれさせているブリュンヒルデ、その隣に座るブレンが映る。

 ブリュンヒルデは長い間海から離されていたせいであろうか、一度血色の良くなった肌の色が、また青白くなっているように感じる。 早くこの娘を自然の水に触れさせなければと考え、眉を寄せた。

 アルべリヒは壁から背を離す。

「そうかい。それじゃあそろそろブリュンヒルデを連れて、俺達も港へ降り立つとしましょうや」

 こきこきと音を鳴らしながら腕を回すアルべリヒを余所に、不安げな顔をしながらブレンはジークフリートの方へ身を乗り出す。

「だ、大丈夫でしょうか……。彼女を人目にさらさず港へ降ろすことなど、出来ますでしょうか」

 ジークフリートはブレンを見つめると、ふっと鼻で息をこぼし、微笑みを浮かべた。

「大丈夫だ。俺達を誰だと思っている。軍人だぞ。海での戦いの専門家エキスパート、海軍兵を舐めるな。誇りに思え」

 アルべリヒは人の悪そうな笑みを浮かべてブレンを見た。

「だってよ。お坊ちゃん。まぁ、お前は初陣にも出れてなかったし、俺らの凄さはわかんねえかもしれねえけどよ」

 ブレンはふたりの上官を交互に見やる。

 逆光となった男達の暗い顔の影に、つばをこくりと飲み込んだ。

 ブリュンヒルデはぽかんとした顔で、瞳をぱちくりとさせる。カーテンから漏れた光が、木漏れ日のようにうすく重なって色を深ませて、彼女の額や頬に当たり、透明な水の膜を張った眸を宝石の如く煌めかせた。


 ジークフリートは一度港に降り立つと、シャワー室から持ってきた新しいバケツですばやく港に接している海水を掬った。

 そしてその水入りバケツを持って、再び自室へ戻っていく。その顔に迷いはなかった。

 自室に戻ると、アルべリヒがどこから持ってきたのかと思うほど、大きな背負い鞄をかついでいた。ジークフリートの怜悧れいりな視線と目が合うと、にやりと屈託のない笑みを返す。

 バケツを床に置くと、ジークフリートはブリュンヒルデの前へしゃがんだ。

「ジーク……何をするの?」

 不安げなおもてで目の前の精悍な男を見上げるブリュンヒルデの頬を、固い手で優しく撫でる。

 穏やかな碧いひとみで、ブリュンヒルデを見つめた。

「心配するな。お前に嫌な想いはさせない。……ただ少し窮屈になるかもしれないが、我慢してくれ」 

 ブレンは薄く口を開け、唖然としながら流れるように物事を進めていく男達の様子を、ただ黙って見つめていた。

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