人魚の涙
ジークフリートの胸板までの高さしかないというのに、ブレンは真っすぐなまなざしを彼に向けていた。
しかもその瞳の膜には、軽蔑と怒りの橙色の光が宿っている。
縛られた両手を己の背にぐっと強く押しつける形で、背筋を真っ直ぐに伸ばして顔を上向けている。同様に縛られた両足の裏は地にぴったりと付けられているが、彼の上半身の勇気と相反するように、怯えを隠せず小刻みに揺れていた。
対してジークフリートはブレンの事を怜悧なまなざしで見下ろしていた。暗い蒼を宿したその膜は、みじんも揺れることはない。
淡い金髪に覆われたブリュンヒルデは、そんな彼らの様子を軽く体を震わせながらうすいくちびるを引き結び、近い距離からじっと見つめていた。
瞳を眇めると、ブレンは噛んでいた下唇から上唇を離し、震える声でジークフリートに問いを投げた。
「なんで……なんで僕らの仲間を殺した人魚を、よりにもよってあなたが匿っているんだ。恥ずかしくないのか。こんなことをして許されるとお思いか……!」
ブレンの桜色のくちびるは八重歯で固く噛んだことにより青ざめ、肌はさらに白くなっている。
憧れていた上官の裏切りに対する怒りと、それを上回る動揺が胸中で逡巡し、自分でも自分の感情を制御出来ていない。その焦りがこめかみから流れ出る汗となって、ブレンのなめらかな頬をつーっと撫でた。
この人に対してこんな風に自分の感情をぶつけた事など、これまで一度たりともない。それはブレンがジークフリートの事を信用し、敬愛し、尊敬していたからだ。
それが、こんな形で裏切られた。
ブレンは横目できっ、とブリュンヒルデを睨んだ。鋭い眼光だ。琥珀色の眸には暗い闇の帳が降り、彼の顔の肌の白さを、より一層際立てている。
ブリュンヒルデは真顔でブレンの視線を受け止めていた。自分と同等か、もしくは年下かもしれない
(この子も傷ついている……。私が仲間を殺されたのと同じように、深く傷ついているんだわ……)
ブリュンヒルデは一度まるいまぶたを閉じた。そして再度大きく開くと、ブレンを見つめながら、まなじりから涙を零した。
それを見てブレンは、はっと瞠目し、怒りに燃えていた瞳を切なく揺らした。
「なんで人魚が泣くんだ……」小声で呟く。
ブリュンヒルデの艶のある頬を、透明なしずくが流れ落ちてゆく。その間、沈黙が訪れた。
伏し目がちに、あからさまに不機嫌そうな顔をしていたアルべリヒは、ブリュンヒルデとブレン、そしてジークフリートに転々と視線を移した後、瞳を閉じ、大きく溜息をついた。
「あー、もう俺とまーた同じ展開かよ。端から見るとめんどくせえな。めんどくせえ。まったく、まったくめんどくせえぜ」
頬と目尻を赤くしたブリュンヒルデは、少し口を開けて、はっとアルべリヒの方を振り向いた。勢いをつけて首を回したので、緩やかな金髪が揺れて灯に反射し、きらりと赤に輝く。
アルベリヒは、一度静止していたが、ぱんっ、と己の膝頭を大きな両手で叩くと、勢いをつけて立ち上がった。
ブレンは一瞬びくっと体を震わせ、縛られた足で地を蹴って尻を擦り、体を後退させる。
アルべリヒはその怯えを気にせず、歩を進めると、ブレンの小さな体のすぐ近くまでずいっと迫る。
腰を屈めてブレンの顔に己の顔を近づけた。
「うっ……!」
突然アルべリヒに見下ろされる形となったブレンは、恐ろしさで身を竦めた。
アルべリヒの淡い灰色の影がブレンの体を覆う。
じっとブレンを見下ろしていたアルべリヒであったが、ふいに右手を差し出すと、ブレンの頭の上に重みをつけて重ねた。
「なっ」
節くれだった20代半ばの男の手が、ブレンのやわらかなくせ毛を跳ねるように叩く。
その衝動と呼応するようにブレンはぎゅっと瞳を閉じながら「うえっ」やら「ぐえっ」やらと
ジークフリートとブリュンヒルデはぽかんとした顔で、ふたりの滑稽な様子を見つめていた。
「なにをっ」
アルべリヒの手が上へ跳ねるタイミングを見計らって片目を開け、眉を寄せて彼の顎を見上げると声を出した。「一体自分の頭で遊んで何をしている」という事を伝えたいのだろう。
真顔でそれを受け止めたアルべリヒは、ブレンの上でさらに大きく手を広げると、彼の頭全体を掴むようにがしっと強い力で掴んだ。
「うげっ!」
「ごたごた言ってんじゃねえよ。少年兵ごときが。オレ達の上官が決めたことだ。間違ってる訳ねえだろうが」
「アルべリヒ……」
ジークフリートは瞳を見開き、不機嫌な顔でブレンを見下ろす幼馴染の横顔を見つめた。その頬はがさつき、日に焼けている。それは海の陽光によるものだった。我々海で戦う男の勲章とも言える。
ブリュンヒルデはバケツに半身を預けながら、アルべリヒの赤茶色のくせ毛に宿る光を見つめていた。
(この人……、私のこと認めてくれたんだわ)
拒否されていた相手から、言葉の端ではあるが受け入れられたことを感じて、こまやかな胸のふくらみの奥から、針で突かれたようにじんわりとした熱が広がるのを感じた。やがてその熱は胸から首筋へと上昇し、頬に広がり、両のひとみから熱い涙となって外界に零れ落ちた。
「……っ」
一度溢れた泉のような涙は、
後から後からこんこんと湧きあがり、しゃくり上げるほどに彼女の頬を濡らし続け、肉のない細い鎖骨へと落ちていく。
ブレンは
小柄な少女人魚は頬を赤く染め、自身の両肩を抱きしめながらうつむいて涙を流している。
その真珠のような涙が、彼女の半身を
決して広くは無い薄暗い船室のわずかな灯火に反射し、きらめいて落ちてゆく。水底の洞窟に落ちるしずくのように、かすかではあるが反響していた。
ブレンは茫然とブリュンヒルデの方を見ていたが、ふいに「うつくしい」という感情を抱いた。
くちびるを固く結んでブリュンヒルデを見つめていたアルべリヒは、もう一度、ぽん、とブレンの頭を叩くと、
「この事は誰にも言うんじゃねえぞ」と少年のやわらかな耳元に、低く囁いた。
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