ブレン少年兵

「ブレン」という名前は炎を意味する。海で津波に飲まれて亡くなった祖父はそう言った。

 自分の名前の由来を聞いて以来、何事にも自信の無かった心にあかりが出来たように暖かくなったことを今でも覚えている。

 ブレン・フィッシャーは暗い廊下を歩く為に手にしたランプの橙色の灯りを見つめながら、幼い頃の思い出を回想していた。

 船内の誰よりも小柄な体で、大きな瞳にそばかすが浮くほど白い肌。

 髪なんて少女のようにやわらかい。一応ブロンドなのだがアドルフ司令官のように白に近い金でもなく、どちらかというと磨いた銅のような赤毛気味だった。そしてその癖毛が、犬のしっぽのようでふわふわして落ち着かないのを、年頃に気にしている。

 そのせいで船員には下手に見られるし。からかわれるし。いじられるし、いいことなんてまるでない。

(ベルツさんなんて僕の髪を急に引っ張ったり、ほっぺたをつねってげらげら笑ったり、本当にひどいんだから……)


 自分に常にダルがらみしてくるアルべリヒのことも何故か思い出してしまい、ブレンは「はーっ」とため息をつく。

(何でじいちゃんは炎なんて名前を僕につけたんだろう。強くもないし、海軍に入隊してからだって前線にまだ出たことがない。いつも皆さんの給仕や雑用係で終わってるのに。13歳になったんだから、もう少し背も伸びてもいいはずだし。アドルフ司令官のように、大人の色気のある男になりたいな)

 ブレンはジークフリートの横顔を頭に思い浮かべた。

 刈り上げたうなじに長い前髪は、甲板の上に立ち、陽の光を浴びるといつも金にきらめく。筆で書いたような切れ長の眸は、髪と同じ色の長いまつげに縁どられており、ターコイズブルーの石のように蒼くうつくしい。

 精悍な顔立ち。低くつややかな声。そしてそれに似合う、落ち着いた性格。ああ憧れる。

 ああいう人を美男というのだろう。

(いいよなぁ。時々話しかけてくれて、体調とか気遣ってくれて優しいし。僕もああいう風に生まれてみたかった)

 乙女のように頬を染めて上の空になる。無意識に歩いていたら、気付けば当のジークフリートの部屋の前に来てしまっていた。

 はっと目を見開き、部屋の扉を横目で見る。

 何故だか胸が高鳴る。別に悪いことをしている訳ではないのに、周囲を確認し、扉にそろり、そろりと蟹歩きで近づいた。

 気付けば、こめかみに汗をうっすらかいている。

(アドルフ司令官、今何してるんだろう……)

 ジークフリートの姿は、いつも司令官として職務に就いている姿しか知らなかった。

 プライベートな時をどのように過ごしているのか、一ファンとして興味を持ってしまう。

(耳、すませば中の音聞こえるだろうか)

 いけないとわかりつつ、扉に耳を近づける。犯罪を犯している訳ではないのに、罪悪感から胸がさらに激しく波打つ。

 静かなアドルフ司令官のことだから、読書にでも耽っているだろうし、何も聞こえないだろう。馬鹿なことしてないで早く自分も自室に戻って寝よう。

 そう思った瞬間、聞こえてきたのは男の嗚咽だった。

 絞るような声ですすり泣いている。

 予想外の事に驚き、瞠目したまま硬直する。

(な、なんで司令官の部屋から男の泣き声が……。しかもこんな夜中に……。ま、まさか)

 良からぬことを想像してしまい、さっと頬に朱をさした。(いや、そんな噂は聞いたことがない。まさかそんなことはあるまい……。で、でも)と動揺してしまう。そしてその動揺からさらに頭皮から汗が噴き出て、額や頬に伝っていく。

 鋭利になった聴覚をより研ぎ澄ませる。元々故郷で村のみんなに伝えるために、毎朝トランペットを吹いていた。耳はいいのだ。褪めた青空のもと、心地よい温度の風が、頬を撫でていったのもすら覚えている。

(この泣き声……。どう考えても聞き覚えがあるだみ声だ……。あっ……! ま、まさか……)

 頬に差した朱は、一瞬でさっと青白く変化した。

 嗚咽の正体に気付いてしまった。

「ベルツさん……!?」

 ブレンは知りたくもなかった現実に真っ青にな耳に添えた手を震わせる。ブレンは扉に背をぴったりとくっつけて尻餅をついていた。

 こめかみからは冷や汗が流れ、顎を伝っていく。

 脳裏にはよからぬ想像が駆け巡り、その度に頭をブンブンと降って思考を散らしていた。

 眸はぎゅっと閉じ、まぶたが白くなっている。

「いや、そんなことが、ある訳がない……!!」

 ブレンは必死に今日の夕飯の事を考えた。

 ピンク色のソーセージ。先輩たちに無理やり飲まされそうになったビール。苦笑いで危機を回避したこと。美味しい食事とセピア色の食堂。

 そして楽し気に酔っていた先輩たちの笑顔だけを、脳裏に思い浮かべようと試みているのにも関わらず、耳朶にアルべリヒの嗚咽が入ってくる。

 ――中で一体何が起きているというのか。

 ――まさか男同士の。

「嘘だうそだ嘘だうそだ……」

 さらに青ざめて耳をふさぐ。よからぬ想像が駆け巡り、かたかたと肩を小刻みに揺らした。

 ただでさえ恋愛にうとく、経験の無いブレンには刺激が強すぎる。

「アドルフ司令官……」

 絞るような声で、ブレンはその名をつぶやいた。

 閉じたまなうらで、ジークフリートの姿が逆光となってうつっていた。

 金髪を縁どる光が白く際立っている。鼻筋を撫でる漏れたひかり。そしてゆっくりと微笑むくちもと。

(……あの方はいつもこんなちっぽけな僕を気にかけてくれた) 

 配属されて初日の事である。同期(といってもブレンが最年少なので、年齢は年上の者ばかりであったのだが)と共に戦艦の甲板に横一列に整列し、ジークフリートとはじめて対面した。

 その日、彼の立ち姿は陽の光の前に立ち、逆光となっていた。

 紺の軍服の上にグレーの革製のコートを羽織り、すっと背筋を伸ばして立つその姿は威圧的にも感じられ、鼓動が高鳴り、怯えていたことを思い出す。

 くちびるを引き結び、恐怖を感じ取られないように眉を寄せて何とか敬礼をした。

(僕もこれで結構様になって見えるかな……)

 甲板の上で軍服を着て敬礼し、司令官に向き合っている己に対し、少し自信が持てた。心に祖父がくれた火が灯ったような感覚がした。

(ここから始まるんだ。僕の海での戦いが)

 くちもとに無意識に微笑みを浮かべる。

 その時であった。

(あれ……?)

 甲板を横殴りに強い潮風が吹き、ブレンの脇腹を打った。

 気付けば体が浮き上がっている。

 海色のつめたい風が額と手の横を纏ったかと思ったら、あっという間に足元を薙ぎ払われ、体が斜めになっていた。

 隣に立っていた同期は、突然のことに動揺し、わっと声を出すとブレンを避ける為に前に飛び出てしまった。

 横目で下を見ると、甲板の固い鉄がこめかみに迫っている。

 このままではブレンのやわらかく小さな体は、鉄に強く打ち付けられ、砕けてしまう――!

 沈みかけた太陽が、ジークフリートの体越しに、ブレンの涙の膜で覆われた眸に差し込んだ時であった。

 目の前に影が差し、脇腹に熱い手を感じる。厚い胸板に男の手が押し付けられていた。

「えっ……」

 足はすとん、と揃って地に降り立つ。

 きょとんとした顔を上げると、自分を見下ろすジークフリートの顔が目に入る。凪いだおもてで、感情が感じ取れないつめたい薄氷うすらいのような青いひとみで、ブレンを静かに見下ろしている。

 だが、ミッドナイトブルーの二の腕までを覆いそうな長さの軍手で覆われた手は、自分の脇腹に添えられ、その手から与えられる熱は温かい。

「……大丈夫か」

 ジークフリートのくちが静かに動き、低い声で告げる。

 ブレンは状況を理解し、はっと瞠目した。

 そして慌てて体をジークフリートから離すと、体をくの字に曲げて、

「あ、ありがとうございましたっ!!」と言った。

 頬は恥ずかしさから真っ赤に染まり、額には玉の汗が、幾つも浮かんでいる。

 無限にも感じる沈黙が訪れる。

「くくっ……」

 やがてブレンの耳を打ったのは男の小さな低い笑い声だった。

 えっ、と思い、恐る恐る顔を上げると、目の前でジークフリートが片手を丸めてくちもとに当て、しゅっと伸ばしていた背を少し折り曲げて笑いに耐えている。

 先ほどの怜悧れいりなイメージから一転、朝の光を受けて輝く雨上がりの金のしずくのようなうつくしさを持つ上司の男は、声を曇らせてほほ笑んでいた。

 唖然とした。

 隣に並ぶ何人かの同期も、その様子に同じように無になってぽかんと口を開けている。

 ひとしきり笑い、やがて波が引くように収まると、すっと穏やかな笑みを浮かべ、ブレンを見た。

 射抜かれたようにドキっとし、くちびるを噛む。肩をびくりと揺らした。

「ブレン・フィッシャー……といったか」

「は、はいっ!」

(僕の名前、知っててくれたんだ……) 

 さぁっと首から上が熱を持つ。咄嗟に背に回して組んだてのひらから、手汗もじわりと湧いてきた。

 ジークフリートはブレンとの間を一歩進み、間合いを詰めると、ブレンが戸惑うのも構わずに、すっ、と彼の胸の前に皮手袋で覆われた右手を出した。 

「今日から宜しく頼む」

 一粒の鉄が入った硬質さの中に、穏やかな夕凪のような優しさがある声でそう告げる。

 ブレンはジークフリートの顔を茫としたまなざしで見つめたまま、硬直する。そしてごくり、と唾を飲み込むと、震える右手をゆっくりと差し出した。

 ジークフリートはそのやわらかな少年の手を握りしめた。

(司令官が僕の手を取ってくださった……。なんて優しい人なのだろう)

 眸を揺らし、頬を染めて上官の精悍で優しいまなざしを受け止めた。

 夕陽がふたりの姿を逆光に照らしていた。

「僕が、僕がなんとかしなきゃ、僕がしっかりしなきゃ……」

 震える体を抱きしめ、小声でぶつぶつと囁きながらブレンは自分に言い聞かせる。

 最後にぶるりと大きく震えると、意を決したようにかっと目を見開いた。

「よしっ……お前なら出来る。お前なら2人を止められる……!! 爺ちゃんの名にかけて!!」

 勢いよく立ち上がるとドアノブを強い力で引き、開けた部屋の壁にぶつかってしまうほど、ガタンという音を上げてドアを開けたブレンは、その流れに身を任せて自身も内側へ足を踏み入れた。

「お2人共おやめください!! 僕は、同性愛には反対はしない主義ですが、せめて愛し合うのは次の浜辺に着陸してからにしてください!!」

 まだ声変わりのしていないボーイソプラノの喉が切れてしまうのではないかと思うほど、必死に腹から大声を出す。極度の緊張から眸はぎゅっと閉じられ、細く長い睫毛が反動で上がってしまう。顔からは透明な汗が吹き出し、こめかみや額をじわりと濡らしている。

 ――死にたくなるほどの冷たい沈黙が部屋の中を漂った。

 誰も、何も言わない。

 まなうらの外で何が起きているのか。ジークフリートとアルべリヒはどうなっているのか。確かめたくとも確かめられない。

 恐怖で歯がかたかたと鳴る。

 眸を閉じているせいで、鼓動の音が更に過敏に全身を打っているのがわかる。

 今聞こえているのは己の鼓動の音だけ、と言っても過言ではない。

 歯列の間から、ひゅう、と息を吐き出す。

 ――沈黙を破ったのは、聞き覚えのあるだみ声であった。

「おい……」

 声が聞こえた反動でうっすらとまぶたを開けた。あまりにも固く閉じていたせいで、部屋の中が薄暗いにも関わらず、それが明るいともしびが差し込んだように感じる。

 は、と短く息を吐き、背筋を整えると、薄いまぶたをゆっくりと開けた。

 まず初めに見えてきたのはぽかんとした顔で自分を見つめているアルべリヒとジークフリートの顔であった。こいつは一体何を言っているのだろう、というような表情である。

 アルべリヒは胡坐をかいてまなじりの端を赤くしている。—―泣いていたからであろう。

 ジークフリートは立膝をついて静かに座っていた。くちびるを少し開けて、いぶかしむようにじっとブレンを見つめていた。

 ブレンの勝手な想像の姿と違い、2人は服も乱れていない。—―ましてや愛し合ってなどいなかった。

「えっ……?」

 咄嗟に間抜けな声を出してしまう。

 唖然としているアルべリヒ以上に唖然とした顔で、ブレンは彼を見つめ返す。

「ブレン……」ジークフリートが低く問う。

「こいつ、何で入ってきやがった。……ったくめんどくせえことになっちまったな……」

 アルべリヒは短い溜息をつくと、瞳を閉じ、がしがしと頭を掻いた。フケが飛ぶ。

 茫としたまなざしでふたりを交互に見、その後、ブレンの琥珀色の眸は部屋の中にもうひとりの存在がいることに気付いた。

 腕の毛穴から熱い汗がうっすらと吹き出す。

 船にいるはずのない、ありえない存在。その感覚はモノクロのホラー映画で幽霊が出てくる場面を見てしまった時に似ていた。

「人……魚」

 言葉にして明確にしてしまってから、くちびるが震える。

 ジークフリートとアルべリヒの間、3角の頂点の位置にいたのは、バケツから上半身を出した小さな少女人魚であった。

 体を抱きしめ、金色のまつげで覆われた大きな瞳を揺らしてブレンを見つめ返している。そこには青い怯えが滲んでいた。

 胸元には不自然な腹巻が巻かれており、その異質な存在に何故かひとしずくの親しみを持たせている。

 金の髪が小刻みに揺れ、彼女の全身を覆っている。その姿を見て驚くと共に、うつくしいという感想を抱いてしまった自分に気付き、首を左右に振って我に返る。

「人魚……、何で人魚がここに!」

 瞠目したまま後ずさり、廊下へ飛び出ようとする寸前、腕を強い力で引かれ、口を大きな手で押さえられた。

 自分を背後から覆う影を見上げると、そこには初めて会ったあの甲板の上で、ブレンを抱き留めてくれた男と同じ顔があった。

 背中に感じる力強い熱。己を見下ろす怜悧なまなざしを見上げ、ブレンは大きく目を見開いた。

「アドルフ司令官……!」

 ジークフリートはしばらく凪の眸でブレンを見下ろしていたが、短く息を吸い、うすいくちびるを開くと、ふっとため息をついた。一瞬閉じたまぶたがおろした長い金の睫毛が、彼の白い頬に影を落とす。

「ブレン・フィッシャー……。すまない。許せ」

 低い声で告げると、ぽかんと開いたブレンのくちびるを、節くれだった大きな手が覆った。

 熱い、とブレンが感じる間に、細い肩に手が置かれ、ブレンの鎖骨をすべると、胸に回され、やがて強い力で抱きしめられた。

 ついで首筋に手刀が落とされ、己の喉が、くぐもった声で呻いたかと思うと、ぐらりと視界が反転した。

 段を重ねて目の前が暗く揺らぎ、やがて暗黒に染まっていった。

 ――しかし痛みは少なかった。まるで穏やかな眠りに落ちていくような感覚と似ていた。

 暗闇の中で、青い火花が散っているのが見える。

 ひとつ、ふたつか。

 ――いやみっつか……?

 全身が気怠く、ずっとこの闇の中にいたいという気持ちと、ここから抜け出し、起き上がり、活動したいという気持ちが己の心の中で、目の前の火花のように揺らぎ、動く。

 やがて火花がゆっくりと横に薄く広がり、月色に光り始めたかと思うと、ヴーンという音と共に視界がすべて一色に統一された。

 ブレンの眸に灯りが差し込み、ちかちかと切れかけの蝋燭の火の動きのように視界を危うくさせる。

 2、3度目をまばたき、大きな琥珀色の眸を安定させると、表面が一瞬、きらりときらめいた。

(あれ……僕……)

 徐々に体に感覚が戻っていき、気怠さと共に首筋にうっすらとした痛みを感じる。

 曇りガラス越しに見る景色のようだった視界が、徐々に像を結び、物の輪郭がはっきりと形を成した。

 茫としたまなざしで、しばらく目の前のものが確認出来なかったが、靄のように見えていた淡いふたつのオパールが、肌色の膜で2、3度覆われ、また開いていく。

(え……)

 ぱちくりとブレンを見つめていたのは、金色の睫毛で覆われた少女の大きなまなこ。

 その真下にある肌理きめの細かい桜色の頬を、微々たるあかりが撫でている。

 額から左右に緩く分かれた前髪は、彼女の顔を覆い、むき出しになった細くやわらかそうな肩の上を流れていく。

 波打つブロンドの長い髪の流れに沿って、無意識に視界を徐々に下降させる。

 見えてきたのはオリーブ色の羊毛で出来た――。

(……腹、巻き……?)

 次いで見えたのは、その下にある無駄な贅肉の一切ない白い腹。ぽっつりと凹んだ愛らしい臍の穴。

 女性の腹を生で見たことがないブレンは、そのことに気付き、はっと目を見開き、頬を朱に染めて我に返った。だが、そのさらに下にあるものを目にした時に、別の意味でより大きく瞠目した。

 少女のなめらかな肌が、途中できらきらとしたきらめきを持ったピンクサファイア色に変化している。

 しかも肌質が明らかに変わっている。

 やわらかな肌から、臍の下で光沢のある透き通った幾重もの重なりへ――。

(鱗……?)

 鱗だ。――魚の持つ肌だ。

 はっとし、素早く見下ろすと、透明な水の中に腰から下—―鱗の部分が浸っている。

 そして水底で折れ曲がり、先端の大きな尾ひれが尻の後ろから覗いていた。先が花のようにひらき、透明で部屋の闇の中で夜桜のようにうすぼんやりと光っている。

(上半身、人間……。下半身、魚……)

 ブレンの耳の中を、流れていないはずの歌声が流れた。

 ――ルー レイ リア レイ メイ ネイ――甲板に躍り出る先輩たち。

 ――ルー レイ リア レイ メイ ネイ――皆恍惚とした顔をしている。――ひとり、またひとり、と海に飛び込んでいく。

 ――ルー レイ リア メイ ネイ――伸ばされる女の白い腕に引かれて、海底へ沈んでいく。

 ――僕はそれを震えながら船内の小窓からただ眺めていた。

 白い胸が、月の光に照らされた裸の上半身、エメラルドやルビー、オパール色に煌めく鱗で覆われた尾ひれのついた下半身。

 ――人魚――。

 僕たちを襲った怪物。

 ――それが今、目の前にいる。

「うわああああ!!」

 ブレンは完全に眠気から目覚めた。飛び上がり、後ずさろうとしたが、両腕は背に回され、腰のところで縄で固定されていることに気付く。

 両足は三角座りをさせられた体制で足首がひとしく縄で固定されていた。

 皮肉にも人魚の尾ひれのようになった己の足は、勢いをつけて立ち上がろうとしたせいで部屋の床の上を滑り、背を打ち付けて後ろに倒れてしまった。

「うっ!」

 割と強く打ち付けてしまったので、反動で目をぎゅっと閉じる。

 じぃんとした鈍い頭の痛みが響き、睫毛がかすかに揺れる。

 視界は再びまなうら越しにうっすらとした灯りが見えている。

「あっ! ねえ、この子大丈夫なの……?」

 先ほど人魚の少女のいた位置から鈴の音のような愛らしい声が聞こえる。

「大丈夫だ。それほど強く打って気絶させた訳ではない。君を見てびっくりしたのだろう」

「だからブリュンヒルデと離れた位置に座らせとけっつっただろ!!」

 よく通る低い声と、だみ声が交互に聞こえる。

 瞳を震わせ天井を見ていたが、我に返り、右足で床を蹴り上げ、無理やり体を起こす。

 ――これでもブレンも一兵士である。体の俊敏性は兵役についていない同年代の普通の少年よりも優れている。

 俯いてはぁ、と息を吐き、己を落ち着かせると頬を震わせて、ぐっと顔を上げた。

 ブレンは捕らわれていた。両手両足を拘束され、部屋の隅に座らせられ、気絶し、寝かされていたらしい。

 隣にはバケツに入れられた小さな人魚が大きなひとみをぱちくりとさせながら、こちらを心配そうに見つめている。 

 ジークフリートは自分の隣に少しうつむき加減で静かに座っており、その前にアルべリヒが胡坐をかいて手で顎を支えて、苛立っている様子で歯を見せながらブレンを横目で睨んでいる。

 状況がわからない。

 憧れの司令官の部屋の前に来たと思ったら、アルべリヒの声が聞こえた。男同士で愛し合っているのかと思い、部屋に乗り込んだ。すると目に入ったのは2人の睦み合いではなく、自分たち船員を襲った人魚を大事そうに囲んでいる姿であった。

「どういうことだ……」

 か細い声で呟き、額に冷たい汗をかく。

 ジークフリートがゆっくりとブレンの方を向き、怜悧なまなざしを彼に向けた。

 暗い影のあるひとみで、ブレンは憧れていた上官を軽蔑を込めて睨んだ。

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