ブリュンヒルデ

 船内の食堂はセピア色のあかりがともり、茶色くうす汚れた壁を、さらにノスタルジックに照らしている。

 食堂内ではお互いの戦いを船員同士が肩を抱き合い、叩き合いながら笑顔でたたえあっていた。

 皆、酒で赤く頬を染め、歯を見せながら大声でげらげらと笑っている。

 丸太を縦に割ったような木製の長机の上には、裂けめから肉汁のこぼれるぷりっとした薄紅色の大きなソーセージや、濃厚なタルタルソースが乗せられたふかしたジャガイモやニンジンなど、簡単な料理ではあるが、荒くれものの男たちの好物が置かれ、さらに勝利のよろこびを上げ増ししている。

 アルべリヒは祝いに特別に出された茶色のガラス瓶に入れられたドイツビールを片手に持ち、酔いで頬と鼻の頭を赤く染め、恍惚こうこつとした表情かおをしていた。

 彼の隣に立っている船員の男と肩を組み、つばが飛ぶほどに声を荒げている。

 もう片方の手に持った、泡のあふれる陶製のジョッキを高くかかげ、満面の笑みを浮かべる。

Sieg heil勝利万歳!」

 よろこびの大声と共にかかげられたジョッキが揺れ、泡が少しこぼれた。

 彼はまさにこの世の春といった気分を味わっていた。

 食堂で、ジークフリート以外のほぼ全船員が集合し、勝利の余韻を美味な料理と共に味わっているというのに、当のジークフリートは、一人孤独に甲板に残り、縁に背をもたせ、片足を立てて座っていた。彼の少し尖った膝頭に、月の鈍い光が、冴えてなめるようにあたっている。

 軍帽を頭から外し、片手に持った彼は、流れてくる潮風に身を任せていた。

 潮風は、くちびるに触れると塩辛さをはらんでいるというのに、故郷でときおり吹いていたそよ風のように、優しく頬を撫でる。

 あおすがめ、ただじっと海面を見つめる。エメラルドをより深く闇に染めたようなその色は、彼の瞳の色と呼応し、溶けてゆく。

 ジークフリートの金のまつげが少し揺れ、月光色にきらりとひかる。

「人魚は皆、死んでしまったのか……」

 海面にうつ伏せや仰向けになって、先ほど自分の仲間に撃ち殺された人魚たちの死体が浮き上がっている。

 元々白かった体は、より白く月光に照らし出され、肌の輪郭が海の波に時折飲まれ、また浮き上がる。

 金色の眉をしかめ、視線を海面から岩に移すと、岩の上にも人魚の死体が2、3とやわらかくくずおれたブルーチーズのように、倒れている。

 うつ伏せになり、だらんとのびた白い腕と、長いみどりの髪を岩にたらし、岩肌を血に染めている人魚。

 仰向けになり、白い乳房を天にあらわに向け、腹や首に銃弾の跡を残し血を流している人魚。

 人魚のくちはぽかんと開き、よだれのように血を流している。そして長い金色の睫毛に覆われた瞳は瞳孔を開き、虚ろに夜の闇を見つめている。

 その瞳は切なくもエメラルドのように碧く輝き、悲しいほどのうつくしさを放っている。

 甲板の縁に視点を戻す前に、手前の海面に仰向けになって浮いている人魚の姿が目にうつる。

 白い乳房と顔を水面に出し、冷たい両腕は腹の上で祈るように組み合わされている。

 淡い桃色であったであろう乳首とくちびるは、紫色に染まっていた。

 翡翠色の長い髪は、風で揺れる海の動きに合わせて揺蕩っており、うすく開いた藍色のひとみは、天の夜空をさえざえと映している。

 まるで一幅いっぷくの絵画のようだ。そう、ジョン・エヴァレット・ミレーのオフィーリアような。

(いや、オフィーリアというよりも、この様は、ポール・ドラローシュ「殉教した娘」の方が合っているか)

 ジークフリートはマニアほどではないが、ときおり気が向いた時にだけ、美術館に足を運び、絵画鑑賞することが趣味の一つであった。

 ポール・ドラローシュの「殉教した娘」とは、デヴェレ河に投げ込まれ、殉教したという無名の聖女を描いた絵画のことである。

 絵画の上半分は漆黒のくらやみで覆われており、ぼやけた視界をこらすと、船や岩が描かれていることがわかる。その下半分には白を基調としたブロンドの聖女が上半分とは対照的に照り輝いて描かれている。

 黒い水面の中で、彼女の周囲だけが青く透きとおっており、両手は豊かな胸の下で、緩やかに交差され、縄が巻かれている。

 眠るように死んでいる彼女の頭上には、細い線で光輪が描かれており、頬やまぶた、額を白く照らしだしている。暗闇の中、聖女を光輪で照らすことで、物語性ではなく彼女の清廉せいれんな殉教性にのみ焦点を当てているとされていた。

 あまりにもうつくしい人魚たちの死体を目にして、忘却していた絵画の事を思い出してしまう皮肉に、一瞬酷薄こくはくな笑みを浮かべる。そして、潮が訪れるように、静かに空虚が押し寄せてくるのだった。

 ジークフリートは眉間に皺を寄せ、かたく目を閉じると、人魚たちから視線を逸らすようにうつむいた。

 ジークフリートの中で、人魚といえば真っ先に思い起こされるのはジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの「人魚」の絵画であった。

 ウォーターハウスとは英国の画家で、神話を題材にした絵画を多く残した人物であり、ジークフリートが一番好きな画家であった。1871年にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツに入学し、1874年、「眠りと異母兄弟の死」を夏の展覧会で発表。この作品が好評を博し、以後1916年までほぼ毎年定例の展覧会に出品していた。女性を単独で描いた絵が多いが、1880年代からはそれと同様に、複数の人物が登場する複雑な構図の作品をロンドンのロイヤル・アカデミーとニュー・ギャラリーの双方で発表していた。

「人魚」はロイヤル・アカデミーの会員に選ばれた後に発表された作品である。アルフレッド・テニスンの詩「人魚」に着想を得た可能性があるとされている。

 ウォーターハウスは代表作「シャロットの女」をはじめとして、テニスンの詩を基にした作品を複数描いている。

 この絵の人魚は、周りに船がないことから、セイレーンとしてではなく、うつくしく、また孤独な存在として描かれている。雰囲気は穏やかで、物悲しさも感じられる。

 人気のない入江に独り座り、夢見心地で暗色の赤髪をとかしている。口はわずかに開き、歌をくちずさんでいるようだと感じたことがあった。人魚の前には、真珠のネックレスが載った貝の器が置かれている。真珠は、海で命を落とした船乗りの涙でできているとも言われている、どこかの誰かが、そんなことをすらりとどこかへ書いていた。

 展覧会でこの絵を目にした時は、あまりの美しさにひとみに涙の膜が張ったことを覚えている。だが、それは現実で決して相まみえないであろう世界が、絵画によって海の潮の匂いやなめらかな白い肌、ブルーグレイに艶めく鱗、黄みがかった光沢を放つ赤く長い髪を持ったファンタジーの女が目の前に表されたことによる感動であった。心のどこか奥底にひそめられた童心に真水を落とされたのだ。

 まさか己が現実で人魚と出会い、被害に遭い、生身の血を持った彼女たちを殺すとは予想もしていなかった。

(俺は司令官として船員の命を守ることが役目だった。あの時アルべリヒではなく俺が人魚を撃ち殺せと命ずるべきだった……。だが俺はためらった。何故ためらったか、それは撃ち殺すことに躊躇したからだ……。俺は弱い。俺は……この先司令官で居続けるべき人間ではない。辞職するべきだ……)

 呻くような苦悩の闇が、体を纏うとばりとなりて重く覆う。

 うなじを片手で抑えると、刈り上げたブロンドが月の光に淡く揺らめいた。

 ジークフリートの脳裏には、成人の女の姿をした人魚だけではなく、その中にいた少女の姿をした、先ほどの小柄な人魚の姿が焼き付いていた。海から生まれでたばかりの、あまやかな桜色の真珠のような肌をした。

 彼が人魚を殺すことを躊躇した最大の理由に、彼女の存在があったことに彼は気づいていたが、そのことに、何か触れてはならないような気がしていた。

 妹・リリューシュカにそっくりな、愛らしい波打つブロンドの少女人魚。

 胸はウェーブがかった髪に隠されていたが、他の人魚と違い、谷間に見えた成長途中の淡いふくらみが、彼女の幼さを象徴していた。

(あの人魚も先の銃撃の犠牲になったのであろうか……)

 頭に映像として焼き付いて離れない少女人魚の姿をぼうと思い浮かべながら、ゆっくりと立ち上がり、甲板の際まで歩いていく。

 こつこつと鳴る軍靴を止め、縁に手を突き海を見下ろすと、ある一点に目を奪われ、瞠目した。

 闇にまなこを慣らさなければ気付かないほどの場所にある岩の上に、その少女人魚がうつ伏せになって横たわっていた。

 背は長いブロンドに覆われ見えなくなっているが、むき出しになった肩から血を流しているのがわかる。

 やわらかそうな頬を岩につけるようにして横を向いており、こちらから見えるその顔は青白く、瞳を閉じて死人のように見えるが、海軍一視力の良いジークフリートは、彼女の金の睫毛が小刻みに震えているのを見逃さなかった。

 思考を捨て、本能の赴くままに上着を脱ぎ棄てる。

 甲板の縁に捨て置かれた太い命綱を腰に結ぶと、縁にその長い片足をかけ、黒い水へ頭から泳ぎの体制で飛び込んだ。

 泳ぐことには慣れている。海で戦う男である彼らは、先ほど人魚に誘われ飲まれていった船員と違い、不意打ちさえなければ泳ぎは呼吸をするように体に身についているものであった。

 両手を交互に回し、少女人魚のいる岩へ辿り着くと、岩のでっぱりを利用し、己の半身を上げる。濡れて筋肉を纏ったたくましい体の線が浮き彫りになり、月光で白いシャツから透けて見えてしまう。一見細く見えるジークフリートも軍人の男であることがわかる肉体であった。

 岩の上の少女人魚を優しく抱き上げ、腕に抱えると、彼女の呼吸を確認するように、その愛らしい顔に自分の顔を近づけた。

 鼻と紫色に変化したくちびるは小さいが、閉じられた瞳は大きく、睫毛も長い。今は青白い顔をしているが、先ほど一瞬見た彼女の頬と唇は桜色であった。

 少女の顔が遠くで見た時よりも、驚くほどリリューシュカに似ていることに息を飲んだ。

 ジークフリートの熱い息が鼻先に触れるのを感じたのか、少女はふっと息をこぼし、眉を少ししかめた。

「生きている……」

 揺れる瞳で少女人魚の顔を見つめた。何故か、らしくもなく泣きそうになった。

 月光は海面に黄色の道を作り、ゆったりと白い波紋を作って泳ぐ、ふたりこの世の命の、船への帰路を照らしていた。

 船内の食堂は、先ほどの陽気な雰囲気が終焉を迎えていた。

 倉庫にあったヴァイオリンやチェロ、トロンボーンやトランペット等、各々の得意楽器で演奏会まで開かれていたというのに、今ではひとり、またひとり、と疲労から自室へ戻り、人がまばらになっている。

 その中でまだ残っている者は、どのような男たちかというと、壁にもたれて酔いつぶれ、ごにょごにょと意味不明な言葉を発し、微笑みながら寝ている者や、未だ狂ったように酒を瓶のままごくごくとあおり続ける酒豪ばかりである。

 その中に、この戦いの指揮者・アルべリヒもいた。

 彼は酒の瓶を持ったまま笑顔で意味深なことを周囲に向かって口走ると、ふらふらと後ずさりし、扉の近くの壁に背をぶつけた。そのままつーっとしゃがみこむと「ひくっ」としゃっくりをする。

 すでに顔は真っ赤で、にやけた口からは酒臭い涎を垂らしている。

 アルべリヒが手にしていた酒瓶を高く掲げた後、床に置いた瞬間、隣の扉が開いた。

 茫としたまなざしで視線を上に向ける。

 入ってきたのはジークフリートであった。

 彼は静かに扉を閉めた。彼の顔は軍帽と前髪で隠され、灰色のうすい帳で覆われ、表情がよくわからなかった。

 アルべリヒは膝に手をついて立ち上がると、満面の笑顔をジークフリートに向けて、急に背筋を伸ばした。足をそろえ、片手を額にかざす。

「あ、アドルフ司令官殿。お疲れさまでぇーす」

 わざとらしい敬礼を送る。もはやこのタイミングでは嫌味にしかならない。

 ジークフリートは敬礼に反応せず、凪いだおもてで、アルべリヒを片手で押しのけた。颯爽とした足取りでなめられた飴色の床を歩き、コツコツと軍靴を鳴らす。そして、テーブルの上に残されていた黒パンを一つ手に取った。

 踵を返し、誰とも目を合わせず扉へ引き返す。扉のノブに手をかけた時、自分を見続けているアルベリヒに小声で話しかけた。今気づいたかのように。

「絶対にオレの部屋の周りに近づくな」

 その低い声音は小さくも鋭く、司令官の威厳を感じさせ、酔っぱらっていたアルべリヒの背をひやりとしたものが撫でる。

 冷たい平手で頬をはられたような衝撃があった。

 扉を開け、ジークフリートは振り返らずに出て行く。

 手には一つの黒パンだけを持って。

「あ? 何だぁ、あの人……」

 唐突に酔いが覚めた顔で、アルべリヒは閉じられた扉を見つめ続けた。

 そしてはっとあることに気付いた。

 ジークフリートは自室で飯を喰らうタイプの人間ではないことに。


 明かりがふたつみっつ、灯されただけの仄暗い廊下を静かにひとり進み、自室に戻ったジークフリートは部屋の重い扉を、音を立てないように閉めた。

 星空を観察することが好きなジークフリートは、普段、窓のカーキ色のカーテンを夜も開けたままにしている。だが今回は閉め切っている。

 理由は窓際に置かれたピスタチオ色のバケツの中にあった。

 バケツに視線を移すと、透き通るような金髪が、ゆるりと波打っている少女の後ろ姿が目に入る。

 バケツから上半身を出している体は、人間の少女のものであるが、バケツの中に入っている下半身は、ピンクサファイア色の鱗を輝かせる魚のもの。

 長髪が体全体を覆い、彼女の肌色の背を隠していることで、艶のある色気を一瞬感じさせる。

 だがカーテンの隙間から外の景色が見えないかとしきりに背伸びしようとしている姿が、愛らしいあどけなさを残していた。

 カーテンの隙間から漏れ出る月光が髪にかかり、返事をするかのごとく、さみどりの光沢を放つ。 

(やはり似ている……)

 ぼんやりとその横顔を見つめる。

 やわらかそうな頬は、先ほど血の気を無くしていたが、今では桜色に戻りつつある。

 この少女人魚が徐々に生気を取り戻していく毎に、自分の最愛の妹・リリューシュカに瓜ふたつのおもざしをしていることの皮肉に気付かされていく。

 ジークフリートが足を一歩前に進めた。

 その濡れた足音で、少女人魚ははっと目を見開き、怯えた顔で後ろを振り返る。

 だが、入室してきた人間が誰かを理解すると、胸に手をあて瞳を閉じ、あからさまに安堵したという吐息を零す。その様も子供っぽかった。

 彼女が胸に手を当てたことで、必然的に視線が胸に行ってしまい、あることに気付いた。

「それ、オレの腹巻……」

 小声で少し驚き、彼女の鎖骨の下、淡いふくらみを持った胸元を指さした。

 彼女の胸にはジークフリートが眠るときに愛用しているオリーブ色の腹巻が巻かれていた。故郷の羊毛で出来ており、やわらかい。足は不自由だが、手先が器用なリリューシュカが遠く離れる自分の為に手製で編んでくれた腹巻だった。

 冷たい海風に日中当たっていても、この腹巻さえあれば、夜は妹の愛情に包まれるように、深い眠りに落ちることが出来た。

 ブリュンヒルデは指摘されると、ぱっと両手を広げ、顔を真っ赤にして自分の胸を見下ろす。

 そして自分の体を隠すように抱きしめると、恥ずかしそうに瞳を揺らしてジークフリートを見上げた。

 こめかみに汗をかいている。

「あ、ごめん! あなたのベッドに置いてあったの勝手に取っちゃった」

 ぱちぱちとまばたきを繰り返し、焦りながら顔を赤らめ、腹巻が巻かれている胸を両手で隠す少女人魚が可愛らしく、ジークフリートは優しく瞳を眇めて微笑んだ。顎に手を当てて頷く。

「なるほど……良いアイデアだな」

 その顔を少女人魚はぽかんと口を開けて茫然と見つめた。自分を拾い助けたこの人間は、常に冷静で口数が少なく、今の今まで恐怖もあったため、ほとんどしゃべったことが無かった。ましてや笑顔を見たのもこれが初めてであった。

 悪い人じゃないのかもしれない――。

「人間たちの間で、人魚の肉は不老不死になるという変な妄想話があるから気を付けろ。絶対に人間に関わってはならない」

 マーマン男の人魚を珍しがって人間に捕らえられて、地上の生活に体が馴染まず、衰弱して死んでしまった兄がよく口にしていた。兄の遺体が無造作に海に投げ捨てられ、真珠のなみだをぽろぽろ流しながら抱きとめにいったあの夕暮れが、いまだに冷めて思い出される。

 薄れていた意識が戻り、先ほど義姉あね様人魚たちを撃ち殺していった人間の男の船に乗せられ、部屋に連れ込まれていると理解した時、あまりの恐怖にせっかく取り戻していた気を失ってしまった。

 気を失う一瞬前にうっすらと開けた瞳に映った彼の顔は精悍で美しかったが、冷たい氷岩のようで、何を考えているのかわからなかった。

 だが目覚めた時には負傷していた肩や腕、頬や頭に清潔な包帯や湿布が貼られ、手当てされていた。

 そして彼は忽然こつぜんと姿を消していた。

「あたし、ブリュンヒルデ。お兄さんは?」

 気付けば無意識にみずから自己紹介をしてしまう。

 少女人魚・ブリュンヒルデの口元には笑みが浮かび、ジークフリートに対して心を開いていることがわかった。

 ブリュンヒルデの笑顔を目にすると、ますますリリューシュカに似ており、ジークフリートも茫然として無意識に彼女の目の前に足を進ませる。

「……オレはジークフリート。なぁ、人魚って黒パン食えるのか?」

 軍服の懐に隠した黒パンを片手に持ち、腰を屈めてブリュンヒルデの目の前に差し出した。

「ジークフリート……。『ジーク』……」

 彼の名前を鈴の音のような声で反芻し、こくんと頷く。拍子に前髪のふさが、水底の海藻のように揺れた。

 ブリュンヒルデはぱっとアネモネの花が咲いたような笑顔になると、彼の手から黒パンを両手で受け取った。


 ブリュンヒルデはバケツの縁に両腕を重ね、顔を置きすやすやと眠っている。

 先ほどジークフリートから与えられた黒パンをぱくぱくとむせそうな勢いで平らげていった。

 久々の満腹感からくる眠気に襲われたのか、すべてを食べ終わると、くちびるの端にパン屑をつけたままうとうととまぶたを落としたり開いたりを繰り返し、すっと寝入ってしまった。

 ジークフリートはリリューシュカと同じ顔のブリュンヒルデが、決してリリューシュカがしないような食いつき方で黒パンを幼子のように食べていく必死な顔を見つめ続けていた。その光景は、故郷を離れてからしばらく味わうことのなかった温かな多幸感を彼にもたらした。

 自分も窓際に背をもたせ、彼女の傍らに座ると瞳を眇めて優しいまなざしでブリュンヒルデのまるくしろく、愛らしい寝顔を見守る。

 血色を取り戻したやわらかい頬に、彼女の閉じた目から涙がひとすじ流れた。

 口をうっすらと開けて少し驚くと、頬に触れるか触れないかの微妙な距離で、ひとさし指で涙を拭ってやった。

 反動でか、顔を小さく震えさせる。ブリュンヒルデの髪がひとふさ降りてきてジークフリートの手にかかった。

 手をずらすとひとふさの髪は虚空を描き流れる。彼女の頭にその手を置くと、髪を撫でる。呼応するかのようにさみどりの光沢を放ってブロンドは夜の船室にきらめく。

 ジークフリートは切ない表情になって、眉を寄せると眠っているブリュンヒルデの心に語り掛けるように優しく話しかけた。

「身体が回復すれば船員に気づかれぬように海へ帰してやる。それまで我慢してくれ。必ずお前の仲間の人魚がこの先の海のどこかにいるはずだ。絶対に見つけてやる」

 頭からゆっくり手を離し、立ち上がると扉へ向かう。もう食堂の連中も寝静まった頃だろう。

 明日の為に、他にもブリュンヒルデが食べられそうなものがないか探しに行くつもりで扉を開けると、はっと目を見開いた。

 アルべリヒが目の前に立っていた。

 身長の低いアルべリヒは、腕を組み、ジークフリートを睨み上げている。軍服を脱ぎ、私服で飲み会に参加していたアルべリヒは、茶色のサスペンダーに白いシャツといったラフな格好をしていた。

 服のところどころにビールを飲み零して落とした染みが出来ており、足は廊下を叩くようにリズムを刻んでいる。そのリズムには彼の苛つきが感じられた。

 不意打ちの動揺を隠し、努めて冷静にジークフリートはアルベリヒに声をかける。

「貴様……、何の用だ」

 冷めた目でアルべリヒを見下ろす。

まるでいつも通りのふたりの関係で、そこには異質なものは何もないと感じさせるかのように。

「司令官様よ。何を隠してやがる?」

 アルべリヒは薄ら笑いを浮かべて茶化すように声を出した。

 声音に一縷いちるあざけりが含まれている。

「何のことだ」

「嘘つくんじゃねえ。あんたの部屋から海水と魚臭え匂いがすんだよ!!」

 語尾を荒げ、ジークフリートの胸板を強く押した。

 咄嗟の行為に護身が出来なくなり、ジークフリートは後ろへよろめく。普段の彼ならばあり得ないことだったが、ブリュンヒルデのことを突かれた動揺で負けてしまう。

 ジークフリートがよろめいたことで出来た彼の脇の隙間を掻いくぐり、アルべリヒは部屋へ躊躇ちゅうちょなく侵入した。

 開いた目の端に捉え、瞠目し、怒声を上げる。

「やめろ!!」

 ずかずかと窓際のバケツの前まで近づくと、ブリュンヒルデが驚きと恐怖を孕んだ顔でアルべリヒを見上げている。

 眠っていたブリュンヒルデは、ジークフリートとアルべリヒの押し問答の声と音で目が覚めてしまっていた。

 アルべリヒはブリュンヒルデを感情の無い瞳でじっと見つめると、ふいに口の端を歪め、邪悪な笑みを浮かべた。

 ブロンドの髪が恐怖で小刻みに揺れていてうつくしい。まるで月光に照らされた水面のさざなみのようだ。皮肉にもそんな詩人のような感想を抱いてしまった自分に呆れて笑える。

「よお、フロイラインお嬢さん?」

 声を掛けられ、はっと体を硬直させたブリュンヒルデに向けて、サスペンダーのポケットに入れていた黒い小銃を素早く取り出し、その顔に向けた。

「やめろアルべリヒ!!」

 吠えるようにジークフリートが制止の声を上げる。

 しかしその声が聞こえても尚、アルべリヒはブリュンヒルデを暗い眸で睨んだまま、彼女の額に狙いを定めたかのように小銃を突きつける腕を下ろそうとはしなかった。

「へえぇ。そういうことかよ。司令官様よぉ。俺達の仲間が海底で冷たくなってるときに、アンタ、自分の部屋に人魚の生き残りのガキを連れ込んで、乳繰ちちくり合ってたって訳だ? 御大層な身分だねえ。こいつら人魚に、俺達の仲間何人殺されたかわかってんのかよ!!」

 ブリュンヒルデは瞳を閉じると、両腕を胸の前で交差させ体を折り曲げた。

 怯えから、かたかたと震え続け、顔中汗をかいている。

 その姿は見えない神に祈りを捧げる敬虔けいけんな信者のようであった。

 アルべリヒは若干彼女の神聖な姿に動揺する。

(――人魚にも信仰心はあるのか、人間とひとしく)

 ジークフリートは怒りに燃える瞳をアルべリヒのうなじに向けると、懐から黒い小銃を取り出し、すっと腕を上げ、彼に向けた。

 怒りの炎は一瞬で冷たい氷へと変わる。

 その冷徹なまなざしをアルべリヒは本能で感じ、ぎょっとした視線をジークフリートに向ける。

 ジークフリートの表情は凪のように静かだった。

 ただ固く寄せられた眉の下にある瞳だけが、業火のように燃えている。

「貴様がブリュンヒルデを撃つというのならば、俺が貴様を撃つ」

 低音が地を這い、自分の足元を床に縫い付ける。

 アルべリヒは狼に狙われたウサギのように固まった。

 こめかみから流れた汗が顎を伝い落ちる。ふたりとも銃の引き金にかけた指が、汗で濡れている。

 この世の音のすべてが停止してしまったかの如く、長い沈黙が続いた。

 緊迫の糸を切ったのは、ブリュンヒルデの深く短い呼吸だった。


 ――東の空に月が落ち、西の空に太陽が落ちる


 私はその空の中心を 金の草原の中で見つめていよう


 蒼と赤 夜と暁 氷と炎 大地と海


 すべての事象は交わり 愛を奏でるの


 この世界が終わるまで――


 澄んだ水滴がふたりの男の耳朶を打つ。

 美雨が心の黒い澱を洗い流すかのような歌声がしずかに、しずかに水量を重ねて満ちて広がる。

 高音と低音の調べを揺蕩う波のように行ったりきたりする。潮が浜辺に訪れ、また引いてゆく。

「これは……」

 ジークフリートは瞠目し、小声を震わせた。

「民謡だ……。俺の……俺たちの村の歌だ……。母ちゃん……。父ちゃん……」

 アルべリヒの頬を両目から落ちた涙が伝う。銃を構えた腕を下ろすと、膝から崩れ落ち、嗚咽を漏らして泣き続けた。

 ジークフリートも糸が切れたようにふっと元の表情に戻り、小銃を構えた腕を下ろし、茫然とブリュンヒルデを見つめ続けた。

 リリューシュカが好きだった歌。暖炉の傍で編み物をしながらよく口ずさんでいた歌。

 ブリュンヒルデは祈りを捧げるように、その歌を歌い続けている。彼女の眸から涙が溢れ、頬に流れると、バケツの海水に落ちてゆく。

 ブリュンヒルデの体が淡い灯台の光を纏ったかのように見えた。

 ジークフリートもその神々しさに琴線が震え、まなじりからひとつ、涙を零した。

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