妹に似た少女人魚
「ダメだ……もうこいつら殺すしかねえ。おい! お前ら! 銃を構えろ! 殺せ! 人魚共を殺せ!!」
アルべリヒは両手で耳を塞いだまま、閉じた瞼を勢いよく開いた。彼の焦りが声に滲む。興奮と恐怖で瞳孔が少し開き、白い眼が血走っている。
ジークフリートは、意識をアルべリヒの方へ向ける。はっと開いた瞳の瞳孔は金色に輝いていた。恐怖が彼の生命力を倍増しにしている。
「待て! アルべリヒ!」
船員たちはアルべリヒの怒声に肩を叩かれたように反応すると、よろめきながら軍服から銃を取り出した。船員たちの取り出した銃が月光で青白く光った。
ジークフリートはこれから何が起きるのかを予期し、瞠目すると無理やり重い体を動かして船員たちの方へ腕を伸ばした。
「やめろ貴様ら! まだ――」
制止の声が大量の銃声と重なり、かき消える。
白い火花を吹き、次々と引き金を引かれ、銃弾が発射されていく。
人魚の滑らかな額や胸、首に玉が当たり、次々と血を吹き出しながら黒い海面へと落ち、白い飛沫に彼女たちの血が混じって赤く染まった。
飛沫が落ち着くと、夜の闇の海だというのに、絵具を水瓶の中に落としたかのように、徐々に赤黒く染まっていくのが分かった。
「……っ」
目を見開き、軍帽を深くかぶるとジークフリートの表情は見えなくなった。
前歯で唇を噛み、船員たちから一線を引くように俯き、顔を逸らす。
軍帽の下で苦悩を浮かべている彼と対象に、アルべリヒは両拳を握りしめる。体が小刻みに震えている。その震えは先ほどの恐怖によるものではなく、甘美な興奮であった。
「やったぜ……! 俺の指示でローレライ伝説に打ち勝ってやったぜ!」
震え声で喜びの雄たけびを上げると、高揚とした気分が一気に高まった。
今まで人より優れたところもなく、軍人としてもジークフリートに負け続けだった人生であったが、自分の指令で初めて海軍兵が動き、敵を殲滅させることに成功した。その喜びが電流のように全身を駆け巡っていく。夜の潮風で冷やされていたはずの体が熱く火照っていった。
船員たちは人魚を撃ち殺したことに、はあはあと肩で息をして茫然としているだけであった。だが両手を掲げて腹から絞るような声で雄たけびを上げ続けるアルべリヒに感染するように次々と拳を天へ掲げ、勝利の喜びの声を上げていった。
人魚の死体が魚のように浮き上がり、背や腹を見せていたが、誰もその様子に気付かなかった。いや、興味もなかった。
自分たちが軍人としての力を使い、人魚という得体の知れない化け物を倒したという達成感に酔いしれていた。
その中でジークフリート唯一人が、心に浮かび上がってくる虚しさと戦って俯いて立ち尽くしていた。
星は黒い画用紙に白い砂を散らしたように天に光り、月光は煌煌と船の上の彼らと海に浮かぶ人魚を平等に照らし続けている。
船内の食堂はセピア色の明かりが灯り、茶色く薄汚れた壁をさらにノスタルジックに照らしている。
食堂内ではお互いの戦いを船員同士が肩を抱き合い、叩き合いながら笑顔で称えあっていた。皆酒で赤く頬を染め、歯を見せながら大声でげらげらと笑っている。
丸太を縦に割ったような木製の長机の上には、裂けめから肉汁の零れるぷりっとしたピンク色の大きなソーセージや、濃厚なタルタルソースが乗せられたふかしたジャガイモやニンジンなど、簡単な料理ではあるが、荒くれものの男たちの好物が置かれ、更に勝利の喜びを上げ増ししている。
アルべリヒは祝いに特別に出された茶色のガラス瓶に入れられたドイツビールを片手に持ち、酔いで頬と鼻の頭を赤く染めて恍惚とした表情をしていた。
彼の隣に立っている船員の男と肩を組み、唾が飛ぶほどに声を荒げている。
もう片方の手に持った、泡の溢れる陶製のジョッキを高く掲げ、満面の笑みで高々と掲げる。
「Sieg heil!(勝利万歳!)」
喜びの大声と共に掲げられたジョッキが揺れ、泡が少し零れた。
彼はまさにこの世の春といった気分を存分に味わっていた。
食堂でジークフリート以外のほぼ全船員が集合し、勝利の余韻を美味な料理と共に味わっているというのに、当のジークフリートは、一人孤独に甲板に残り、縁に背をもたせ、片足を立てて座っていた。
軍帽を頭から外し、片手に持った彼は、流れてくる潮風に身を任せていた。
潮風は唇に触れると塩辛さを孕んでいるというのに、故郷でときおり吹いていたそよ風のように優しく頬を撫でる。
碧い瞳を眇め、ただじっと海面を見つめる。ジークフリートの金の睫毛が少し揺れ、月光できらりと光った。
「人魚は皆死んでしまったのか……」
海面にうつ伏せや仰向けになって、先ほど自分の仲間に撃ち殺された人魚たちの死体が浮き上がっている。
元々白かった体はより白く月光に照らし出され、肌の輪郭が海の波に時折飲まれ、また浮き上がる。
金色の眉をしかめ、視線を海面から岩に移すと、岩の上にも人魚の死体が2,3と倒れている。
うつ伏せになり、だらんと手と長い緑髪を岩に垂らし、岩肌を血に染めている人魚。
仰向けになり、白い乳房を天に露わに向け、腹や首に銃弾の跡を残し血を流している人魚。
人魚の口はぽかんと開き、涎のように血を流している。そして長い金色の睫毛に覆われた瞳は瞳孔を開き、虚ろに夜の闇を見つめている。
その瞳は切なくもエメラルドのように碧く輝き、美しかった。
甲板の縁に視点を戻す前に、手前の海面に仰向けになって浮いている人魚の姿が目に映った。
白い乳房と顔を水面に出し、冷たい両腕は腹の上で祈るように組み合わされている。
淡い桃色であったであろう乳首と唇は、紫色に染まっていた。
翡翠色の長い髪は風で揺れる海の動きに合わせ揺蕩っており、薄く開いた藍色の瞳は天の夜空を映している。
まるで一幅の絵画のようだ。そう、ジョン・エヴァレット・ミレーの《オフィーリア》のような。
(いや……《オフィーリア》というよりも、この様は、ポール・ドラローシュの《殉教した娘》の方が合っているか)
ジークフリートはマニア程ではないが、時折気が向いた時にだけ美術館に足を運び、絵画鑑賞することが趣味の一つであった。
ポール・ドラローシュの《殉教した娘》とは、デヴェレ河に投げ込まれ、殉教したという無名の聖女を描いた絵画のことである。
絵画の上半分は漆黒の暗闇で覆われており、ぼやけた視界をこらすと、船や岩が描かれていることがわかる。その下半分には白を基調としたブロンドの聖女が上半分とは対照的に光り輝いて描かれている。
黒い水面の中で、彼女の周囲だけが青く透き通っており、両手は豊かな胸の下で緩やかに交差され、縄が巻かれている。
眠るように死んでいる彼女の頭上には細い線で光輪が描かれており、頬や瞼、額を白く照らしている。暗闇の中、聖女を光輪で照らすことで、物語性ではなく彼女の清廉な殉教性にのみ焦点を当てているとされていた。
あまりにも美しい人魚たちの死体を目にして、忘却していた絵画の事を思い出してしまう皮肉に、一瞬酷薄な笑みを浮かべ、やがて空虚が押し寄せる。
ジークフリートは眉間に皺を寄せ、硬く目を閉じると、人魚たちから視線を逸らすように俯いた。
ジークフリートの中で、人魚といえば真っ先に思い起こされるのはジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの《人魚》の絵画であった。ウォーターハウスとは英国の画家で、神話を題材にした絵画を多く残した人物であり、ジークフリートが一番好きな画家であった。1871年にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツに入学し、1874年、《眠りと異母兄弟の死》を夏の展覧会で発表。この作品が好評を博し、以後1916年までほぼ毎年定例の展覧会に出品していた。女性を単独で描いた絵が多いが、1880年代からはそれと同様に、複数の人物が登場する複雑な構図の作品をロンドンのロイヤル・アカデミーとニュー・ギャラリーの双方で発表していた。
《人魚》はロイヤル・アカデミーの会員に選ばれた後に発表された作品である。アルフレッド・テニスンの
ウォーターハウスは
この絵の人魚は、周りに船がないことから、セイレーンとしてではなく、美しくまた孤独な存在として描かれている。雰囲気は穏やかで、物悲しさも感じられる。
人気のない入江に独り座り、夢見心地で暗色の赤髪をとかしている。口はわずかに開き、歌を口ずさんでいるようだと感じたことがあった。人魚の前には、真珠のネックレスが載った貝の器が置かれている。真珠は、海で命を落とした船乗りの涙でできているとも言われていると聞いた。
展覧会でこの絵を目にした時は、あまりの美しさに眸に涙の膜が張ったことを覚えている。だが、それは現実で決して相まみえないであろう世界が、絵画によって海の潮の匂いや滑らかな白い肌、ブルーグレイに艶めく鱗、黄みがかった光沢を放つ赤く長い髪を持ったファンタジーの女が目の前に表されたことによる感動であった。
まさか己が現実で人魚と出会い、被害に遭い、生身の血を持った彼女たちを殺すとは予想もしていなかった。
(俺は司令官として船員の命を守ることが役目だった。あの時アルべリヒではなく俺が人魚を撃ち殺せと命ずるべきだった……。だが俺はためらった。何故ためらったか、それは撃ち殺すことに躊躇したからだ……。俺は弱い。俺は……この先司令官で居続けるべき人間ではない。辞職するべきだ……)
呻くような苦悩の闇が体を重く覆う。
うなじを片手で抑えると、刈り上げたブロンドが月の光に淡く揺らめいた。
ジークフリートの脳裏には、成人の女の姿をした人魚だけではなく、その中にいた少女の姿をした先ほどの小柄な人魚の姿が焼き付いていた。
彼が人魚を殺すことを躊躇した最大の理由に、彼女の存在があったことに彼は気づいていたが、そのことに触れてはならないような気がしていた。
妹・リリューシュカにそっくりな、愛らしい波打つブロンドの少女人魚。
胸はウェーブがかった髪に隠されていたが、他の人魚と違い、谷間に見えた成長途中の淡いふくらみが、彼女の幼さを象徴していた。
(あの人魚も先の銃撃の犠牲になったのであろうか……)
頭に映像として焼き付いて離れない少女人魚の姿を茫と思い浮かべながら、ゆっくりと立ち上がり、甲板の際まで歩いていく。
こつこつと鳴る軍靴を止め、縁に手を突き海を見下ろすと、ある一点に目を奪われ、瞠目した。
闇に眼を慣らさなければ気付かないほどの場所にある岩の上に、その少女人魚がうつ伏せになって横たわっていた。
背は長いブロンドに覆われ見えなくなっているが、むき出しになった肩から血を流しているのがわかる。
柔らかそうな頬を岩につけるようにして横を向いており、こちらから見えるその顔は青白く、瞳を閉じて死人のように見えるが、海軍一視力の良いジークフリートは、金の睫毛が小刻みに震えているのを見逃さなかった。
思考を捨て、本能の赴くままに上着を脱ぎ棄てる。
甲板の縁に捨て置かれた太い命綱を腰に結ぶと、縁に足をかけ、黒い水へ頭から泳ぎの体制で飛び込んだ。
泳ぐことには慣れている。海で戦う男である彼らは、先ほど人魚に誘われ飲まれていった船員と違い、不意打ちさえなければ泳ぎは呼吸をするように体に身についているものであった。
両手を交互に回し、少女人魚のいる岩へ辿り着くと、岩のでっぱりを利用し己の半身を上げる。濡れて筋肉を纏った逞しい体の線が浮き彫りになり、月光で白いシャツから透けて見えてしまう。一見細く見えるジークフリートも軍人の男であることがわかる肉体であった。
岩の上の少女人魚を優しく抱き上げ、腕に抱えると、彼女の呼吸を確認するように、その愛らしい顔に自分の顔を近づけた。
鼻と紫色に変化した唇は小さいが、閉じられた瞳は大きく、睫毛も長い。今は青白い顔をしているが、先ほど一瞬見た彼女の頬と唇は桜色であった。
少女の顔が遠くでみるより驚くほどリリューシュカに似ていることに息を飲んだ。
ジークフリートの熱い息が鼻先に触れるのを感じたのか、少女はふっと息を零し、眉を少ししかめた。
「生きている……」
揺れる瞳で少女人魚の顔を見つめた。何故か、らしくもなく泣きそうになった。
月光は海面に黄色の道を作り、2人の船への帰路を照らしていた。
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