ゼロの世界

おとーふ

[1]

 生まれつき、『人』というものに馴染みがなかった。

 認識といえば、私以外の生物、という程度。

 生物がいっぱいいるな、というのが抱く感想。

 訊いてもいないのに己が感情を囂々ごうごうと吐露する存在。

 彼らは、他の生物とは一線を画していた。

 は、ただ生存本能の導くままに生き、自然の摂理に従って土に還る。そこに無駄は存在しない。完璧な調和。

 でも、『人』は少し、勝手が違う。

 本能から逃げようとする。天寿に背き、生と死の境界を侵してまで命を抱える。無駄を求める。調和を壊す。

 社会集団という『人』に与えられた特性に、しかし彼らは逆らおうと足掻く。醜い、もがき。

 だから、か。

 『社会集団』というものの持つ違和感に、嫌気が差した。

 醜悪な感情を心の内に封じ込め、ぎだらけの笑顔を掲げて寝食を共にするという行為が、なんと無駄であろうか。

 軋轢あつれきを生むリスクに賭けてまで調和を希求するのが、なんと滑稽であろうか。

 万物に定められた摂理に抗うというのなら、私は生きることをやめる。

『人』であることを捨てる。

 温もりなんて、要らない。

 それが、自分という存在の居場所を確立するための唯一の手段ならば。

 私は、『社会集団』という四文字の塊を、切り裂く。


 両親は死んだ、らしい。私が生まれて間もなく。

 交通事故だった。

 ありふれた交差点で、タクシーの運転手がほんのちょっと運転を間違えただけ。

 運悪く、対向車線に家族の乗る車がいただけ。

 運悪く、衝突した箇所が悪かっただけ。

 それだけで四人の命が、塵のように呆気なく消え去った。

 私は後部座席。運転席の後ろのチャイルドシートに座っていた。よく云われる、最も安全な座席。

 父、母、そして姉を犠牲にして、私だけが生き延びた。

 全員、即死だった。

 特に思い入れもなかったので、知らされた時に涙は零れなかった。

 今更、タクシーの運転手を恨む気にもなれない。

 いや、

 その運転手も逝った。事故に関わった者、全員が。

 私だけが死神に魅入られたように、この糞みたいな世界に取り残された。

 親の愛情。姉妹の戯れ。家族の温もり。

 それらは全て、死神が簒奪していった。

 いや、簒奪したかなんて知りえない。

 元々あったかさえ、今となっては分からないのだから。


 初めて感じた肉親は、祖母だった。

 赤子の身にして独りになった私を哀れんだのだろうか、私に過度なまでの愛情を注ぎこんだ。

 本来ならば生物はある程度の挫折を味わい、おのずと生きながらえる術を身につけていくものだ。ライオンだって、蟷螂かまきりだって、菟葵いそぎんちゃくだって、親は子をわざと突き落とす。これもまた、万物に定められた摂理だ。

 しかし、彼女は私に降りかかる火の粉を全てはらってしまった。

 私は自己の防衛術を知らぬまま育った。世間の裏側、危険な面に対する免疫がないまま独りになった。ちなみにその結果、私は他人の悪意に触れた時に塞ぎ込み、当然のように関わりを嫌った。

 幼少期、初めて触れる温もりに、私は戸惑った。

 どう反応すればいいのか。

 こんなもの、いずれは皆死んでしまうのだから、意味なんかない。

 それ以前に、人と人との関わりは自然界に存在しなかった。

 だから、温もりに触れてしまったら、掟破りだ。

 そんな概念に囚われていた私は、祖母を拒絶した。疎ましく思い、単純に嫌った。

「……莉生がいいなら、私は構わないよ」

 どこか諦念を滲ませながら、祖母はそれだけ言った。

 今思うと彼女なりの気遣いだったのだろうが、私はのが理解できなかった。というより、理解したくなかった。

 彼女だけではない。私の境遇を哀れんでやってきた人々を軽蔑し、拒んだ。

 彼らは例外なく私のことを忌み嫌い、輪から弾き出した。

 それで良かった。

 憐憫。哀憐。同情。惻隠。

 なぜ彼らがそんな風に感じていたのだろうか。

 所詮、彼らにとって私は他人だったろうに。

 結局のところ、私は彼らの自己満足に付き合わされたのだろう。

 大した関係もない少女の境遇を、他人と共に悲しむことで、「自分も同じように悲しみ、哀れんでますよ」というメッセージを周りに発信していた。そうすることで周りに異質な目で見られることもなく、仲間意識とともに迎え入れられる。そうして自分の拠り所を得る。大方、そんなところだろう。

『人』の行動原理は、この仲間意識に収束していく。

 属しているという安心感。取り残されていないという安堵。という確認。

 自然の摂理に逆らって得たこの潜在意識は、けれど往々にして異端者に対して残酷だ。

 現に、彼らの結束に対して拒絶を見せた私を、彼らはいとも簡単にその仲間意識の中から弾き出した。

 そういう性質を知ってなお、『人』は理解ができない。

 ああ、私はどうやって生きればいいのだろうか。


 周囲との交流を絶ち、過保護すぎる祖母と二人で暮らしていると、『普通の人間』をいつしか忘れていった。

 成功を喜び、理不尽に怒り、喪失を哀しみ、娯楽を楽しむ。そんな人は、私の周りにはいなかった。

 憧憬の欠落は、深い無力感と虚脱感を私にもたらした。

 

 内なるもやと闘いながらの日が、長く続いた。

 私は、『小学校』という場所に行かされた。なんでも国が課している義務らしいが、私は行きたくなかった。

 ああ、また五月蠅うるさい奴らが増えるのか、と。

 数十人単位でひとつの部屋に纏められ、共に課題を解く。共に昼食を食べる。共に掃除に取り組む。共に……。

 なぜ彼ら彼女らがそのような行為を楽しんでいるのかが分からなかったので、訊いた。

「……なんで、こんなことをするの?」

「なんでそんなことを言うの?」

 訊いては駄目だったらしい。私は『小学校』の意義を知らぬまま、六年を過ごした。

 友達、というものはできなかった。いや、作らなかった。そんな関係を持ってもわずらわしい。第一、彼らは喧々囂々けんけんごうごうとしていて、私の気分を害した。

 ただひたすらに、独りで知識を蓄えた。

 本は唯一、自然と同様に理解ができるものだった。煩わしいおもんぱかりが要らず、一方的な情報の移ろいに身を任せることができた。余計な修飾を抜いて、本質同士で語り合えた。

 ジャンルは問わなかった。

 国内外の古典の文豪が描く純粋で篤い世界は、いつ読んでも彩り溢れるもので、その語彙と表現力に打ちひしがれた。

 甘く切ない恋慕にガラでもなく胸をときめかせ、心を無駄に疼かせた。

 挑戦と勇気に満ちた冒険を夢見て、拙い想像力を目一杯に働かせた。

 心を震え上がらせる恐怖の体験談を貪るように吸収し、非現実的な描写を愉しんだ。

 他方、私は周囲の人から避けられているのが分かった。恐らく、話しかけても返事さえせず佇む私を不気味に思ったのだろう。ここにも、人間の潜在意識が働いている。

 結局、人間は自己保身に走る。

 輪から外れたくない。認められたい。独りは嫌だ。関わりが欲しい。

 に、人間は敏感だ。

 裏を返せば、人間はそれだけ、脆い。

 輪に入っていない。認められない。独りぼっち。関わりがない。

 これだけで、普通の人間の精神は簡単に崩れ去る。

 元々先入観があれば、別だが。


『中学校』という次のステージも、同様に気怠けだるかった。共に、共に、共に……。

 延々と続く共同作業に吐き気を催し、途中から行かなくなった。

 違いがあったとすれば、『中学校』に行かない自由があったこと、生徒同士の排他的な結束がより一層強まったこと、本の種類が増えたこと。それくらいだろうか。

 年齢を重ね、考えるべきことが増えたのだろうか、周囲の無関心さはやがて、虐めに遷移していった。

 暴言、暴力、盗み、嘲笑、エトセトラエトセトラ……。

 正直なところうざったいだけだったのでこちらも無視を決め込んでいた。因みに先生は臆病そうな男性だったので、虐める側も遠慮がなかった。

 殴られた。蹴られた。抓られた。炙られた。折られた。剥かれた。削がれた。切られた。

 段々とエスカレートしていき、日に日に傷が増えていった。

 祖母には裏切られた。あんなに愛情を注いでくれたのに、あんなに親身になって接してくれたのに、虐めのことを訴えた途端見向きもしなくなった。

 絶望を、知った。

 辛かった。

 支えてくれる人がいないと知って、痛みが強くなった。

 散々貶されて、脅されて、傷つけられて、穢されて、汚されて。

 それでも死なない自分の体を呪った。短い人生で初めて、自らの手で自分自身を殺したいと思った。

『中学校』の記憶は、固く閉ざした。

 忘れたかった。

 消したかった。


 ようやく社会の秩序ルールが分かってきたところで、『高校』に進学することになった。生まれ変わりたくて、遠い地の高校を選んだ。

 祖母はもう、何も言わなかった。軽度の肺癌を患わったらしく、別れの言葉もそこそこに近所の大学病院に閉じ込められた。

 少し、寂しかった。

『中学校』で遭遇した絶望を絶ち新しい生活を始めるために、祖母を見捨てて北の大地へと旅立った。


 杜谷もりたに高校、という高校に入学した。

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