俺の描く絵が嫌いだと君に言って欲しい

イプシロン

第1話

 工藤祐二は絵を描く。


 子供の頃から絵が好きだった。

 想像の世界を表現するのが好きだったから。

 大きなスケッチブックに、気の向くままに絵を描いた。


「え、私にプレゼント? 自分で作ったの? ……なんだろ」


 転機は、幼馴染の夏希への誕生日プレゼントとして、彼女の絵を描いた時だった。

 自分より社交的で友達も多い夏希が、自分の絵を褒めてくれたのだ。


「ゆーくん、すごい! こんなに素敵な絵を書けるなんて、きっとゆーくんは天才だね!」


 人気者の彼女に喜んでもらえて、祐二は舞い上がるほどに嬉しかった。

 明るく愛らしく優しい幼馴染みに褒めてもらいたくて、彼は毎日のように絵を描いた。

 段々と、表現することより褒めてもらうことの方が大事になっていった。

 絵を持っていく度、幼馴染みは絵を褒めてくれた。


「流石ゆーくん、今日の絵もすごいなあ。素敵な絵が書けたら、また一番に私の所に見せに来てよ! 約束だからね!」


 毎日、題材を絞り出すように練り上げているうちに、段々と表現したいことはなくなっていった。

 それでも必死に何かないかと頭を捻って、夏希に喜んでもらえるような絵を描こうとした。

 そうやって苦しんでいるうちに、ある日夏希がこんなことを言い出した。


「ねえねえ、今度絵を描いてるところを見に行ってもいいかな? ゆーくんが絵を描いているところ、見ていたいんだ」


 断る理由はなかった。

 夏希と一緒の時間を過ごせるなら、祐二にはそれ以上に幸せなことなんてなかったから。


「私のことは気にせず続けてね。私、好きなんだ。絵を描いているゆーくんのこと。なんでだろう。見ているだけで、カッコいいなって思っちゃう」


 絵を書いている最中、夏希は黙って祐二を見つめていた。

 筆を動かす時間は辛く苦しかったけれど、間違いなく幸せな時間でもあった。


 それから二人は成長して、夏希は普通の大学に、祐二は近くの美大に進んだ。


「ゆーくんは絵を続けるんだよね! うん、それがいいと思う。だってゆーくんは、素敵な絵を描く天才なんだから!」


 進んだ先で祐二は、自分よりずっと素敵な絵を描く、自分よりずっと絵が大好きな人々に出会った。

 絵が大好きな人たちの前では、自分の絵がゴミみたいなものだと思い知った。

 周りは誰も、主人公の絵を評価してくれなかった。

 絵で食べていくことは無理だろうとまで評された。

 そりゃそうだと、彼は半ば納得したような気持ちになる。

 だって自分の絵に対する情熱は、とっくの昔に燃え尽きていたのだから。

 事実、彼の自己評価は間違っていなかった。

 それでも主人公は絵を描いた。

 夏希が褒めてくれたから。


「あ! これ、ゆーくんの絵でしょ! 他と全然違うもん。一発で分かったよ!」


 展示会で、同級生が作る傑作の陰にひっそりと埋もれるように並ぶ彼の絵を、夏希はいつも一番に見つけてくれた。


「えー? こんな人たちの絵なんて、全然たいしたことないよ! 私が思うに、ゆーくんの絵はこの中でダントツだと思うな!」


 他の誰に貶されても、幼馴染みが認めてくれたなら、それで十分報われるような気がした。


 卒業後、祐二は町外れの安アパートに引っ越して、バイトをしながら絵を描き続けた。

 コンクールに応募したり、ネットに絵をアップしたりしていたが、箸にも棒にもかからなかった。

 焦燥感だけが募っていった。

 何者にもなれない期限が、刻一刻と迫ってきているのを実感していた。

 それでも絵は止められなかったし、その道から逃げる気にもなれなかった。

 逃げたら、今までずっと自分のことを信じてくれた夏希のことを、裏切ってしまうのではないかと思ったから。


「やっほー! 久しぶり! とは言っても一週間ぶりだけどね。どう? 今日も楽しく絵を描いてるかな?」


 祐二にとって、最後の希望は週に一度夏希が訪ねてきてくれることだけ。

 自分と違ってちゃんと就職し、立派な社会人になった幼馴染みは、彼にとって眩しすぎる存在だった。

 夏希は祐二が絵を描く姿を眺めながら、嬉しそうに笑ってこう言う。


 「私、やっぱりゆーくんの絵が好き。まだ世間が認めてくれないだけで、ゆーくんは世界に一人だけの天才だと思うよ」


 祐二は唇を噛んだ。


 ――――お願いだから、俺の絵をこれ以上認めないでくれ。

 君が褒めてくれるから、今までずっと頑張ってきた。

 きっとこれからも、君が褒めてくれる限り、俺は絵を描き続けられてしまうだろう。

 だけど駄目なんだ。俺には才能がない。それは自分でも痛いほどよく分かっている。

 これ以上この道にすがりついていても、俺に未来なんてない。

 いい加減見切りをつけたいんだ。


 だからお願いだ、俺の絵を嫌いだと言ってくれ。


 すがるような目で、祐二は夏希を見つめた。

 夏希は、澄み渡る瞳で祐二を見つめ返した。

 眩しくて見ていられなくて、祐二はそっと目を反らした。


 言えるはずがない。

 今まで自分の絵をあれだけ好きでいてくれた彼女に、よりにもよって嫌いになってくれだなんて。

 かけがえのない勇気を一杯もらってきたのに、今更切り捨てるなんて、失礼すぎる。

 泣きそうな顔になっていた祐二を見て、夏希は宥めるような優しい表情を浮かべた。


「大丈夫。大丈夫だよ。頑張っていれば、きっと誰かが認めてくれるから。だから心配なんてする必要ないんだよ」


 逃げるなんて許されない。祐二は改めて思い知った。

 キャンバスに向かい、掠れた脳を必死に動かしながら、彼は今日も絵を描く。

 絵を描きたい。最後にそう思ったのが、いつのことだったか、彼はもう思い出せなくなっていた。


「私、ゆーくんが絵を描いてるところを見るのが好き。だから、ゆーくんの絵が好き」


 夏希は最後にそう言って、祐二のアパートを去って行った。

 祐二は死んだような目をしながら、今日も黙々とキャンバスに向き合う。




 夏希の部屋には、祐二からもらった一杯の絵がうずたかく積もっていった。

 それは、彼が彼女のために書いた無量の絵画。

 二〇年以上の時が作り出した、夏希への祐二の思いそのものだった。


 夏希は絵を見るのが好きだった。

 何が描かれているかは、どうでも良かった。

 祐二が描いてくれたということだけが重要だった。

 自分以外誰も認めてくれないのに、彼が自分だけのために描いてくれたということが重要だった。


「綺麗だよ、ゆーくん。今日の絵も、とっても綺麗だった」


 今日もらった絵を絵画のタワーの一番上に重ねて、夏希はうっとりと唇を舐めた。

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