海豚の着物――捌
聞こえていた葉音が一瞬途切れた。
木に触れると、硬い壁を触っているように感じる。
「耳と手の役がうろたえてるよ」
僕は二人に言う。
ヤマトが青色の炎を両手に構える。赤くないのは、彼なりに僕の事を気遣ってくれているのだと思う。彼は声を張り上げる。
「お前らごと焼いてやるよ。それが嫌なら出て来い!」
店員の顔とあまりに違うヤマトを見て、ノウミが僕に耳打ちする。
「ヤマトさん、大丈夫なのか? キレたのか?」
「あの人は面倒ごとが嫌いなんだよ。さっさと終わらせようとしてるだけで別に怒ってないから大丈夫だよ」
「大丈夫とは言っても、ちょっと楽しそうだぞ?」
「そういう人だと思っていても間違いじゃないけどね」
とにかく虫を探そうと言うと、緑色した光の玉が空へ上がるのが見えた。
「あれだ!」
叫んで飛び出すノウミ。
僕は別の方角へ飛んでいくもう一匹の虫へ手を伸ばした。
けれど緑色の光へ伸ばしたはずの僕の手は鱗で覆われている。まるで蜥蜴だ。飛び上がってしまった僕は魔法を忘れて過ちを思い出す。
これは虫の作り出す幻だ。これは天災なんだ。だから僕が別の幻へ沈んでいくのも仕方のない事だと思う。せめてもの抵抗に目を閉じた。
誰かが僕を知らない名前で呼ぶ。
「だからこんな若い参謀なんて嫌だったんだ!」
そりゃあ怒鳴りたくもなるだろうな。僕のせいで死んでいくんだから。
次に僕を襲ったのは知らない感覚だ。
僕だけが知れなかったこの感覚に、少し嬉しく身を委ねる。
生暖かくて臭い息。僕の体の中で一番柔らかであろう肋骨の下を噛み砕かれる。下半身が奴に飲み込まれていく時の咀嚼音が、途中でぶつりと途絶えた。
もう僕を罵っていた声も聞こえない。それはとても居心地が悪い。
僕は感覚を研ぎ澄ます。まだ目は開けられない。
気が付くと僕の体は下半身と繋がっていて、熱い風の吹く場所に立っている。
幻が変わったのだろう。ここは僕が焼いたあの国。
耳が痛くなるほど音のない幻の中なのに、今でも聞こえるようだ。
記憶とは違い、僕は首からざっくりと斬られた。痛みの感覚がさっき噛み砕かれた時よりも鋭い。近くにいるのだろう。
思い切って僕は目を開ける。
国王の眉間に緑色の玉虫がとまっている。眉間の肉ごと剥ぎ取るように玉虫を掴んで腰の虫籠に放り込む。
「油断するからだよ」と吐いた言葉が思った以上に憎々し気で自分が嫌になる。
斬られた痛みが消えていく。虫が灯屋へ送られたのだ。
幻の国王に殴りかかると、ぐにゃりと歪んだ。
「アメノ! アメノ!」
聞き慣れた名前で僕を呼ぶ声。
すると肩を掴まれた。感覚を操っていた虫はもう送ったはずなのに、痛いほど揺すられる。その痛みに、これは幻じゃないんだとホッとした。
「うるさいよ……」
「戻ったのか! 大丈夫か⁉」
目を開けるとノウミがいた。ヤマトはいない。
僕たちは大きな茶碗をひっくり返したその上に座っていた。だから茶碗は小山ほどもある事になる。
「ここなに? どうしたの?」
「私は虫を一匹捕まえたのだが、どうやらヤマトさんの相手にしている虫が厄介らしい。今ここの景色がぐるぐる変わっている最中なんだ」
言葉を裏付けるかのように景色が変わった。今度は暴れる杖の林だ。
「ヤマトを探そう」
「あぁ。しかし姿が見えなくてな」
ノウミが辺りを探るように目を細める。
「ここは幻だからね。そのままじゃ見えないよ」
僕がそう言うと、抗議するように杖が飛びかかって来た。けれど杖は僕をすり抜ける。
「もうお前一匹だけだからね」
見えているだけ、ただの幻。僕はこの空間に向けて宣言する。
「これは幻だよ」
サァッと景色が流れていく。その中で杖の一本がヤマトの姿になった。
「いたよ」
しかし駆け寄る間に新たな幻が形成される。次は歪む口が大量に泳ぐ海だった。
分かっていても一瞬怯んでしまう。
「またヤマトさんを隠されてしまった。しかし、これは……」
「仲間を捕まえられて焦ってるんだろうね。鬱憤があふれ出しちゃってるよ」
「なるほど、鬱憤か。どおりで私も嫌な声ばかり聞かされたわけだ」
ノウミが溜息を吐く。
冷たくもない海で、ひん曲がった口が僕らに何かを言っている。
「僕もだよ。人の傷を抉るなんて、随分と厭らしい天災を起こすものだね」
「なぁ、アメノは何を……いや、なんでもない」
「言ったでしょ。僕は虐殺師だって。その時の事を見せられたんだよ」
真っ直ぐなノウミは分かりやすく怒ってくれた。それが嬉しいのに少し鬱陶しくて、やっぱり嬉しかった。
「宣言すればいいんだな?」
そしてノウミは「これは幻だ」と言う。
真っ直ぐすぎるノウミは危ういけれど、こういう時にはとても強い。
消えていく幻の中で、青い炎に包まれるヤマトを見た。
今度は隠させるものかと僕は慌てて走り寄り、ヤマトの腕を掴む。
驚いた事に青い炎は熱かった。本物の炎だ。
「来るならそう言ってくれないと、焼くところだったろうが」
ヤマトさんは少し疲れた顔で笑っている。
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