海豚の着物――漆

 目を開けた時、僕たちは辺りで一番高い木の枝に座っていた。ノウミと別れたあの古の雰囲気の漂う森だ。隣には、海の中で岩場に腰かけていたのと同じ姿勢でヤマトが座っている。

「という事はここも幻だね」

「だろうな。けどなぁ、あんまり刺激すると引きこもりは逃げるからなぁ。幻だけで害がないんだから、このまま虫探しするか?」

「うん」


 僕の返事に短い悲鳴が覆いかぶさった。野太い男の声だ。

 姿を探すと猫が見えた。大きな猫で、耳の裏から二本の角が生えている。その口は血まみれだ。

 僕とヤマトが急いで枝から降りると、大猫の足元で槍を構えるノウミの姿が見えた。

 久しぶりに嗅ぐ血の臭いに全身が総毛立つのを感じる。


「自分で動けばいい。僕はもう間違えない」

 この天災のせいかもしれないけれど、僕の目には今あの時の戦場がちらついて、過去と今と感情が混ぜこぜになっていく。

 堪らず走り出した僕はノウミを見もせずに、真っ直ぐ大猫の首に飛びついた。そして巨大な氷柱を落す。

 大猫は血を吹きながらドシンと倒れる。氷柱が音を立てて割れた。

「アメノ!」


 ノウミに肩を掴まれると、その強引な握力に戦場の幻だけが消えていく。

 グネグネとした幹を伸ばす木々が見え始めても、幻じゃない大猫は消えない。僕が過去の過ちから自分の精神を取り返しても、虎柄の大猫の死体は変わらずある。

「ごめん……」

「いや、助かった。それ」

 ノウミが示す先にあったのは長い毛を真っ赤に染めた、角のある大きな猫の死体だ。


「逃げた狐男を捕まえに言っている間にやられた」

 その狐男の方は木の洞に隠れている。

「あれ、ヤマトは? 一緒に来たんだけど」

「さっき白狐を追って行った。大丈夫か?」

 ゆっくりと呼吸を整える。

「もう大丈夫だよ」


 よく見るとノウミの左腕に爪痕があった。手拭いで簡単に止血しながら聞く。

「何があったの?」

「まぁ見たまんまなんだが、初めは猫たちの痴話喧嘩だったんだ」

 話し始めたところへヤマトが一人で戻って来た。

「ダメだ、逃げられた」

「そっか。でもここなら大丈夫だろう」

 僕がヤマトに言うと、ノウミは首を傾げる。

「ここなら、とは? ここの場所が分かったという事か?」

「あぁ。僕たちはどこにも移動していないよ。だからこれは……」

 血まみれの二体の大猫の死体。これは、実際は珈琲屋にある事になる。

 だからだろう。土は見えているのに掘る事ができない。僕は困って死体に手を伸ばす。


「触るな!」


 唐突に響いた叫び声は、狐男のものだった。

「これは病だ! 触ると移りますよ! あぁ、あの恐ろしい病が……まさかこんな、どことも知れない森の奥で! もうお終いだ! シラユキちゃんが、あの美しいシラユキちゃんがあんな姿になるなんて! 僕たちはもう助からないんだ……お終いなんだ……」


 狐男は洞から出てきたものの股の間にすっかり尾をしまい込み、地面にしがみ付いて震えている。

「落ち着いて下さい、お客さん」

 ヤマトが隣にしゃがみ込むと、狐男は襟首を引っ掴んで叫ぶ。

「あなたは見ていないから落ち着いていられるんですよ! 僕なんか手を繋いでいたんですよ! その手がフカフカとし始めて……」

 うわぁ! と狐男は発狂する。ノウミがそれを引き継いで話す。


「猫の尾人の二人が起きて喧嘩の続きを始めたんだ。そうしたら……」

 狐男がノウミを押しやって、僕の方に身を乗り出す。

「そうしたら男の方が獣になっちゃったんですよ! あれが有名な獣病って不治の病なんですよ! あぁ……シラユキちゃん!」

「いや、それは……」


 なんと説明しようかと間が開いた。すると涙と恐怖でぐちゃぐちゃな顔の狐男がまたも派手に発狂して「奇病だ。触ると感染する」と言うので仕方なく寝てもらった。

 魔法の発動でほんのり紫に光る風に包まれ、狐男は欠伸をする。そしてそのまま倒れるように眠った。

「ここに寝かせておこう」


 ここは珈琲屋だからね、と言う僕の言葉に驚くノウミ。今回の天災は幻だと説明すると、先ほどの僕と同じように二体の大猫の死体に目をやる。

「狐男が病だって言ってたし、問題ないだろう」

 ヤマトは軽く言って「行くぞ」と歩き出す。僕たちは慣れ過ぎているのだ。


 僕とノウミはヤマトの後をついて歩き、三匹の虫について話をする。

「聞こえてくるのは三人分の声がバラバラに。どれも一言だけだよ。三匹の役割分担は分からないけれど、みんなでこの幻の空間を作っているんだろうね」

「幻が天災になっているという事は、幻に恨みでもあるのか?」

「違うでしょ」

 ノウミの言葉にヤマトが噴き出す。

「ノウミって真っ直ぐすぎて捻じれてるよなぁ。だからさ、幻に執着してるって事だよ。現実逃避し続けてきて、まだ現実逃避したいんだよ。つまり引きこもり」

「なるほど」


 しかしそうなると、強い感情を垂れ流しにして仲間を呼んでしまった虫が一匹いるはずだ。他の二匹は似た思いを抱えていたから巻き込まれてしまっただけで、捕まえるのは難しくないだろう。

 三匹の役割は恐らく『目』と『耳』と『手』だとヤマトは言う。

 幻を見せ、本物らしく見せるために音を乗せる。触った木の感覚や水の冷たさがあれば幻だとは気付かれない。

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