海豚の着物――陸
映像が完全に消え去ると、そこが海の底だと気が付いた。
僕を拒絶しているような冷たさと音のない空間に沈んでいく。また転送されたのだ。
僕とヤマトは急いで魔法で空気の層を纏う。
「しょっぱいし、苦しいし、急に転送するし、もうさっさと見つけて潰そう」
「潰さないで。保護してね」
分かったと笑うヤマトの向こうを一匹の蛸が泳ぐ。
「だけど……」
ヤマトが首を傾げる。
「なに?」
ヤマトは空気の層から手を伸ばし、海に手を入れる。それを舐めて首を捻る。
「しょっぱい、か? いや、気のせいと言われれば気のせいな気もするしな。それに、俺の蔦が枯れてない」
「蔦が?」
「おぅ。海に入るといつも枯れるんだよ。出た後でぐんぐん伸びるけど」
確かにヤマトの首筋の蔦は元気に伸びて、今も彼の喉元を締め上げている。それが何を意味するのかまで考える前に、残して来たノウミを思い出した。
「ノウミとどのくらい離れたんだろう?」
「近くだといいけどな。って、海の底に飛ばされたのが俺たちで良かったよな」
「そうだね。大変な事になってたろうね」
のんびり話し込む僕らを監視するように、頭上を一匹のマグロが悠々と旋回する。
「歩こうか」
僕たちは毎日なんらかの選択をする。僕はその度にもある、償い切れない過去を思い出すんだ。
そんな僕には今、この海が赤く染まっていく幻が見える。
「虫が近くにいる事は分かったんだから探すか。灯りあるか?」
「ん? あぁ、あるよ」
僕の反応が遅れたのを、しっかりとヤマトに気付かれた。
「どうした?」
「いや、大した事じゃないよ。それより虫の声を聞いてみよう。海の中ならもしかすると聞こえるかもしれないからね」
「かすかにでも聞かないよりいいか」
ところが、聞く態勢を整えた途端に声が耳に流れ込んで来る。
『うるさい』『だまれ』『くるな』
短い単語が雪崩のように押し寄せるけれど、言葉はバラバラだ。
僕は急いで灯りを取り出す。それを掲げて水面を目指した。けれど何故か泳げない。海底は歩けるのに上に泳ぐ事ができないのだ。
「そんなに捕まりたくないんだね。ヤマト、虫は水面だ!」
僕たちが魔法を使うと、泳げなくとも問題なく水面へ向かう事ができた。けれど水圧が軽い。まるで空っぽの海のようだと思った。
『きいて』『わかって』
虫の声は水面に近くなるほど遠のいた。
あと少しで水面というところで、僕たちのそばを海豚が泳ぐ。その海豚は不思議なことに腰巻のような着物を着ているのだ。たわわに実る稲穂のような色の布だ。
「着物の海豚めちゃくちゃ可愛い!」
海豚は伸ばされたヤマトの手を掠めて奥へ去って行く。
「追わないからね、ヤマト!」
「ちょっとだけだからさぁ」
「虫が先だよ」
「あんな海豚には二度と会えないかもしれないんだぞ!」
「帰ってから着物を着せたらいいでしょ」
そう言うとやっと納得してくれたが、その頃には虫の気配は海全体にぼんやりと漂うだけになっていた。
水面に顔を出す前に僕たちは諦め、ワカメが林のように揺れる岩場に腰かける。
「虫、逃げたみたいだね」
「悪かったよ」
珍しく反省するヤマトに怒る気はない。大好きな海豚が着物を着ていたのだから仕方がない。むしろ追わせてやらなかった事を少し申し訳なく思っている。
「いいよ。ところで虫の声、聞こえた?」
「おぅ。何か引きこもりみたいだな」
「引きこもりか。じゃああの映像の女の人は母親かな?」
僕の言葉に、ヤマトが身を乗り出す。
「俺も見た! 憎たらしいおばさん! あれが親なら気持ちは分かる」
「しこりを解くにも虫の居場所が分からないとね。虫が水の中にいるとは思えないし、やっぱり水面のどこかなんだろうね」
「それなんだけどさ、俺さっきの海豚の着物に見覚えがあるんだよ」
「まだ海豚の話してるの?」
呆れて言葉を挟むと「違う、違う」と言われた。
「隣の店に売ってた気がするんだよ。あの着物」
「それを海豚が持ってた? 一緒に転送されちゃったのかな?」
「若しくは転送されてない」
「ん?」
初め言われた意味が分からなかったけれど、すぐにハッとした。
そして僕は懐の手拭いをワカメに結んだ。
見ている間にほつれる布の端がチロチロと赤い舌になる。やがてギラギラとした鱗の肌が見えはじめ、蛇の顔が現れた。手拭いが海蛇になったのだ。
「そうか。これは現実から目を背けたい虫たちが起こした天災なんだね」
僕はおもむろに海蛇の胴体を掴んだ。グワッと口を開けるそいつに言い切る。
「お前は手拭いだ」
牙をむく海蛇は、僕の手の中で手拭いに戻る。
ヤマトが歓声を上げ、彼にも同じように見えていると知る。
「ここは海じゃない。この海は幻だ」
言葉で海が溶けていく。
『いやだ』という虫の声を響かせて。
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