海豚の着物――玖
パッと景色が変わる。今度は何もない。綿あめの上に立つみたいに不安定なだけの、白い空間だ。景色は作らないのだろうかと思っていると、聞いてもいないのに虫の声が頭の中に流れ込む。
『きけよ!』『いたい、いたい!』『おれじゃない!』
やはり言葉はバラバラだけれど、なんとか話は出来そうだと思った。
思うと同時に別の声が聞こえる。ノウミだ。
「聞いてもらえないからって、諦めて引きこもってたのか? そんなんじゃ解決するわけがないだろう。引きこもっていたって何にも変わらないと気が付かなかったのか?」
「ノウミ、お願いだから虫を逆なでしないで」
ヤマトはその様子を見ながら腹を抱えて笑っている。
「そうは言うが、こいつの言っている事はだいぶ我が侭だぞ?」
「だから言わないでって言うのに!」
ガンと頭を殴られるような衝撃が走った。それが大量の言葉だと気付いた時には新たな幻の中にいた。この玉虫の過去に違いない。
だから言ったのにと、呟いた僕の言葉は届かなかっただろう。
我が侭な玉虫を捕まえるためにも、僕は言葉の激流に身を委ねた。
石造りの、酷く散らかった部屋だ。
僕は生前の玉虫になっているようだった。
台所の机の前でふんぞり返る女性が母親だと、玉虫の声が言う。
声と感覚役の虫はもう捕まえてしまったので痛くも寒くもないし、聞こえるのは玉虫の声だけだ。
母親が石の壁と同じ表情で何事か言い続けている。その様子からいい事を言っていないのは分かる。
僕は、と言うかおそらく玉虫なのだけれど、暴言を吐いてから耳を塞ぐ。
本当は震えているのに、そんな事は母親に伝わらない。
「やらせてもくれないで、出来ないって決めつけんな!」
玉虫の声だ。それに対して母親が叫んだらしい。その全ては玉虫の位置に立っている僕に向けられる。
声が聞こえないからだろう。よく表情が見える。
酷く歪んだ顔だ。顔の右半分が無を作り、左半分の口が引き攣る。
僕の真横に机が飛んで来る。母親は次々に魔法で物を投げる。それでいて口も止まらないようだ。
聞こえない僕には母親がどんな事を言っているのか分からない。
「狂った振りすればいいと思うなよ! 俺の人生だ! お前のじゃない! 俺の人生を俺が決めて何が悪いんだ! 失敗すんなだと? 失敗せずに何が出来るってんだ。糞が!」
玉虫は毒づくが、繰り出す魔法は防御のみ。
どんどんとガラクタに埋もれていく。母親の顔はどこまでも歪んでいく。これがそう見えているだけなのか、本当に歪んでいるのかはどうしても分からない。
「死ぬとか殺すじゃねぇだろう! 話を聞けよ!」
そう怒鳴って勢いよく立ち上がった。すると母親が玄関の扉から飛び出して行く。
そして外で何やら叫んでいる。
僕の後ろで、ガラクタを受け止めきれなかった壁が崩れた。
外に出て見たのは、何も知らない野次馬たちの冷たい視線。わざとこちらに見せつけるひそひそ話。泣き崩れる母親の姿。
「俺は虫けらかよ」
言い捨てて向かった先に父親らしい男がいた。その男は紫の紋の入った上級魔法師の制服を着ている。
今あった事を話すと、たった一言なにかを言って背を向けた。
「こりゃあ地獄の方がマシだな」
自分に嘲笑を向けて当てもなく歩き出す。深い谷に飛びおりてみたけれど、無意識に防御魔法を展開してしまって無傷だ。
その谷底に小さな洞窟を掘って引きこもった。蚊が鬱陶しかった。
次第に赤い葉が落ちて来るようになり、そして雪が降った。花が咲いても洞窟に訪問者はなかった。
バカみたいに待ってしまったと、玉虫が泣く。
「今ではやりたかった事が何だったかも思い出せねぇよ」
「そうだったの」
僕が答えると幻は消えていく。
また綿あめの上に立っている。
虫はこの綿あめのどこかにいるのだろう。目の前にノウミが立っていた。
「見た?」
「あぁ」
それ以上はなにも言わない。ヤマトも困ったように頭を掻いている。
「皆それぞれの地獄を歩いて来てるんだよね」
僕が言うと、足元の綿あめがジワッと熱く湿る。
そこへ手を伸ばすと、玉虫はいた。緑の体をバタつかせているけれど力はなく、自分で見せた幻に疲れているようだった。
簡単に捕まえられた玉虫を虫籠に入れる。いつもならすぐに灯屋へ送られるのだけれど、玉虫が急に暴れはじめて虫籠がミシミシと音を立てた。
「こいつの魔力を抑えろ!」
ヤマトが叫んだけれど遅くて、紫の光が膨れ上がっていく。翅がボロボロになるのも構わずに暴れる虫に負けて、虫籠が弾け飛ぶ。
慌てて広げた魔力網の隙間から玉虫は綿アメに潜っていく。
すぐに綿あめ全体が毒々しい極彩色の明滅を始める。それは「俺の話を聞け」という抗議に思えた。
「ノウミ。お前の虫籠は使えるよね?」
「あぁ。しかし、どうする?」
「話をするしかないよ」
僕はできる限り優しい声を想像しながら話す。
「人は初め、みんな同じ土塊なんだよ。殴られれば拳の形に凹むし、叩きつけられればペシャンコになる。それを誰かが丸く整えて、あるいは土を足す。薄くのばしたり、くるくる回したりしてさ。気が付くと器の形になっていたりしてね。たくさんの手垢の付いた器は広く大きいかもしれない。小さくとも美しいかもしれない。だったら、その手垢の全てが無駄ではなかったかもねって話なんだけどさ」
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