二匹目

海豚の着物――壱

 ノウミが店で暮らし始めて今日で三日だ。そうだと言うのに、今朝にはもう海豚が店内に迷い込んだ。

 どうも商品の灯りで天井も床もいっぱいな店側は泳ぎ辛かったらしく、すぐに店の奥の箱庭へと迷い込む。

 魔力を寄せ集めてしまう体質は人に戻ってもやはり変わらないらしい。


「なぁ、アメノ。あの奥には何がある?」

「あれ、教えてなかったっけ?」

 僕は昨日までの二日間の事を思い出す。

 確か初日は、店に戻るとミズハさんが待っていたのだ。それから二人して酒に付き合わされて……。

 そこまで思い出すと自然とため息がこぼれた。二日目をほとんど何も覚えていないのは、起きた時には既に夕方だったからだ。


「見たのかもしれないが、覚えがない」

 ノウミが申し訳なさそうに言う。

「僕も覚えがないよ。行こうか、ついでに海豚を外に出してやろう」


 僕は店に鍵をかけ、二つある窓の雨戸も閉める。それから女王様の水槽に封じの魔法がかかっている事を確認すると、ようやく店と奥の箱庭を仕切るカーテンに手をかける。


 先ずは狭い通路がある。

 通路の右半分が真っ直ぐ続く階段の下で、左側には大きな窓。階段下には店の在庫や塩、灯り石の原石なんかが置いてある。

 左側の窓からは本来、隣の猫吉爺さんの家の壁が見えるはずなのだけれど、見えているのは僕がいつも箱庭と呼んでいる、魔法で作った空間。

 そこは五十センチほどの隙間に百坪の庭が広がっている事になる。

 箱庭には竜胆の花畑と池があって、天災を起こす危険のなさそうな虫たちをそこに放し飼いにしているのだ。もちろん外からは見えないし、虫たちは外に出られない。

 魔法と言われる力に決まった形は無く、自分次第でどの様にも使えて便利なのだ。ミズハさんは、想いに応える力だと言っていた。


 通路の先には一つの扉がある。

「押して出れば箱庭。引いて出れば虫籠だよ。好きな方に行くといい」

 僕はノウミを扉の前に立たせた。彼は何も聞かずにツッと扉を押す。

 爽やかな香りを乗せた風が吹き、原野が現れる。

 バッタや鈴虫たちが一斉に跳んで道を開け、快晴の空に蝶と蜻蛉が共に舞う。天気雨が降り、池の水面ではアメンボが滑る。


「綺麗だ」

「そうだろう? 僕が整えた魔法の庭だよ」

 僕は得意げに胸を張る。

「すごい数の虫だが、これを一人で捕まえたのか?」

「いいや。十六代目までが捕まえて来た奴も少しはいるよ。歩く時に地面を踏まないでくれよ。足の裏に魔力を集めて歩けば少し浮くから」

 足の下をムカデが通る。僕は箱庭を一回り案内してから通路に戻った。

「虫籠の方に行くのか?」

「そうだよ」


 僕が扉を引き開けると、無数の虫籠の積み上げられた狭い空間に繋がった。

 天井の高い細長い室内の壁の全てが虫籠で覆われている。手前の方はだいぶ天井近くまで積んであり、奥に行くほど隙間に余裕がある。

 封じの魔法をかけた竹籠に一匹ずつ入った虫たちが何かを訴えて鳴く。


「これは?」

「天災を起こしそうな虫たちだよ。この虫たちの話を聞いて癒しや納得を与えるんだ。それで大丈夫そうなら箱庭へ移動させる」

 虫たちがブンブンと羽音を立てて威嚇する。

「すぐに人へ戻さないのか?」

「やりたい事があってね、少し待ってもらってるんだよ」


 僕が「耳に魔力を集めれば虫たちの声が聞こえる」と伝えると、ノウミはさっそく聞いているみたいだった。

 ノウミはしばらく虫籠の部屋の中央に胡坐をかいて座っていたけれど、唸りながら立ち上がる。

「ままならんな」

「僕たちもね」


 店に戻ってから僕たちは現状について話をした。

 人間はどのくらい戻したのかとか、他の人間たちと一緒に暮らしていないのはどうしてだといった質問に答えると、次の質問が降ってくる。


「尾人とは何だ?」

 僕はさらに質問を返す。

「尾人の尾は何に見える?」

「ん? 何って、獣だろう?」

「そうだね。まぁ、そのうち分かるよ。世界はだいぶ変わってしまったからね。そうだ、少し世界を見に出かけようか。楽しい場所も教えるよ。昔には無かった美味しいものもね」

「分かった」

「尾人たちをよく見てみなよ。きっと気づくから」


 僕もまだ人間に戻って一年と十ヶ月。正解を教えてくれる誰かはいない。それでも十六代かけて集めた情報がある。それは唯一の指標だった。

「なぁ、アメノ。私の尾の事なんだが、やはりもっと格好いいものに変えてはいけないだろうか? 獅子とか鷹とか、狼なんかもいいと思うのだが」

 ノウミが自分の尾を触りながら言う。

「駄目だよ。もう尾人に見られちゃってるんだからね」

「そうか」とシュンとして揺れる猪の尾がよく似合っていると思うけれど、それを言うのは止めた。僕も鶏の尾を生やし、いつもの行李を背負う。


 僕たちはまず海へ向かった。

 近くには陸地が見えずに船も通らない、ただ空と海だけがある場所だ。それだけの場所なのに一万と千年前とは違っている。

 僕たちは水面に立つ。

 魔力を運ぶ海豚は水の中を泳ぐ生き物だと思っていたのだが、遥かなる時を越えその間違いに気づいた。

 海豚は魔力の中を泳いでいたのだ。

 魔力は鯨が生み、それは水に乗って世界に満たされるので水の中を泳いでいたという事らしい。

 しかし魔力を使う人間が絶滅し、魔力が飽和した。

 もう海豚は水面を跳ねない。故郷を見失い宙を舞う。この辺りの空にも数十頭の群れがいる。


「神秘的な光景だな」

 ノウミが見惚れた顔で言う。

「そう言えば聞こえはいいけどね、心の深い所で知っていたはずの故郷を見失っているんだよ。哀れだよね」

「これ、どうにかならんのか?」

「その為に虫たちに待ってもらってるんだよ。大きな魔法をやる。大勢の虫を一度に戻すんだ。海や山、尾人の町でね。そうすればそこの魔力は激減するでしょ?」


 海豚がノウミの鼻先にやって来た。

 まるでそこが渦の中心であるかのように、海豚たちが寄って来る。不思議そうにヒレをバタつかせて去って行くのもいる。

「そうか。それで魔力を集める私が必要なのか」

「うん。でもそれだけじゃないよ。そんなにたくさんの人間を戻す魔法を一人ではできないからね。仲間が必要なんだ」


 答えながら僕は海へ沈んでいく。重圧や空気についての魔法を幾重にも纏う僕は、それなしでは簡単に潰れてしまう。

 ノウミが追って来た。

 僕らは物言わぬ貝の棲み処を通り過ぎ、変な顔の魚が泳ぐ辺りを越えてずっと深くへ沈んでいく。

 そのうちに谷が見えた。谷底には鯨がいた。じっと……それでも魔力を生み出してしまう事を悔やむみたいにじっとしている。

 それは、本当は素敵な事なのだと言葉を魔力の流れに乗せてみる。紫の水流となって流れた言葉は大きな鯨の体に当たって散った。

 次へ行こうと、伝わったかどうかも分からない身振りをしてから僕は僕たちを洞窟へと転送する。


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