夢の袖――捌


 海豚は鱗粉を辿るように中空を泳ぐ。

 実際には蝶になっているはずの彼を追っているのだ。彼が魔力を集めて進むから、その魔力の流れを追っている。

 埋まったままの原石たちが強烈な魔力の刺激にチカチカと光を放つ。見つけてくれとでも泣くように。


 角の間を気を付けて飛ぶので僕と蝶はどんどん引き離される。

 それでも泳ぐ海豚が彼の行き先を教えてくれている。海豚には彼の周りが渦潮のように見えているのだろう。

「時間は何も解決してくれないんだよ。一万年経ってもね、お前が変わらなきゃいつも同じ景色なんだ」

 彼は逃げながらも迷っている。パラパラと崩れる天井が、何かの魔法が放たれた事を示しているのに、そこから太い蔦が幾重も伸びて壁を支えている。進行方向にある角のほとんどがとぐろを巻いている。

 一万と千年も続けた虫の生が、彼を変えようとしているのかもしれないと思った。

 僕たちは人間に戻った時に虫だった時の記憶は失くしてしまうけれど、僕も変わったのかもしれないと、そう思う。


 彼を追っていると広い場所に出た。

 大きな穴蔵の中だ。角はグネグネと回って伸び、それに蔦が絡まる。毒々しい縞模様の実がたわわに実り、その様子はあたかも妖木の森。

 海豚はそれ以上どこにも行かなかった。この妖しい森をゆったりと泳いでいる。


「仇を討ちたくてこだわってたの? それで師匠が許せなかった?」

 僕の言葉に反応して魔力の塊が飛んで来た。それは小さく、真っ黒に淀んだ塊だ。

 横壁の一箇所から細い光が漏れ入る。

 その光の中を一頭の蝶が飛んだ。片翅が人の顔ほどもある蝶だ。藍色に黒い模様のある翅を羽ばたかせるたびに零れる光。

「答えないの? 答えられないの?」

 悪いと思いつつも、挑発めいた言葉を選ぶ。

 ゆっくりと聞いて癒してやる暇がないのだから仕方がない。急がなければ麓の町を飲み込んで、山が崩れてしまうだろう。

 それが本意でない事は彼が妖しいながらも森を形成した事から確信できた。根は山を支え、蔦は壁を支えて僕らを守る。

 本当は優しい男なのだろう。ただ曲がれないだけ。


『まけた……』

「お前がね。師匠じゃないよ」

『まちがえた』

「だったら次は間違えなければいい」

 水は流れ、岩をも削る。その流れは別の岩ひとつで変える事ができるんだ。

「誰と話してるの?」

 僕でも彼でもない声がした。


 少し震えたその声は土壁の高い場所、丁度あの光の指す隙間の真下から聞こえた。僕の顔を見たいのか、声の主は自ら光の中に入る。

 硝子のように透き通る爪、逃がしてやった兎の魔物だ。

「蝶々さんだよ。早く帰りな」

「どこに?」

 兎の魔物の子は泣きそうな声で言った。まずいと思った。

 慌てて魔物を水毬で包んだけれど、それでも涙は彼に見つかった。


 感情が爆発する。種が爆ぜるような、どうしようもないものなのだ。

 それは魔力の塊となって蝶の翅から飛び出し、蔦を焼き、壁を崩していく。

 僕の魔法でも崩壊は止められない。咄嗟に光の入り口を探し、そこに合った石の蓋を吹き飛ばして魔物の子を外に出す。

 天井が崩れ落ちる。


「いつまで引きずるつもりなの? 本当は魔物にも愛を向けられる師匠を尊敬したかったんじゃない? そうできない自分に腹を立ててるんだろう」

『ききたくない!』

「そうやって負けを認めないようにしてるんだろう。悪いけど、これは勝負じゃないから勝ちも負けもないよ。僕はお前の心のシコリを解すだけ。いいかい? 僕が負けを恐れるお前の拠り所になる。負けは恐ろしい事じゃないんだ。勝ち負けと命は決して繋がらない。負けても全員が助かる事もあるし、勝っても多くの人が死ぬことだってある。守れなければ負けと同じなんだ。勝ち負けは戦の勝敗では決まらない。だから負けてもいいんだよ」


 お前が怖いのは負けじゃなくて守れない事だ、と言った。

 僕の言葉に納得したのか、魔力爆発は次第に治まっていく。けれど崩れ出したものは止められない。

 崩れる山は空間の九割以上を埋めていく。

 蝶では簡単につぶされてしまう。それではまた一から、どこかの虫に生まれ変わっている彼を探さなければならなくなる。そう思った僕はイチかバチかで魂解除の魔法をかけた。

 潮の香りがやって来て蝶を包む。



 崩壊が落ち着いた頃、僕たちは一帖ほどしかない空間に体を丸めて収まっている。

 そこにはもう一人、筋肉質な若い男が僕の膝に圧し掛かる態勢でいる。僕たちの頭上からは光が入り込み、むさくるしい空間を光で満たす。


「で、これどうするの」

「すみません」

 蝶だった彼は身動きができないまま、申し訳なさそうな声を出す。

「名前は?」

 僕が聞く。

「思い出せない……」

「何かが聞こえたろう?」

 そう聞くと彼は「そう言えば」と大きな声をあげた。


「何か長い言葉を聞いた気がする。詠っていたような……でも少しもはっきり思い出せない。あぁ、一言だけ。ノウミ……と言ったような?」

「じゃあ、お前の名前はノウミだ。僕はアメノ。灯屋をしているんだけど、仕事の話はまた後だ。とにかく今は外に出よう。秋とはいえ暑苦しい」

「分かった。あの……」

「なに?」

「角が邪魔なんだが、魔法を使ってもいいだろうか?」

「……僕がやる」


 僕たちは人間に戻る時、誰かの声を聞く。それは人間よりずっと重く響く不思議な声だ。そして何故か誰もその言葉を聞き取れない。

 僕はアメノ……とだけ聞いた。

 今日の彼は……ノウミだった。

 ミズハさんはミズハ……と聞いたらしい。何もない僕たちはそれを名前にした。

 いつか全ての言葉を聞きたいと思う。

 しかし、あれは誰の声だろうか?

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