夢の袖――漆


『師匠は誰にも負けてはいけないのに』


 じっと青虫の記憶を眺めていた僕の耳の奥の方に淀んだ声が響く。

「心のシコリはこれだ!」


 青虫は『魔物は敵だ。師匠は絶対的な存在だ』という意味の言葉を繰り返す。

 炭酸の海のようだった魔力が、針の海に変わる。さっきの魔物の子が涙を溢した事で、乗り越えられなかった過去が逆撫でされたのだろう。


「お前は師匠が蛇魔に負けたと思ったんだね」

『まけた、まけた……まけないのに、まけた!』

 魔力の海に青虫の感情がこだまする。

 僕は慎重に言葉を選ぶ。

「お前の求める勝ちとは戦いの終結かな? だったら、絶対に退かない魔物相手には皆殺ししかないよね」

『ちがう!』

「何が違う? 負かしたいんでしょ?」

『ここはいくさばだ! ころしたいわけじゃない』

「でも師匠が負けるのは許せない? どういう結果になっても何かが納得できないよね。ねぇ、あの時さ。負けたのは誰だった?」

 師匠だ! という叫び声と共に映像が雪崩れ込んでくる。


 風が吹いている。原野だ。土や血肉の臭いがする。

 死傷者もいるが、助かった者が七割ほど。子育て中の蛇魔の谷で戦った事を思えば健闘したと言えるだろう。

 彼が呟く。

「負けた……」

 師匠が答える。

「戻って来たのじゃ。負けてはおらぬ」

「師匠は! ……どうしてですか……仲間たちの仇を討とうとは思わないんですか! どうして……。魔物の子のためですか?」

 師匠が彼に背中を向け、有無を言わせぬ声で告げる。

「帰るぞ」


 彼は泣いていた。食われた仲間のために、あるいは解けない自分の心のために。

 これは戦なのだと割り切れていないのは彼だった。

 割り切れるはずのない感情ではあるけれど、それならそれで乗り越えなければ進めない。

 そうして彼は本当に進めなくなったのだ。

 深海のような重暗い光が、爪先から彼を包み始める。


「あ! おいコラ!」

 師匠が呼ぶけれど、彼は止まらない。

「師匠は負けない。何者にも負けないんだ。必ず私たちの仇を討つ人だ。力じゃない。負けたのは師匠の心だ。そうだ……師匠は魔物の涙に屈したんだ。負けるはずがない……」

 彼は魔力に溶けだした。幾つにもなってパラパラと散っていく。

 彼は人間を辞めた。


『まけたのは、ししょうだ』


 青虫の声は先ほどよりも小さく、揺れている。

「分かってるんだよね? お前は少し曲がり方を覚えた方がいいよ。いいかい? 負けたのはお前だ。自分の感情に振り回されるお前は今も、自分に負け続けているんだよ」

 僕は敢えて癒しではなく、諭す言葉を選んだ。

 瞬間、魔力の流れの中にある僕の体を幾億とも思える何かが貫く。耳を澄ませるとそれは言葉だった。重なり過ぎて聞き取る事さえできない、大量の言葉だ。


 そして狙い通りに僕は流された。胸が潰れそうなほどの激流。それなのに、唐突に僕の体は流れから弾き落される。

 背中から叩き落されて張り出す角に引っかかる。痛みに目を開けられずにいると『キュイ』という声が聞こえた。

 どうやら流れから弾き出されたのは海豚も同じだったようで、呆気にとられた顔で僕を見つめる。

「困った青虫だねぇ」

 海豚はまた『キュイ』と鳴く。

 そして立ち上がった僕が見たのは空っぽの蛹だ。

「逃げられた……」


 天井からは水が絶え間なく落ちている。おそらくここは青虫だった彼の隠れ場所。鉱山の中央、最深部だ。

 見渡すと視界にキラキラとした光を捉えた。僕の頭の一つ上に張り出す角だ。上って確認すると、それはきらめく粉だった。粉は角と角の間を、それでも真っ直ぐに進んでいる。

「お前は本当に真っ直ぐなんだねぇ」

 溜息を吐いて海豚の背を押す。


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