――青虫の過去――
ここは蛇魔の巣谷。彼は槍を武器に魔物と戦う魔槍士だ。
シャアアっと威嚇する蛇魔たちと、掌に魔力を集めていつでも放てる体制の人間たちは膠着状態だ。
いつから争っているのか知る由もないけれど、陽は空を真っ赤に染め上げている。
頭から二本の角が真っ直ぐ後ろに伸びる蛇魔は通常、際限なく大きくなる魔物だ。しかしこの谷にいる蛇魔たちは人間より少し大きい程度の大きさしかなく、その若さが窺える。
谷には食い千切られた人間たちと、数体の蛇魔の死体が転がっている。人間たちの半数は武器を失い、素手に魔法のみといった状態。
谷に満ちていただろう魔力も枯渇が近い。
蛇魔の舌がチロチロと出入りする音がやたら大きく耳に届く。
人間たちの顔には困惑が浮かんでいる。
二十二、三歳といった風貌の筋肉質な魔槍士が、今にも飛びかかりそうに腰を落とす。
彼が言った。
「師匠! 谷ごと潰して突破しましょう!」
師匠と呼ばれた、白髪と白髭で毬のような老魔槍士が否と首を振る。
「魔物だから殺せばよいという考えは間違いじゃ。谷には卵や蛇魔の子らが多くおる。我らの戦いに怯え、隠れておるのだ。人の子らと何らの変りもなくな。谷への被害は最小限に留める。できねば退き、出直せばよい」
「それでは蛇魔に負けた事になるではありませんか! 魔物は人間の敵ですよ? それは覆しようのない事実ではありませんか!」
師匠は右手で彼の槍に触れる。彼がどれだけ足掻いても、師匠の手から逃げる事ができないようだった。
師匠はそのまま槍を黒い水で覆い、無の魔法をかけた。
こうなると、もう彼の槍は魔力とは無縁のただの槍でしかない。
「何をなさるのですか!」
「聞け。確かに人と魔物は争う。しかしそれは不変の事柄ではないのだ。人を恋う魔物もいれば、言葉を話す魔物もいる。魔物を敵と見るな」
彼は師匠の言葉を聞いている。しかしその目は揺ぎなく蛇魔を睨み付ける。
師匠は続ける。
「戦と殺しは決して同義ではない。我らも魔物も、ただ生きるために争う。お互いに生きていたいだけだ。生きているだけだ。風体も生き方も違えばそれがぶつかるのは必然だ。だがそれだけだ。敵ではあるが悪ではない。今この時、あれらを敵でなくただ魔物と見よ」
言い終わると師匠は蛇魔の固まって立つ岩穴あたりを指さす。
他の半分の丈も無い蛇魔が一体、剥いた牙から酸を滴らせて人間を威嚇している。人間に敵わない事は誰の目にも明らかだというのに。
しかし小さな蛇魔はそれより小さな子らや卵を守っていた。
そこまで彼に見せた師匠が「分かるな?」と問う。
「ここは戦場です」
自分の正しさをよく知る彼が、揺るぎなく言い切った。
師匠は今度、彼の言葉を肯定する。
「そうじゃな。我らが生きて帰る事がなにより大事だ」
「勝利の報告を持ち帰り、民を安心させる事が何より大事です。我らならば勝利する事ができます」
若い彼はそう答える。
他の戦士たちはじっと成り行きを見守っている。
この師匠が指揮権を持っていて、彼はその弟子なのだ。
「蛇魔たちは命の覚悟を決めておる。突っ込めば被害は甚大なものになろう」
「命があればまた戦えます! 行かせてください!」
「手足が無くては戦えぬ。敵を想う心が無くては戦わせられぬ」
「このままでは負けてしまいます!」
「負ける事の何がそんなに恐ろしい?」
師匠は聞いたが、彼は答えられない。
「退かねばならぬ時もある」
「我らは谷ごと蛇魔を崩せるではありませんか。そうすれば我らの勝利です!」
師匠はもう何も言わなかった。
そして全隊に退却を命ずる。
その声が響くと同時に、彼は黒く染まった槍を捨てて飛び出した。
彼の目にはもう勝利か敗北か、それしか映らない。
蛇魔たちの咆哮が空気を切り裂く。
彼の真っすぐ放った魔力の塊が群れで最も大きな蛇魔を捉える。けれど蛇魔は抉れた体をグイっと持ち上げて血の混じる咆哮をした。
怯んだ一瞬、小さなのが尾を使って勢いよく人間たちの中に飛び込む。
小さな蛇魔は泣いていた。
確かに泣いている。
「仕方がない。強制退却だ」
師匠はそう告げ、谷に残る全ての魔力を使って全員を谷の外へ転送する。
さわやかな風の吹く原野で彼が膝をつき、呟く。
「泣いた……」
「そうじゃな」
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