僕らの未来へと 後編
別れの言葉など、必要なかった。いつもの様に目を覚まし、いつもの様に日常を続けていく。それが、コリィに対する回答だ。顔を洗い、朝食として6枚切りの食パンとペットボトルの薄いコーヒーを胃袋に詰め込む。手早く身支度を済ませた後に玄関のドアを開いて外に出た。
特に理由などなかった。もう大学に向かう必要もない。春が近づいている久我の街並みを適当にぶらついた後、卒業式に着ていくスーツを回収しようとクリーニング店に向かっていた道中、気づけば足が部室棟に向かって歩いていたのだ。思えば僕の大学生活の中で最も印象に残っていて、尚且つ楽しかった思い出といえばこのオカルト研究部での日々だった。終わりの方にとんでもないことがあったのは事実であるが、それでもこの部室で過ごした日々は決して忘れることが無いだろう。
噛み締めるようにゆっくりと階段を登って、廊下を少しだけ歩く。何回通ったかわからない、目を瞑っても辿り着ける道のり。静かにドアノブに手を伸ばす。軽い手応えは鍵が掛かっていないことを示していた。どうやら先客がいるようだ。意を決してドアノブに力を入れて捻り、押す。
「あ、お疲れ様です」
真っ先に僕の視界に飛び込んできたのは、机の上を片付けている藍原さんの姿であった。その机の奥には、指定席に座ってふんぞり返っている邑兎、そして部屋の隅で腕を組んで寝息を立てている野々村さんの姿があった。
いつもの光景が、そこにあった。惜しむべきは、しんじの姿がないことだった。もっともこの場所は、彼にとっては本当の居場所ではなかったらしいのではあるが。彼の言葉を思い出すと、今では怒りよりも寂しさの方が大きい。
「いやいやまさか、畑中クンが卒業できるなんて、ねぇ。一時はどーなるかと思っていたけど、終わってみれば、呆気ないものだね」
腕を頭の後ろで組み、背もたれに体重を預けながら邑兎は口角を釣り上げる。笑い声と背もたれが軋む音。今年、僕と同時にこの陣内大学を卒業する彼女は、今どんな気持ちでいるのだろうか。持ち主のいなくなる部長の椅子は、今度は誰が座るのだろうか。
「そりゃ順当にいけば、野々村チャンでしょ。まぁ来年は部員増やさないとねぇ。二人だとロクな活動できなくなっちゃうし、そもそも部としていられなくなっちゃうよ」
相変わらず僕の思考を読んだかのような邑兎の言葉。僕たちがいなくなってからのオカルト研究部など、確かに考えたこともなかった。冷静に考えてみると、野々村さんと藍原さんの二人でオカルトに関して調べている絵面というものが、なんとなく想像できなかった。どちらかというと、お茶でも飲みながらのんびりと本を読む文芸サークルに鞍替えした方がいいんじゃないだろうか。まぁ、この大学に文芸サークルは3つほど存在するのではあるが。
「潰しちゃっても問題ないんじゃないですか? そもそも三倉さんしか碌に活動してなかったじゃないですか」
目を瞑ったまま、野々村さんが呟く。ずっと寝ていると思っていたので、急に彼女の声が聞こえると心臓が飛び跳ねそうになる。先日夢の中でコリィが言っていたように、『鍵』の副作用である悪夢はだんだんとその数を減らしているのだろう。彼女の顔色は暫く前に比べて生気が強く、先ほどまで立てていた寝息もどこか幸せそうだった。
「ダメに決まってるじゃないか! 一応歴史が長いんだよ、この部ゥ!」
「あはは……」
死角から放たれた野々村さんのとんでもない提案に目を大きく見開きながら声を上げる邑兎と、困ったように笑う藍原さん。こんなありふれた日常が、あんなに唐突に、そして簡単に壊れてしまうなんて思ってもいなかった。そしてそれが、なんとかギリギリで崩壊を免れたことと、無事に卒業できるという実感がじわりじわりと丹田の奥から湧き出していく。
「しかし、なんでみんな集まってたんだ? 送別会はもうやったじゃないか」
あまりに自然な光景なので、すっかり忘れていた。この場に彼女達がいること、それ自体がおかしいことなのだ。この時期は春休みの真っ最中だ。特に理由がない限り、この大学に来る必要がない。
「呼ばれたんですよ」
「そうそう、藍原ちゃんに、ね」
野々村さんと邑兎が小さく笑う。そういうことは、答はもう一つしかない。いつもの定位置に座っていた藍原さんの方へと視線を移すと、彼女は大きく頷いた。
「……見えたのかい?」
「はい。畑中さんが部室に来るって、夢で見ました。なんとなくですけど、これが最後に見ることになる未来の夢だって思ったんです。だから、皆さんを呼んで、そのことを話したかったんです」
どこか寂しそうに笑う藍原さんの長く黒い髪の毛が、暖房の風により揺れている。まるで彼女の不安を示すようだな、と思う。今まで見えていたものが見えなくなる。彼女がこの大学に来た理由も、夢で僕に会ったからだと言っていた。そして未来を見通し、僕が途轍もないことに巻き込まれる事を教えてくれた。そのビジョンが見えなくなる事が彼女にとって拠り所だったのか、行動の指針だったのかわからない。
「いいんじゃないかな。確かに藍原さんの夢には助けられたよ。なんつったって今ここに生きてるんだからさ。でもさ、未来なんて見えたって、あんまりいいこともないだろ」
人は分かり合えないからこそ寄り添うし、未来が分からないからこそ希望を持つのだ。何もかも分かってしまうなんて、つまらない。
「俺もね、少し前に夢を見たんだ。俺の頭の中で繋がってる奴が、別れを告げる夢だった。いい笑顔して、笑ってたよ。なんかずっとさ、このガッコで勉強しててさ。卒業してこのまま働いて、人生を過ごしていく。俺なんてまだ十分に生きちゃあいないけどさ、きっと、特に面白みもない日々を過ごしていくんだろなぁ」
だからこそ、今の僕が考えていることを、夢の中で僕に向かって笑いかけていたアイツのことを、みんなに伝えたかったのだ。そう思えば思うほどに、僕の胸の奥で小さく燻っていた火の勢いがどんどん強くなっていく。その火はきっと、希望というのものなのだろう。
「そう思ってたんだけどさ、一つ、目標ができたんだ。アイツに、もう一度会いたいんだ。隣の宇宙とやらにいる、アイツに。直接会って、話をしたい。ホラ、技術の進歩って凄いじゃんか。10年かそこいらでクルマだってパソコンとかスマホだってハチャメチャに進化した。いつかは外宇宙だって、行ける時代がくる。そう思うんだ」
自覚をすればするほど、その火の勢いは加速的に大きくなっていく。
「まぁ、俺が生きてる間に行けるかわかんねぇけどな。その時は、誰かに頼むよ。家族ができたら、子供とかに、ね」
なかなかに青臭い台詞だったかもしれない。内心で自嘲しながら、照れ隠しに後頭部を掻く。恐る恐る視線を戻す様々な表情で僕を見ている三人がいた。
「スペクタクルですねぇ。スケールが大きくなってきましたけれど、応援だけはしますよ」
「あたしは行けると思うよ。だって、ササオカ式コンタクトが実証されたんだ。今回の件でさまざまな仮説が立証されたし、否定もされた。キミが思っている以上に、外宇宙へのアプローチ方法は進歩した。冗談とか抜きで人が外宇宙に進出する日は近いよ、ホント!」
野々村さんはいつもの声のトーンのまま、腕を組んで小さく手を上げ、邑兎は机から勢いよく立ち上がりながら叫ぶ。僕の言葉を茶化すことなく、各々のペースのままに応えてくれるのは、なんだかとても嬉しかった。
「会えますよ、きっと」
「藍原さんがそう言うんなら、なんだかそう思えてきたよ」
そして、それ以上に。未来を見通していた藍原さんが希望を持って僕の方をまっすぐ見ながら微笑んでいた。どういうわけか、その可憐な笑みがなんだかとても美しく見えた。今抱いているこの感情をどうにか説明するのは野暮な気がするので、今は胸の奥にしまっておくことにする。
窓から外を見ると、風が強く吹いていた。もうすぐ春ではあるが、まだまだ冷たい風だろう。それでも、それほど日にちが経たないうちに春を運んでくるのだろう。
いつだって未来は、憧れからやってくる。夢に見ていた世界は、いつだって現実になり得るのだ。だからこそ、人は望みを持って生きていくし、夢に見る。その夢を、自分の力で手にする為に。
胸の奥の火の勢いは止まらない。弱まることはあるだろうが、消えることはきっと無いだろう。この火こそが、未来を進む最大の原動力なのだ。現を侵す紅く丸い錠剤なんて、今のこの世界を生きている僕たちには、必要ない。
笑いながら、椅子に座る。今はまだ、この時間を楽しんでいよう。
待ってろよ、隣の宇宙。いつか必ず、辿り着いてやるからな。
I -現を侵す紅く丸い錠剤- 木村竜史 @tanukiss
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