僕らの未来へと 前編

 秋の1日はあっという間に通り過ぎて、久我の街に茂る木々の葉は紅くなり、そして枝から抜け落ちていく。


 あの後、不思議なことにこの一連の騒ぎが表沙汰に出ることはなかった。大学の構内で刃傷沙汰の末、二人が大怪我をしたというマスコミが飛びつきそうな話であり、曲がりなりにも当事者の一人である僕もいつ警察がやってくるのかと内心怯えながら日々を過ごしていたが、今になってもやって来ないということは何かがあったんだろうと思うことにした。


 野々村さんが学館の壁にぶち開けた風穴も、数日後には何もなかったかのように補修されていて、あの時あの場所で起きたことがまるで幻だったかのように思えてしまう。


 それでも、あの時から真嗣が姿を見せることのなくなったという事実が全てを物語っていた。時折あの出来事が信じられなくなって、勢いに任せて何度か連絡を取ろうともしたが、彼がグループトークから脱退してしまった以上、僕の方からコンタクトを取ることが不可能になっていた。


 過ぎていく日々の中で、変化はそれだけではなかった。いたちごっこを繰り広げている国と薬物の関係性ではあるが、一先ず『鍵』が法律上で使用や売買を禁じる薬物に指定された。これにより、この紅い錠剤がれっきとした違法薬物になったということであり、以後あのドラッグは徐々にその数を減らしていくだろうとのことであった。風の噂で聞いた程度ではあるが、『鍵』を真嗣のような売り子に提供していた暴力団やその傘下の組織、更には精製していた隣国の組織までもが軒並み摘発を受けたという話である。現に、ニュースやオカルト関係のサイトにおいて『お告げ事件』関連のものはどんどん減っていったし、世間の関心は別の話題に移行しているようであった。


 意外にあっけないものだな、そう思いながら移りゆく日々を忙しなく過ごしていく。卒業論文も一応はなんとか完成し、教授に提出したが沢山の駄目出しとともに再提出を告げられて、もう一度提出する。その流れを3回ほど繰り返すことにより、やっと教授が納得するものが完成した時には思わず両手を上にあげたものだ。およそ原稿用紙100枚分。たかが40,000文字程度ではあるが、この人生でロクに長文を書いたことのない僕にとって、この文量は途轍もなく労力が必要なものだったのだ。


 卒業論文と並行してやらなければいけないことも多々ある。大きなものとしては、就職活動がそれだ。大学を卒業すれば、1ヶ月程度で新社会人としての一歩を踏み出す。有難いことにこの久我にある商社の内定を得ることができた。この町で働くということは久我の町を出なくて済んだということだ。大家である邑兎の父親に改めて頭を下げたのが功を奏したのか、ずっと使っていた部屋を家賃は添え置きのまま引き払わずにそのまま使えることになったのは幸運であった。引っ越しというものは、存外手間がかかるものである。それをこの部屋に引っ越してきたときにつくづく感じたものだ。


 そんなワケで、あらゆるものから解放されたなかで残された大学生活を満喫……なんてことは出来ず、残された日々を粛々と過ごしていた。時間というものはあっという間に通り過ぎていく。あっという間に秋は冬になり、年は明け、気づけば春の足跡が聞こえてくる時期になっていた。


「というわけで、卒業おめでとう、かな」


 それは卒業式を数日後に控えた夜だった。例の騒ぎからほとんど聞くことがなくなっていたコリィの声で目が覚める。


 正確には目が覚めたわけではない。黒く深い森の中、黒雲母のような葉を並べた針葉樹が生い茂るなかに僕は立っていた。コリィの姿は相変わらず見えず、その声は僕のすぐ後ろから。もうこのパターンにもいい加減慣れていが、少しだけ気になることがある。まだ卒業式まで数日あることということはコリィも理解しているはずだろう。何故、このタイミングで僕に声をかけてくるのだろうか。


「いや、特に気にするようなものでも――あるな。キミにちょっと言いたいことがあって、ね」


 あの時以来、久しぶりに聞いた僕と同じ声はいつも以上に真剣なものであった。その声を聞いて、もう僕たちがこうして会話することが最後なのだと理由もなく理解している自分自身がいた。


「やはり、隠し事はできないね」


 小さな溜息のあとに訪れたのは、一瞬の静寂。聞こえてきたコリィの声は、予想と何も変わらないものだったを


「お別れを言いに来たんだ。もう俺が、キミの宇宙へと干渉することはない。『鍵』程度の大きさに精製されたリシメルナルキスブリバキリンドの肉体を取り込んだ影響は、程度にもよるけれど大体半年から一年ぐらいで解消するはずだ」


 人間の肉体は新陳代謝によって細胞の入れ替えを繰り返して生命の維持を続けていく。例えるならば、公園の真っ白な砂場に黒い砂を毎日少しだけ入れて、白い砂を抜いていく。完全に砂が入れ替えられる時がいずれやってくるが、それと同じことが人間の身体にも起こるということだ。細胞分裂を繰り返すうちに、リバーシブルに影響された部分はいつか消え失せていくのだろう。現に野々村さんの調子もだいぶ良くなってきていた。そうなると、製造元が摘発されたという噂が本当ならば余程のことがない限り、これ以上リバーシブルに接続された人が増えることはないだろうし、それによって引き起こされる『お告げ事件』の数は実質的に減少していき、最終的にはゼロになるのだろう。


「俺たちの世界にも、君たちの世界でいう神のような概念があった。殆どの人が、最後の最後に縋りつくもの。死という概念を恐れた人が、救済と安息を求めて願うもの。キミが抱いているイメージと、ほぼ同じだろう? でも、その神は俺たちには何もしてくれなかった。神は俺たちに苦難を与え続けた。神は万物に等しく手を差し伸べるのだというのに、今はその時ではないとでもいうのだろうか。例え、苦しみの極みの末にもがき苦しんでいる者がいようとも、その手を振り払い、『まだその時ではない』とでも高みから言っているのか。神というのは傲慢で、倨傲で、驕慢で、我儘だ。それがカタチのない形骸だったとしても、人は救いを求めるのをやめようとしない。求めなくては得られないからさ。例え実質的には得られなくても、一時の精神的充足に過ぎないというのに。それでも、人々は神に救いを求めるんだ。それが叶わなくても、ね」


 風も吹いていないというのに、真っ黒な針葉樹の葉がざわざわと音を立てて揺れていた。コリィの心情なのだろうか。そう思うよりも早く、彼の言葉が脳を揺らしていく。

 

「神様はいつだって平等で、誰にも興味がない。ずっと、ずっとそう思っていたんだ。いきなり世界に混沌を撒き散らかした怪物……奴らは人の姿を形取り、人の振りをしながら人に紛れて生活している。その『裏側』には、バケモノが。怪物と呼ばれるに値する異形をひっそりと忍ばせている。友人が。隣人が。親戚が。恋人が。伴侶が。子供が。本人の記憶と人格だけを丸々コピーした異形の生命体だったら。人々はどうなると思う?」


 コリィの投げかけた問いかけが、僕の胃のあたりでぐるぐると回っていく。隣人に化ける怪物。そんなものが身近に存在しているのであれば、普通でいることなど難しいだろう。


「疑問の牢獄さ。疑問が疑問を呼び、すぐ隣に立つものすら信じられなくなる。毎朝、目覚めたら同じベッドで寝ている妻が。自分の姿を見つけるとたどたどしい足取りで駆け寄ってくる我が子が。満天の夜空に永遠の愛を誓い合う恋人が。何気ない会話を繰り広げながら共に笑い続けた親友が。もしかしたら内側に異形を潜ませているかもしれない。自分を騙して。世界を騙しているのかもしれない」


 コリィの悲痛な言葉と、彼が感じているイメージが僕の身体の中を暴れ回っていく。実際は意識などなく、実際は機械的に何も感じずに、脳らしきものがプログラムの状況に応じて自動的に動いているのか。それを確認する術は全ての人間は持ち合わせることはない。とある人間が本当に人間であるか、怪物であるか。それは本人しかわからない。


 外部からは決して観測することのできない主観的な特性、即ち意識や体験現象を有した意識である現象的意識は自分しか認識することは出来ず、更に記憶や内面的経験等といった『心』がわからないのだから、それは至極当然のことだろう。彼らは普通の人間と全く変わりが無い。あらゆる外的刺激に人間と同じく反応する人の形をしたナニカは、ただ主観的な特性を持ちえていないだけの、言うならば自律機械人形のような存在であり、自分以外の世界の全てがそうである可能性すらある。


 ならば、自分の意識とは何なのだろうか。自分しか持っていない自分自身の主意識。それは世界の構造を変えるものなのか。人々の意思が世界を塗り替えるときがある。ただの多数決から始まった政治集団が他の特定の人々を抹殺することを目的とした虐殺集団と化したり、救いを求める人々の声が、意思が集まって形こそ虚ろではあるが確かに力を持った唯一神を産み出したりする。


 だがそれは、意思ではあるが意識ではない。ただただ世界の外的要因に従って意識とは関係なく神を創り出せる、そのようなことも不可能ではないはずだ。


 人を信じることを辞めされる混乱を創り出す怪物は、ただでさえ混沌で廻りの者を信じない、掃き溜めのような世界をぐずぐずに掻き回していったのだろう。救うことのできなかったコリィ達の世界は、更なる混沌に満ち溢れていった。それは、まるで希望の入っていないパンドラの箱に世界を詰め込んだようであった。


「キミの世界はどうだ。人々が手を取り合い、前へと進もうと懸命に抗っている。俺にはそれが、とても美しく気高いものに見えたんだ」


 針葉樹の枝や幹の表皮が音を立てて剥がれていく。何もかもが漆黒だった表皮の内側は、生命力に満ち溢れている大樹のそれであった。真っ黒だった葉も瑞々しい新緑にゆっくりと切り替わっていく。


「あの時、俺はキミに言ったよね。このままだと、二つの意識は離れることができなくなるって。こんな世界の住人なんかと、繋がりを持ってはいけない。繋がりがあると、それは関係性になって、引かれ合ってしまう。俺とキミの宇宙が繋がることになって、リシメルナルキスブリバキリンドが関連する事件が増加したように、ね。だから、どうにかしてキミの意識から離れることにする。やり方は、ゆっくりと考えるさ。だから一先ず、これでお別れってことさ」


 気がつけば足元に広がっていた黒雲母の刃のような鋭い木の葉の絨毯も、大地を優しく包み込む柔らかな木の葉に変わっていた。だんだんと全体の雰囲気が変わっていく針葉樹林に困惑する。この場が僕とコリィの心情風景が混ざったものだというのならば、切り替わっていくこの光景はコリィのものが抜け落ちていっているというのか。


「それじゃあね、賢治。よい現実を」


 言いたいだけ言って、サヨナラなんて認めてたまるか。感情のままに肉体を強引に動かす。何回も観てきた夢の中で今まで一度も動かなかった僕の肉体が唐突に動き出し、背後を振り向くことに成功する。


 最後の最後に見ることのできたコリィの姿は、頭部の下に両手足が伸びた胴体があるという、僕たちの人類と基本的なフォルムは似ていたが、手足が長く、眼が小さく、それでいて額にもう一つの瞳があった。逆に言ってしまえば、それぐらいしか僕たちと何も違いはない。服は着ていなかったが、代わりに体表には薄緑の鱗のようなものが張り巡らされていて、それが服のように見えた。そんな彼の3つの眼が細くなり、僕に向かって柔らかく笑いかける。


 その笑顔を見て、彼に言いたいこと、やってやりたいこと、その全てが霧散してしまった。初めて見る彼の笑顔に、うまく言葉にする事が出来ないけれど、救われてしまったのだ。コリィという外宇宙との繋がりがなくなったとしても、この記憶と感情がまだ残り続けている限り、それでいい。そう思ってしまったのだ。


 こうなってしまったならば、もうこれ以上、僕たちに言葉など必要なかった。夜が明けて朝が来る。コリィの覚悟を表すかのように、真っ暗だった針葉樹林に眩いばかりの光が差し込んできた。

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