久我殲滅戦 後編
まるでアクション映画のワイヤーアクションだ。空中で半回転しながら2メートルばかり吹き飛び、そのまま床に突っ込む男の姿を、どこか他人事のように見ていた。
生まれて初めて力の限り人の顔面を殴った。早鐘のように鳴る心臓の鼓動は、脳が発する交感神経が副腎で生成する興奮物質の作用によるものなのか、それとも感情が溢れかえれば友人の肉体が吹き飛ぶほどに殴りつける事が出来るというヒトの肉体が持ちうる暴力性への恐怖によるものなのかは、今の僕にはわからなかった。
沸騰していた思考が徐々に冷めていく。心臓の鼓動が和らぎ始めた段階で、指どころか右手の全体に尋常ではない痛みが走る。慌てて確かめてみると指の第二関節周辺の肉が抉れ、特に小指の根本がどす黒く変色していた。冷静に考えてみればわかるはずではあるのだが、人間の指の骨というものは細く脆いものだ。格闘家であっても『うまく当てないと』自身の肉体を破壊してしまうのに、ど素人である僕が人体のうちトップクラスに硬い頭の骨、更には最も硬い骨である歯周辺を力の限りぶん殴れば、こうなることは必至だ。脂汗を垂れ流しても、表情筋だけは必死に働かせて平静を保とうとしていた。
「ねぇ」
後ろの声に振り向くと、先ほどと同じ体勢で血に濡れた腕を抱えたまま俯いていた邑兎が僕を寂しげな目で見ていた。
「あたし、知らないうちに『鍵』を使ってたんだね。特別になったつもりでさ。藍原チャンや畑中クンが幸せになるためって言ったけどさ。結局のところは、自分がいいように解釈して、得意げになって、傲慢になってたんだろうね」
再び俯いた、今にも泣き出しそうな彼女に何を言っても気休めにしかならないだろう。例え無意識下で誘導されたとはいえ部員として信頼している野々村さんに『鍵』を渡したのだ。しかも、自分自身を特別な存在だと思っていただけに邑兎が受けた心理的なダメージは計り知れないものだろう。
「そうじゃない。とんでもないことをやった。でも、それは思い込みだとしても善意だったんだろ? 例え押し付けであったとしても、悪気が無かったのならば僕には何も言えない。いつものように、馬鹿みたいに笑っててくれよ、邑兎」
それでも、僕自身が今思っていることだけは、伝えたかった。それが三倉邑兎という女性に伝わる1番の方法であることも、理解していた。気休めであろうと構わない。所詮は自己満足だ。そう口にして、僕自身が言葉にすることによって、自分が納得したかったのだ。
「……ちょっと馬鹿にしてない?」
微かに口を尖らせる邑兎の姿は、いつもの表情とは程遠いものだった。それでも、先程のものとは遥かにマシだ。あとは倒れている男を跨いで、邑兎に適切な処置をするだけだ。悲しいことに脱法ドラッグを売ったとしても現在の刑法で彼を裁くことはできない。邑兎を傷つけたことにより、傷害などで突き出すことは可能なはずだ。
「いいんだ、コレはあたしへの罰みたいなもんだから」
未だに倒れたまま動かない男を見ながら、小さな声で邑兎は呟いた。やはり本当は僕の思考を読んでいるのではないのかと疑ってしまうが、男の言うことが本当であるなら、僕が顔に出やすいのもあるし、邑兎が単純に『非常に察しがいい』だけなのだろう。
邑兎に向かって左手を伸ばすと、彼女は躊躇いがちに手を差し出す。掴んだ手をゆっくりと引っ張り、肩を支えて前を向いた。
「皆さん! 大丈夫ですか⁉︎」
廊下の奥、階段の方から声がする。来ないと思っていた藍原さんの声を聞き、猛烈に嫌な予感がする。視線を外してきた男の身体が微かではあるが、もぞりと動き出す。その瞬間に、予感はすぐに現実のものになってしまうことを示していた。
『くそッ! 間に合わない!』
脳内で響き渡るコリィの声に視線を男に向けたが、もう遅かった。声に認識するより微かに早く、先程まで倒れていた男が飛び跳ねるように起き上がる。あれ程の一発を喰らってまだこのような動きができるのかと思うほどの速度。まるで獲物に襲いかかる蛇のように藍原さんのすぐ後ろに取り付き、彼女の頬にナイフを突きつけていた。
「っ――!?」
完全に油断していた。あの倒れ方では暫く起き上がってこれないだろうというズブの素人考え。それが判断を鈍らせていた。出来るだけ早くこの場を抜け出さなければならなかったのだ。邑兎と話すことなど後でよかった。激しい後悔が胃の奥から噴き出してきて、右手に走る痛みは消え失せてしまっていた。
「藍原さん⁉︎」
悲壮感にまみれた僕の叫びに男は血まみれの口を大きく歪めながら笑う。その笑みにはもう、狂気しかなかった。
「ふへ、ふはへへへへ。予定変更だ。お前ら全員ぶち殺してやりたいところだけど、ここで一旦、帰らせてもらうぜ」
男は地面に向かって何かを吐き出す仕草をする。静寂が支配する廊下に小さな軽い音が響いた。音のした先にはあの錠剤と同じ色をした血液と、砕けた真っ白な歯が何片か転がっている。
僕たちに背中を見せないように、藍原さんからナイフを離さずに体勢を切り替えた男はゆっくりと後ろへと下がっていく。僕は砕けてしまった右手を見せないようにして、邑兎の前に立つ。
「賢治サン、アンタ……この娘にやたらお熱じゃねぇか。ホントは目の前で犯してやりたいとこなんだけどなァ、流石に今は無理か。まぁコイツの顔に傷でも付ければ、少しは後悔するか、えぇ?」
据わった目をした男は怒りに満ちた荒い息を隠すことなく、勝利を確信したような笑みを浮かべていた。すぐ近くまで抱き寄せ、その手に持つ刃の向けた先にいる藍原さんの表情は彼から見ることはできない。
樋野真嗣によく見た男は、やはり藍原未央という女性が見ているビジョンというものを理解していない。彼は気づいていないのだ。刃物を突きつけられている藍原さんの表情が、恐怖を全く抱いていないことを。未来を見通すことができる彼女が、どうしてまっすぐに僕の目を見ているのか。
『大丈夫、大丈夫ですよ。全部、わかっていましたから』
言葉にしてはいないが、藍原さんの目がそう言っている気がした。まるで僕や邑兎を安心させるかのような表情ではあったが、状況が状況だ。まるで安心など出来はしない。現に生殺与奪の権はナイフを握りしめた男にあるのだ。少しずつ離れていく男と藍原さんを見ながら、僕は一歩も動けずにいた。
『そうか、そういうことか』
微かに聞こえたコリィの呟きと同時に聞こえてきたのは、何か大きなものが激しく風を切る音。初めはそれが何を示す音なのかわからなかったが、僕の海馬の中で一瞬遅れてやってきた記憶のスパークが発生する。
『暫く経って二人が出てこなかった場合は突っ込みますけどね』
何故藍原さんがここにいて、何故彼女がここに来ていないのか。真嗣に連絡をしたというのに彼はやってこなかった。そのような状況であるならば、彼女はどんな現状であろうとも一人で動くし、どうにかする。野々村可南子という女性はそういう人間だ。
ほんの瞬きの間に赤い髪を靡かせながら雷光と化した野々村さんが、一瞬のうちに男のすぐ背後へと肉薄していた。男が気配を察知するよりも早く、軽く振られた彼女の左手が男の左の脇腹に深々と突き刺さっていた。大の男を昏倒させることができる野々村さんの一撃は、片手での拘束など容易く剥がす。そしてすかさず繰り出されたもう片方の手が右の脇腹にめり込み、人が出してはいけない音を奏でながら男を再び吹っ飛ばしていく。
まるで自動車に撥ねられたかのように吹き飛んだ男は、床に一回バウンドしたのちに壁に突っ込んでいく。男は稲妻のような轟音とともに壁にぶつかった後、そのまま崩れ落ちた。
「まったく、あなた達みんな揃って、危機感ってのが足りないんですよ。それにしても、藍原さん。貴女は時々とんでもなく大胆になりますよね」
両手を軽く叩きながら息を吐く野々村さんの姿を見て、藍原さんは申し訳なさそうに微笑む。
「一応言っておきますけど、こんなもので今の状況をどうにかできると思わない方がいいですよ。もっと痛い目に遭わなければ、大人しくしていてください」
野々村さんは壁に背を預けて崩れ落ちている男を前に、吐き捨てるかのように呟く。幾らなんでもここまで強烈に殴られたならば抵抗する気どころか肉体を動かすことも難しいのではないのか。同情する気など更々ないが、今の彼は邑兎よりも余程重症だろう。これで、何ができるというのか。
それでも、男は右手に握り締められたナイフを手放すことはなかった。そして、ナイフの刃が野々村さんに向けられていて、その人差し指がグリップの刃側につけられたリングに通されていた。刃先が飛ぶタイプのこのナイフにおいて、銃口を向けているのと同義であるというその事実に気づき、どうにかして刃の向きを変えようと手を伸ばしたが、無常にも乾いた音とともに刃先はグリップから消え失せた。
刃先が野々村さんに突き刺さる惨状を予想し、大きく目を開く。スローになった世界の中で見えたのは、野々村さんの豊かな胸の中心、すなわち心臓に向かって一直線に飛んでいく刃先を左手の人差し指と中指の2本の指で挟み込んで止める彼女の姿があった。
男女間の身体能力が云々というか、そもそも人間としてのスペックがおかしい気がするが、それが野々村可南子という女性なのだろう。とんでもない現場のど真ん中にいるのではあるが、あまりの荒唐無稽な行動に現実味がどんどん薄れていく気がした。
「だからね、言ったじゃないですか。私にはこんなもので、どうにかできるほどヤワじゃないんですよ」
それなりに動体視力には自身があるつもりだった。それでも、何が起きたのかまるで理解ができなかった。一瞬のうちに蹴り上げられた野々村さんのつま先が、男の頭のすぐ隣に突き刺さり、とんでもない爆音が廊下に轟く。
「さ、行きますよ」
ゆっくりと足を戻した野々村さんは、それ以上男には目もくれずに踵を返して階段の方へと歩いていく。藍原さんと一緒に邑兎の肩を持ちながら慌てて彼女の背中を追いかけながら、男の方をちらり、と見ると、彼は完全に気を失っていた、隣の壁には風穴が空いていて、流れ出てきた冷たい空気が男の髪の毛を揺らしていた。
これで、このオカルト研究部において発生していた『鍵』の一連の騒ぎは一先ずの終焉を迎えたのだろう。これからどうなるかはわからないが、どうやら無事に卒業を迎えることができそうだ。
問題は、これからどうやって人目がつかないように移動するかだ。邑兎の血が乾き始めたシャツを見ながら、どうするものかと考えていた。
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