久我殲滅戦 中編

 怒りに塗りつぶされた僕の脳の中は、とても静かなものだった。激しすぎる感情は、ありとあらゆるものを押し潰してしまうのか。初めての感覚に戸惑いながらも、圧縮された時間の中で久しぶりの孤独感を感じていた。今この瞬間だけはコリィの気配も感じない。まるで今まであった筈のものを喪失した時に感じる不思議な違和感。何故彼の気配にそのようなものを感じるのかわからなかったが、今だけはこの感覚を楽しむことにした。


 どうしてこんなことになってしまったのか。ほんの半年ぐらい前までは、入部したばかりの藍原さん。仏頂面をしているけれどなんだかんだで面倒見のいい野々村さん。意味のわからない『講義』を唐突に始めるが、いつも楽しそうに笑っていた邑兎。そんな彼女達に時には振り回される僕を的確にサポートしてくれた真嗣。オカルト研究会としての活動は僕の大学生活にとってかけがえのないものであったし、これから続いていく人生においても仲間達の関係性はずっと続いていくものだと思っていた。


 勝手にそう思っていた。言ってしまえば僕自身の勝手な思い込みだ。それでも、過ごしてきた思い出というものは決して偽りではない筈なのだ。


 歪んだ夢を見せる紅く丸い錠剤。外宇宙からやってきた怪物の肉体を使って作られたそれは隣との宇宙との繋がりを作るドラッグではあるが、使用者の殆どが全ての個体が一つの記憶を共有している怪物とリンクしてしまうことにより、脳をオーバーフローさせるとてつもない代物だった。荒唐無稽すぎる話ではあったが、僕の頭の中にいるコリィがそれが紛れもない事実であることを示していた。


 そんな冗談みたいなドラッグを手に入れて売り捌いていたのが樋野真嗣、つまりは僕の後輩だった。真夏の太陽のような爽やかな笑みを浮かべていた彼が、私利私欲の為に邑兎や他の人達を食い扶持にしていた。道は完全に間違えてはいたが、邑兎は自分達が迫害されない為に人類をアップデートさせる為に野々村さんを巻き込んだ。それは確かに許されることではないが、金の為と言われるよりは気持ち的には遥かにマシだ。


 圧縮された時間の中で、奥歯を力の限り噛み締める。歯と歯が擦れ合う音が、僕の意識を思考から現実へと引っ張り戻し、世界に音と光が戻っていく。窓から先ほどより強く入り込む日差しが、舞い上がり続けている埃をきらきらと照らしていた。


「ハァ? 俺が黙って、どうなるっていうんです?」


 初めに聞こえてきたのは真嗣と同じ声をした男の声だった。目の前の男をもう樋野真嗣と認めることはできない。例え今までの彼が虚構だったとしても、僕の記憶の中で笑っている男こそが樋野真嗣なのだ。その記憶を、その認識を改めることは今までの僕自身を否定することになる。目の前のコイツは、知らない男だ。


「無視ですか。舐められたもんだなァ。でも、こうしたら、どうします?」


 知らない男は右手に握りしめていた刃の無くなったナイフの柄を足元に放り投げると、両手を背中に回す。ゆったりと戻された彼の両手には、ナイフが一振りずつ握られていた。おそらく、邑兎を傷つけたものと同じものだろう。健全な思考をした男子ならば刀剣や銃器に格好良さを見出した時期があっただろう。僕もその一人であり、その時期にそういった書籍を読んで調べたことがある。あれはバネ仕掛けか空気かガスか何かは知らないが、刀身を飛ばすことのできる特殊なものだ。男の背後に階段がある以上、逃げる訳にもいかない。逃げる気など更々無いが。


「ハッタリじゃないってのは、アンタの後ろにいる馬鹿女を見りゃわかるよな。やるぜ、俺は」


 据わった目で下卑た笑みを浮かべる知らない男が言っていることなど聞く価値もない。だからといって今僕の手には何もない。凱場のように地面に落ちているもので工面できるようなものもない。文字通り、素手で立ち向かわなければならないものだ。


『……どうにかするしかないようだね』


 身構えた僕の頭の中で声がする。黙っていろと言ったが、本当に黙っているとは思ってもいなかった。わかってはいたが僕の怒りを撫で回すような、自分自身と同じ声と後輩と同じ声に向かって怒鳴りつける。


「黙ってろって言ってるだろ!」


『話を聞け! このままだとキミも三倉邑兎か、それ以上の血を流すことになるぞ!』


 そんな僕自身の怒りをそのまま跳ね返したような、まるで雷鳴のような怒気を孕んだその声に身体が止まる。


『考えるのは俺がする。キミは何も考えなくていい。全力で動くことだけ、それだけを考えるんだ。二つの意識を並列して肉体を動かせば、できないことなんて、ない』


 宥めて諭すコリィの声に、沈黙で答える。頭の中ではなんとなく理解はしていた。今の僕とコリィは二心同体。解離性同一症――俗に言う多重人格のようなケースを除けば、一つの脳に二つの人格が存在しているイレギュラーだ。言ってしまえば、脳というハードディスク内に処理をする存在、つまりはCPUが二つあるということになる。宇宙より広い脳をより効率的に扱うことができるということになるのか。荒唐無稽な考えであるとは思っているが、今この状況に比べればだいぶ現実味のあるものだろう。


『行くぞ。無事に卒業するんだろ?』


 再び沈黙で返すと、なんだか身体が軽くなったような気がすると同時に、頭の中に靄がかかる。これが、本当の意味で『思考を委ねた』のだろう。まるで、夢の中の黒い針葉樹林を彷徨っていた頃のようだ。もう、今の僕にできることは目の前で余裕じみた笑みを浮かべるアイツをぶん殴って、目の前に存在する全てを終わらせるだけなのだろう。


 足の裏に、そして脹ら脛に力を込める。怒りによる興奮か、それとも細かいこと全てをコリィに委ねたからかわからないが、足の裏と地面の摩擦がとてつもなく大きく感じる。これならば、どこまででも飛んで行けそうな気がした。


 その摩擦の全てを使って、前へと一気に飛び出す。膨張しきった脚全体の筋肉が大地へと余すことなく伝えることによって作り出された力は、一飛びでおよそ7.8メートル離れていた男との距離をほぼゼロへと切り詰める。驚愕の表情を顔面に張り付けた男が慌ててナイフを僕の上半身に向かって突き出してきたが、どういう訳だかその動きはとても緩慢なものであった。


 それでも僕の身体にゆっくりではあるが一直線に向かってくる鋭い刃を避けなければならない。霞みがかった僕の頭に急速に流れ込んできたイメージの通りに身体を動かし、左の手刀で男の右の手首を押し付けるように殴りつける。手に伝わる軽い感触とは裏腹にまるですっぽ抜けたように吹っ飛んでいくナイフ。その行き先など気にしていなかった。再び流れ込んできたイメージのままに、もう一歩足を踏み出す。もう苦悶に顔を歪ませる男との距離は、殆ど無かった。


「あああああぁぁぁぁあああぁあぁ!!」


 目を見開き、口から唾を激しく吹き出しながら左手のナイフを振りかぶる男は、もはや樋野真嗣の面影など微塵も残っていなかった。こうなってしまった方が、僕にとっても、やりやすい。


『行くんだ、賢治!』


 コリィの声が聞こえると同時に、頭の中が一気にクリアになる。御膳立ては済んだということか。ここからは僕が、僕自身の手でやらなければいけないことだ。このタイミングで出来ることは一つだけだ。左足で廊下の床を踏み抜く勢いで下ろし、拳を握って右腕全体に力を込めて一気に突き出した。僕自身の怒りもあるが、何より、オカルト研究会の仲間達への感情と無事に卒業するための希望と全体重を乗せた鉄拳は男の頬へと一直線へと吸い込まれていく。静寂に満ちた廊下中に、皮膚と皮膚、肉と肉ではなく、骨と骨がぶつかり合う鈍い音が響き渡った。

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