久我殲滅戦 前編

 硬い廊下の床と靴がぶつかり合った乾いた音がだんだんと近づいてくるが、そんなことを気にしている場合ではなかった。僕のシャツをゆっくりと赤く染めていく邑兎の鮮血の生温かさだけが、今の僕の五感の殆どを支配していた。


「ぐっ……ぁ……ッ!」


 目を固く閉じ、歯を食いしばった苦悶に満ちた表情で痛みと戦っている邑兎の呻き声が耳孔に容赦なく入り込んでくる。肩に深々と突き刺さった刃物を抜くのもまずいと何処かのテレビ番組でやっていた。想定を超えた事態に頭の中が一瞬でオーバーフローを起こし、近づいてくる足音などもうわからなくなっていた。


『落ち着け! 顔を上げるんだ! 臓器を傷つけられたわけではない! 即座に生命に関わるほどのものじゃないだろう!』


 コリィの叱咤する声によって現実に引き戻される。額から大量の脂汗が噴き出している邑兎の身体を持ち、出来るだけ揺らさないように壁に彼女の背を置く。傷口は心臓より上にある。余程ことが無ければ、血液が足りなくなるということはないだろう。半ば願望ではあったが、今の僕にできる最善はこれぐらいだった。


「お前が、お前がやったのか」


 足音はもう僕たちのすぐ近くに迫っていた。やっと顔を上げることが出来た僕の水晶体から脳へと処理されて視覚情報を、僕自身が信じることができない。次から次へと、まるでタチの悪い悪夢のようだ。野々村さんが観ている夢も、このようなものなのだろうか。


「いやだって、このままだと三倉さん、何もかも辞めちゃうじゃないですか。物事は途中で投げ出しちゃいけないって、オトナはみんな言ってましたよね」


 僕の頭が完全に狂ってしまっていなければ、僕を見下ろして笑う男の姿は、樋野真嗣のカタチをしていた。いつもの格好で、いつものような真夏の太陽のような笑顔で、彼は楽しそうに笑っている。部室で見慣れていたはずのその笑顔が、とてつもなく恐ろしいものに見えた。


「なんで、なんでこんなことをしたんだ。僕たちは仲間じゃあなかったのか」


 真嗣は笑顔を大きく歪ませた。顎が外れたかのように開かれた口から鋭そうな犬歯を覗かせながら、壊れたように笑いだす。


「うはははははははははは! 仲間? 何をサムいこと言ってるんですか。オカルトとかそんなもんに興味なんてありませんよ。三倉さんをはじめとする変わり者たちが集うあの場はいい隠れ蓑だった。ただ、それだけですよ!」


 数年間同じ部室で共に過ごしてきた日々が、彼にとっては仮初めだったのか。真夏の太陽のような笑顔も、気配りがしっかりと出来る理想の後輩のような動きも、偽りだったというのか。行き場のない虚しさが僕の胸の中でぐるぐると回っていく。


「もしかして、邑兎じゃなくて、お前が『鍵』をばら撒いていたのか」


 僕の言葉を聞いた真嗣は馬鹿笑いを止めて、何かを考えるように腕を組む。こうしている間にも邑兎はずっと苦しそうに息をするだけだ。あの場所にいる限り、薄く開いた彼女の瞳は僕の背中しか見えないだろう。出来る限り、こんな真嗣の姿を見せるわけにはいかない。


「うーん。嘘を言うのも簡単な話なンですけど、畑中サンにはそれなりに感謝してますからね。ここは正直に言わせてもらいますよ」


 彼はそんな僕の努力などまるで気づかない。先程の馬鹿笑いとは全く違う、僕が今までずっと見ていた爽やかな笑顔を浮かべる。まるで僕達の記憶を冒涜するようなその表情を浮かべた。


「ぶっちゃけた話、イエスです。まぁそれでも法に触れるような真似はしてないつもりですがね」


 まるで世間話をしているときのような軽い口調。僕の質問に事もなげに真嗣は淡々と答えていく。


「簡単な話ですよ。三倉さんが勘違いをしている。ただそれだけです。この人は別宇宙の近い人類とやらにと繋がってない。要はね、この人は『鍵』を摂取したことによって観た都合のいいビジョンを現実そのものとして受け止めただけの、ただの莫迦です」


 続けて彼の口からとてつもない言葉が出てくる。すぐ後ろで邑兎の息を吸うとが聞こえる。僕と違ってコリィのような存在と会話もできない。藍原さんのように未来を見通すこともない。本当に僕の頭の中を覗いていたような物言いだったために信じてしまっていた。


「嘘」


 蚊の鳴くような邑兎の声は、空気にぶつかることによって減衰を起こしていたが、微かにではあるが確かに僕の鼓膜を震わせた。それは真嗣にと同じことが起きたようだ。大きな溜息を吐きながら、真嗣は首を振る。


「俺にも得意げにそんなことをしていましたよ。思考が読めるゥ? そんなのはただの偶然なンですよ。性格は最悪の最悪ですけど、もともと地頭がいいんです。もともと気付いていた筈の事実を能力のせいだと思い込んで舞い上がっていた。ただそれだけですよ」


 真嗣はまるで欧米のコメディアンのようにオーバーに肩をすくめ、やれやれといった感じで再び溜息を吐く。使い古されたジェスチャーではあったが、未だ肩に刃物が突き刺さっている邑兎への追い討ちには十分効果があっただろう。肩から少しずつ流れ落ちる血液を抑えることすらせず、茫然とした表情で僕と真嗣を見続けていた。


 これ以上、邑兎にダメージを与えるわけにはいかない。もし真嗣の言う通り、本当に『鍵』を使っていたのであれば彼女は今まで持っていた自身のアイデンティティの一部を勘違いしたまま生きていたことになる。それはおそらく、聡明な三倉邑兎にとっては残酷すぎる。出来る限りその事実から意識を遠ざけてやりたいと言う感情もあったが、それ以上に目の前で下卑た笑みを浮かべている後輩への怒りの方が大きかったのだ。


「真嗣、お前な。何を言ってるのか、何をやってるのか、わかってるのか? この錠剤がどれだけヤバい代物か。隣の宇宙のバケモノによって世界がとんでもないことになってもいいのかよ?」


「ハァ?」


 真嗣は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに表情を改める。それはオカルト研究部の部室のなかで馬鹿をやっていたときの彼が浮かべたことのない、侮蔑を大いに含んだ薄笑いであった。


「畑中サン、アンタまでオカルト言い出したのかよ。アンタだけは俺と一緒でこういうのを最後まで興味を持たないと思ってたんですけどね。ちょっとガッカリしましたわ。俺にとってはこんな錠剤、どう作ってるのかなんてクソほど興味もない。隣の国がアホみたいに作っているのをヤクザが買い取って俺みたいなのに売って広めてる。よくある話じゃないですか? 畑中さん、アンタが思っている以上にこのクスリってのは高く売れるんですよ」


「なんでそんな事をするんだよ。高く売って、どうするつもりなんだよ?」


 『お告げ事件』として世間を騒がし、僕達オカルト研究部をズタズタにした紅く丸い錠剤。リバーシブルという外宇宙の生命体の肉体を使用したという合法ドラッグ。それをただ金のために売り捌いていた。到底理解することなど到底できやしない真嗣の行動につい問い掛けを続けてしまう。そして、直後に彼の口から語られる答えは必ず僕の人生の中で築き上げられてきた常識やモラル、良心を軽々と踏みにじるものであった。


「金を欲しがるのに理由なんて必要ありますか? 俺は畑中さんみたいに馬ッ鹿みたいに就職活動して、やりたくないことをして、下げたくもない頭を下げて、一生の殆どを労働で過ごすなんて真っ平御免なンですわ。楽して金を稼いで、昇り詰めて、遊んで暮らしたい。美味いものを食べて、いい酒飲んで、イイ女とヤりたい。ただ、それだけなんです」


 なぜ真嗣が今このタイミングで笑うのか、僕には理解ができなかった。彼の言葉を聞けば聞くほど、僕の海馬の奥で笑っていた樋野真嗣という人間のイメージが石を投げ込まれた薄ガラスのように粉々になっていくのを感じる。人はここまで豹変することができるのだろうか。いや、ここまで本性を隠し通すことができるのだろうか。この真嗣を未だに信じることはできない。それでも、それが本心だとしたら我欲で人を苦しめる彼を僕は許すことができなかった。


『賢治、こいつは―――』


 いつもより怒気を含んでいるコリィの声も、実際の根底が腐り切っていた後輩の声も、もう聞きたくなかった。最早、『鍵』の流通経路だとか製作方法とか現在の法律だとか、ありとあらゆる全てがどうでも良くなっていた。


「これ以上喋るな」


 その言葉は、目の前の真嗣と頭の中のコリィに向けたものだ。怒りの感情が頭の中を埋め尽くし、脊髄を通り抜けて広がっていく。それが骨の内側から血管を巡り巡り全身へと回りきった時、僕の頭の中は完全に真っ白になっていた。

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