前へと進むこと 後編

「遅かったね」


 学館の階段を力強く駆け上がり、廊下を大股で歩いた先に三倉邑兎はいた。前に彼女とここに来たのは藍原さんが夢で見たという光景を三人で見に行ったとき以来だ。ここで何が起きるのかということも、邑兎は把握している。だからこそ、僕自身ではここに来るという選択肢を無意識で除外していると判断したのだろう。それこそ、このことを知っている他の誰かに教えられない限りは。


「やっぱり、キミはちゃーんと外宇宙の存在とコンタクトが取れてるみたいだね」


 八重歯を覗かせながら満足げに笑う彼女は、すっかり地球から遠ざかってしまった太陽よりも遥かに眩しい。窓から溢れ出している光を浴びて光る金色の髪と相まって、彼女全体が太陽そのものであるかのような印象すら覚えた。


「どうやらそうらしい。まぁ、僕の妄想っていう可能性も捨て切れないんだけどな」


「そう思えているのなら、本当に繋がってるよ。あたしが保証する」


 僕の皮肉など微風にも感じなかったようだ。左手で長い髪をかき上げる邑兎のもう片方の手は、ジャケットのポケットの中に収められている。その手にはきっと、あの鋭い刃が握られているのだろう。視界に抜身の刃が無い、それだけで表面上は安心して話を続けることができる。


「で、これからどうするつもりなんだ? こんなところまで来たとして、やることは、言うことは何も変わらない。邑兎、もうやめにしようぜ。でないと、どうやら大変なことになるらしい」


 こんな忠告など届くとは思ってはいない。それでも、彼女に言葉を投げ続けなければならないのだ。その為にこんな朝早くから行く必要のない大学にやってきたのだし、腹から血を出すかもしれない場所にわざわざ乗り込んだのだ。長い時間を共に過ごしてきたからこそ、これ以上仲間を外れた道の上を歩かせるわけにはいかない。それだけの想いが僕の胸の奥で燃え上がっていた。


「人類の進化が、大変なことだって? そうだね、大変なことだ。でもそれは素晴らしいことじゃないか。この世から争い事がなくなるかもしれないんだよ? 地球が出来てから46億年、カンブリア爆発から5億4000万年という膨大な歴史の中で生命は争い続けてきたんだ。その歴史に終止符を瞬間を目撃できる。これに知的生命体として喜びを得ないことなんてあり得ない。生命として一つ上のステージに上がれるんだよ?」


 しかし、僕の言葉は邑兎には届くことはない。理性をはっきりと保ったままの彼女の大きな瞳が爛々と輝いていた。


「邑兎、わかってるのか? リバーシブルがどういう生き物なのか」


 全てが邑兎の理解の上で考えているならば、もうどうやっても彼女は止まることはないだろう。だからといって、ここで引き下がるわけにはいかないのだ。絞り出すような僕の声を聞いた邑兎の眉が少しだけ下がる。


「あちらの宇宙に存在する、人類――まぁ厳密には違うけど、彼らとはまた違うベクトルで進化した力ある生命体、でしょ? あちらの世界はリバーシブルと人類が争っている。どうしてリバーシブルがあたし達の世界と接点を持つのかはわからないけど、ね。あたしの中の存在は何も言ってくれなかったんだ。しかし、あの画像を見る限り、奴らは何処か人に近い要素があるのだろうね。脊髄があって、脳があって、手足がある。よくあるタコ型の宇宙人よりは、よっぽどヒトガタだよね」


 自分の言葉を口にした直後、首を傾げながら小さく「待てよ」と呟いた邑兎は顎に手を掛けて長考する姿勢に入る。さながら推理を始めた私立探偵のように何かを囁くような声量で呟きながら何度も床に向かって爪先を軽く叩く。この動きはオカルト研究部の活動において何度も目にしてきたものだが、ナイフが握られているだろう右手はポケットに入れられたままだった。


『もしかして三倉邑兎は、リバーシブルが俺達の脳を捕食することによって情報を手に入れていることを知らなかったんじゃないか? 彼らがネットワークを作っていることを知らなかった。ただ繋がることによって、常人とは違う力を手にすることができる。この力をもってすれば人の心の中など簡単に暴ける。だからこそ、方法はともかく、脳を活発化させることにより能力を持った人を増やして人類を進化へと導こうとした』


 前触れもなく頭の中に響き渡るコリィの声。邑兎の目的は『鍵』を周りにばら撒くことにより、隣の宇宙につながることのできる存在を増やそうとした。凱場の男はともかく、野々村さんがいい例だ。それは人類が未だ完全に能力を使いこなすことの出来ない脳を活性化させることのできる人を増やすことになり、その進化した人類であれば争いを無くすことが出来ると考えたのだろう。


『俺とキミのようにコミュニケーションも取らず、藍原未央のように睡眠時にビジョンも見ることなく、知識と思考でそこまで行き着いたのか。とてつもないな、彼女は』


 今まで聞いたことのない感嘆するようなコリィの声に若干の驚きを感じながら、先ほどから思考の大海へと潜り続けている邑兎への警戒は欠かさない。あの右手の中に収められている刃の向かう先によっては、藍原さんが見た夢のビジョンの通りになってしまう。


「そうか、そういうこと、か」


 邑兎のジャケットのポケットから右手がゆっくりと抜き出される。その掌には何も握られておらず、ぬらりとそのまま虚空を掴む。


「リバーシブルは、隣の宇宙では人類の一つ上の存在ってことか。人類を捕食して脳を喰らう、彼らにとっては天敵中の天敵。いやいや、幾ら頭の中で叫んでも、あたしに繋がった存在は何も言ってくれないんだから。まったく、羨ましいったらありゃしない。畑中クン。キミのお陰でなんとなくわかってきたね」


 疑念は確信に変わる。やはり邑兎は、僕の考えていることがわかるらしい。それが隣の宇宙と繋がることによって手に入れた彼女自身の力、言ってしまえば、読心能力なのだろう。


 驚きを隠せない僕を見上げながら、口角を大きく上げ、赤い舌をちらりと出しながら見るものを惑わせるような悪戯っぽい笑みを浮かべる邑兎に何故か扇情的な印象を覚えてしまう。野々村さんのような女性の魅力を極限まで突き詰めたような色香とはまた違う、不思議な雰囲気に戸惑いながら、僕は再び顔を揉みほぐしながら答えた。


「幾ら何でも、そこまで顔に出てるワケはねぇよな。やっぱり僕の考えてることがわかったりするんだろうな。藍原さんが夢の中で未来を見るように、そういったチカラが、邑兎、お前にはあるってコトか」


「いえーす。まぁ元々顔に出やすいけどね、繋がってから、意識を集中するとその人の考えることが声になってあたしの左のこめかみあたりで響くんだ。畑中クン、ちゃんとキミと繋がってる存在の声も聞こえるよ。二人とも同じ声してるからどっちの声かはたまーにわかんなくなるけど、口調とかでなんとなく、うん」


 声のするという場所あたりを指で軽く叩く邑兎の左手。もう何も握られていない右手は、彼女の心情を表すかのように小さく揺れていたが、それは一体どういうものを示しているのかまではわからなかった。


「じゃあ、隠し事なんて出来ないな」


 僕の小さな呟きは、邑兎には届いていたかどうかもわからない。それでも再び僕の頭の中を覗き込もうとしている彼女に自分自身が今までやっていたことを伝えるために、逆に全てを教えてやる気概で今まであったこと全てを思い出す。情報を集めて最適解を見つけ出すことのできる邑兎ならば、真実を見出し、前へと進むことができるだろう。


 時間はそうはかからなかった。ずっと自信たっぷりに笑い続けていた邑兎が今まで見たこともないような困惑を表に出した表情を見れば、僕の目論見は成功したのだろう。


「あたしは、間違ってたっていうこと? 人類を次のステージに進ませることができるって勝手に舞い上がってたってワケ? なんて初歩的なポカをやっちゃうかなぁ、あたしは。これじゃあ、こんな方法じゃあ、あたしが望んだ世界は作れない。あたし、なんてことを、可南子チャンに、可南子チャンにしちゃったんだろう」


 邑兎は目に涙を浮かべ、今にも膝から崩れ落ちそうになるのを懸命に堪えていた。


「謝ったところでどうにもならないかもしれない。でも、野々村さんならきっと話を聞いてくれるさ。ぶん殴られるかもしれない。口を聞いてくれなくなるかもしれない。でも、何もしないよりはずっとマシだ。その後のことは、また考えればいいだろ」


 月並みなことしか言えない自分自身が腹立たしくなる。それでも、その月並みな言葉が邑兎に届いたようだ。


 ゆっくりと頷く彼女の腕を引こうと手を伸ばした瞬間、頭蓋骨の裏側が総毛立つような感覚を覚える。初めて感じるものに不穏なものを感じると同時に、空気が微かに震えた。


「駄目ですよ、こんなところで手を引いちゃったら」


 遠くから聞こえるかどうかわからない程に小さな男の声に重なって、空気を切り裂くような音が聞こえた。それと同時に感じる違和感。


「え―――」


 邑兎は驚いた顔を一瞬だけ浮かべた後、すぐに苦悶に満ちた表情を浮かべながら悲鳴を上げることなく大きく歯を食いしばる。無言の彼女に対して、僕が出来ることは彼女の名前を叫ぶことだけだった。


「邑兎‼︎」


 糸が切れた人形のように崩れ落ちる邑兎。彼女の右の肩には、柄のない刃物が根元まで突き刺さっていた。咄嗟に彼女を抱きとめる。傷口から流れ出した血液が、僕のシャツの下の方――ちょうど腹部のあたりを濡らしていった。

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