前へと進むこと 前編

 階段を駆け下り、一気に部室棟の外へと飛び出す。秋に染まった冷たい風が僕の体に向かって吹き抜けていく。最後に出た人が受付に鍵を渡すだとか、そもそも施錠がどうだとか考える余裕などなかった僕の頭ごと、身体を急速に冷やしていく。


 冷静に考えなくても、コリィが言った通り邑兎はあの場所にいるのだろう。学館の3階の奥。藍原さんが夢に見た窓際に、だ。


 行かなければ、きっと大変なことになるだろう。三倉邑兎という女性は『出来る』ことは『やっていい』ことだと考えている節がある。それと同時に、自分の出した条件を守っている間は大人しくしてくれるということも長い付き合いでわかっている。だからこそ、敢えて死地に向かわなくてはならないのだ。


 彼女が手にしていたバタフライナイフ。凱場にて男が手に持っていた割斧に比べたら『武器』としての質は遥かに及ばないだろう。しかし、刃渡りは10センチにも満たない小さなものではあるが場所によっては人の命なんて血液と一緒に簡単に流してしまえるだろう。


 藍原さんが見た夢のビジョンでは、僕は腹から血を流して倒れているという内容だったという。少し考えれば、今日あの場で僕がなんらかの理由で邑兎の逆鱗に触れてナイフで刺されてしまうという未来なのではないかと容易に想像できる。正直なところ邑兎がそんなことをするとはとても思えないのだが、状況が状況だ。備えはいくらでもしておいた方がいい。しかし、僕の頭の中を容易に読み取ることのできる邑兎のことだ。例えば雑誌を腹に仕込むといった付け焼き刃の防具なんか試してみてもきっとバレるに決まっている。


 ここは敢えて丸腰で行くしかない。部室棟から学館まではそう遠くはない。覚悟を決めて足を前に出し、足早にキャンパスを進んでいく。


 1限目の始まりを告げるチャイムが鳴り響く。今の時刻は午前9時になったということだ。基本的に大多数の生徒が2限目から授業に参加することが多い。そろそろキャンパス内に人が増え始める時間帯だ。出来るだけ早く行かなければならない。


「畑中さん」


 予想していない訳ではなかった。今日、この陣内大学にオカルト研究会のメンバーの内、僕と邑兎だけしか来ないという確証などなかったのだ。誰かしらキャンパスにやってきて、授業を受けにやってくる。大学生として当然の行いをして然るべきなのだ。だからこそ、出来るだけ早く、早朝の部室の中で話を終わらせたかったのだ。後悔をが僕の胸の内をぐるぐると暴れ回る。


「お、おはよう野々村さん。もうチャイム鳴っちゃってるよ。一限からなら急いだ方が、いいんじゃないかな?」


 僕の背中に向かって声をかけてきた声の主である野々村可南子に向かって、振り向きながら返事をする。想定していなかった訳ではないが、やはり動転していたのだろう。出てきた声は上ずった情けない震え声であった。


「……やっぱり畑中さん、隠し事が下手ですよね」


「そんなに顔に出るか、僕は」


 両手で顔を揉みほぐすよう僕を見て野々村さんは小さく吹き出す。あの時以来、元々少なかった僕との会話は殆どなくなってしまっていたが、時折一人でキャンパスを歩いている時や藍原さんと話している時の彼女はなんていうか、雰囲気が柔らかくなったような気がする。かつて彼女が纏っていた全てが凍てついた氷のような冷たさが和らぎ、薄雪の下にひっそりと生える若草のような優しげな印象を感じていた。


「えぇ、とても。間違っても賭け事とかやらない方がいいですよ」


 それでも『鍵』の副作用で悪夢を見続けているということも事実なのだ。言ってしまえば彼女が自身の願望を見るために望んで手を伸ばした結果ではある。だからといって、信頼してくれているであろう女性を蔑ろにするほど、僕は薄情でもないし彼女を信頼していない訳でもない。


 その『鍵』が、おそらく野々村さんが一番信頼している邑兎から受け取ったものだということは野々村さんは覚えていないと言っていた。彼女にその事実を伝える気はないが、もしかしたらボロを出さないか不安になるので、強引に話題を切り替える。


「体調は、どうなんだ?」


「ここ最近は幾らかマシですよ。やっと嫌な夢にも慣れてきたところです」


 燃えるような紅い髪をかき上げる彼女は、心なしか少しだけ痩せたような気がする。元々無駄な肉など存在しない抜群のプロポーションを誇っていた彼女ではあったが、長袖の白いシャツから見えるその細い腕は、硬い骨が皮膚のすぐ下に存在していた。


「そうか」


 それを見ない振りをして、ちらりと腕時計を見る。邑兎が部室からいなくなってから、そろそろ10分が経とうとしていた。これ以上、邑兎を放置しているわけにはいかない。学館に向かうためにどうにかして話を切り上げなければと思考を始めた僕に、野々村さんは小さく呟いた。


「で、学館ですか? 私が貴方を気絶させたあの場所で何かあるんですね」


 心臓が飛び跳ねると同時に、頭の隅で笑いを堪えるようなコリィの声が聞こえる。頭の中で黙っててくれと叫びながらゆっくりと顔を上げると、先ほどと同じ表情をした野々村さんが僕を見つめていた。


「女の勘ってヤツです。お告げや予知なんかなくても、わかることは幾らでもあるんですよ」


 はっきりとそう言われてしまうと、誤魔化しようがない。彼女の目を見返して、大きく頷く。僕たちの間を秋に染まりかけた風が通り抜けて、少し遠くのオリーブの木が微かに揺れた。


「多分私も貴方と行っても、根本的な解決にならないでしょう。先程樋野君に連絡しておきました。私と彼がいれば、藍原さんが乱入してくることはないと思います。これで、憂いなく話をすることができるんじゃないですか?」


「……うん。ありがとう」


 僕と野々村さんはほぼ同時に学館の方へ視線を向ける。野々村さんは僕の方を見ることはない。それでも、彼女がここまで動いていたことへの感謝が自然と出てきた。あそこにいけば、大きなケリが付くような気がする。あとは、藍原さんが夢に見たビジョン通りにいかないようにうまく立ち回るだけだ。


「暫く経って二人が出てこなかった場合は突っ込みますけどね。私に出来ることといえば、それぐらいです。罪滅ぼしというワケではない、ですけど」


「そんな……いや、違うな。ありがとう。うん。ケリを付けてくるよ」


 両脚に力を入れる。ここまでお膳立てされて、気合が入らない男などいないだろう。戦さ場に向かう戦士のように力強く踏み出す僕の背中に、野々村さんの声が吸い込まれていく。


「畑中さん」


 振り向かずに足を止める。なぜか、このまま振り向いてはいけない気がしたからだ。僕の背中に向かって声を掛ける野々村さんの表情がわからないが、その声は少し前の彼女そのものである懐かしい冷たさがあったからだ。振り向いてしまったならば、その氷が溶けてしまって、二度と元に戻らないような気がしたのだ。


「私は、他の誰かとずっと繋がっていた方が、幸せだと思っていました。でも、繋がっていないから、手を伸ばす。その意思があるからこそ、人は分かり合えるんですよね。何もかも知ってしまうのは、簡単過ぎて、とても、とてもつまらないことだと思うんです。『鍵』を開いたからこそ、それを理解しました。こんなものは、あってはいけない。そして、そんな進化なんて、要らないんです」


 彼女の言葉を全て背中で受け止める。それに返事など、一言も必要なかった。何も言わずに、僕は再び歩き出す。学館までの距離など、早足で歩けばすぐに到着する。どんどん遠くなっていく野々村さんの気配を突撃の太鼓の音色のように感じながら、一歩ずつ足を進めていった。


『行こう、三倉邑兎がどういった存在にどう繋がっているかはわからない。けれども、止めなくてはいけないんだ。あんな目にあうのは、僕たちだけで十分だ』


 風の音に隠れるように頭の中で響いたコリィの声は、今まで聞いたことがないほどに小さかった。

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