久我攻防戦 後編

 邑兎の長い髪が天井に据え付けられた空調から流れ出る風によって揺れている。微かに広がる彼女の金色の髪の毛を見て、僕は巣を張り獲物を搦め捕ろうとする蜘蛛の糸を思い出していた。


「あたしはね、とんでもない奇跡を目の当たりにしてるんだ。あたし以外に外宇宙の存在と偶然繋がることのできる存在がこんなにも近くにいる。この地球に一人だけだ思っていたのに、こんな、こんな近くに二人もいたんだ。これはまさしく奇跡なんだよ。畑中クンが思っている以上に!」


 雲の巣を広げながら、邑兎は僕に向かってゆっくりと歩いていく。長机の外周を沿って滑るように進み、あっという間に僕のすぐ近くまでやってくる。


「畑中クンもさ、人類をもう一つ上に進化させたいって思うだろ? 他のみんなはあたし達とは違って、外宇宙と繋がっていない。きっと、超常の力を持った存在が僅かにいると知った大多数は、その少数を塗り潰して無かったことにするよ。地球の進化の行き着く先が今の人類である以上、その優位を脅かすものを許容することはないんだ。言ってしまえばあたし達は、迫害される側にいるんだ」


 もう邑兎との距離は1メートルもない。聞こうとすれば互いの呼吸の音すらも聞こえてしまうような近さであるが、空調の音によってそれは阻まれている。それでも、邑兎の大きな瞳から発せられる圧力は十分に感じることができた。


「だから、みんなを一つ上の存在に上げなければいけないんだ。そうすれば、あたし達が迫害されることはないんだ! みんな幸せになれるんだよ!」


 邑兎は僕の眼を真っ直ぐに見つめている。どこか怯えているような声ではあったが、彼女の瞳は力強さに溢れていた。あの時の野々村さんや凱場の夜に襲ってきた男のような狂気に塗れた瞳ではなく、しっかりとした理性を持った邑兎のその瞳を見て、彼女は『鍵』などを使っていない素面の状態で、こう言った発言をしていることを確信した。


「邑兎」


 だからこそ、僕は僕の言葉で彼女を拒絶しなければならない。邑兎はきっと、僕の頭の中なんてとっくにお見通しなのだろう。それでも、それでも口にして伝えないといけない。いまだに僕の眼を見続ける邑兎の瞳を意志の力をもって強く見つめ返しながら大きく口を開いた。


「わかってるかもしれないけど、言わせてくれ。僕は、人を進化させたいとか思ってないよ。そんなことを考えるほど、思いあがっちゃあいない。頭の中で繋がっているコイツだって、僕を思い上がらせるために存在してるわけじゃないだろう」


 邑兎は表情を変えることなく僕を見続けている。言葉は無粋などと言われる時もあるが、今の僕にとってはその言葉だけが、僕の心を伝える最大の手段なのだ。頭の中にコリィという別の人格のようなものが入り込んでいる以上、僕自身の意志を伝えるには僕自身の言葉を真っ直ぐにぶつけるしかないのだ。


「僕は、無事に卒業したい。それだけ、ただそれだけだったんだよ。藍原さんが夢で見た、俺が血を流して倒れるビジョン。それをどうにか回避できるんだったら、あとはどうにでもなるしどうにかなると思ってた。でもさ、あの『鍵』について知っちまったんだ。それでもって、それを使って良からぬことを企んでるヤツがいる。ぶん殴って警察に突き出してやろうと思ってたけど、邑兎。お前がそうだったら話は別だ」


「じゃあ、どうするつもりなのさ。さっきも言ったけど、罪でもなんでもない行為なんだよ?」


 僕の本心を聞いても、邑兎の表情は変わることはなかった。彼女も隣の宇宙の別の存在と繋がっていると言っていた。どんな存在と繋がっているのか、いつから繋がっていたのか、藍原さんが未来を見通したかのようになにか特別な力をもっているのかわからないが、3年も一緒に過ごしてきたオカルト研究部の仲間に対して僕ができることといえば言葉を止めないことぐらいなのだ。邑兎の瞳には、殆ど睨みつけるように視線を向け続けている僕自身の顔が見えていた。


 どうか、どうかこれ以上馬鹿げた真似はやめてくれ。そんな願いはきっと邑兎に届く。そう願いながら叫ぶように呟くが、彼女に届くことはなかった。


「そんなん知ったことかよ。まだ持ってるようだったら取り上げて、野々村さんに詫びさせる。それで僕の周辺の『鍵』に関して調べ回るのはお仕舞いだ。あとは警察にでも正義感が強い奴にでも、どうにかして相談すりゃあいいだろ。そんでもって、藍原さんの予知を回避する方法を考える。それだけだ」


 手を後ろに回し、邑兎に見えないように隠しながら握り拳をつくる。別に彼女に殴りかかるわけではない。皮膚に食い込む自身の指の爪による痛みによって、更なる気合を込めたかっただけだ。


「……優しいんだね、というより甘々かな?」


 そんな気合も、邑兎には通じない。小さく呟かれた彼女の声に心臓が一瞬止まりそうになるが、既のところで何度か踏みとどまる。


「あたしが断ったら、どうするつもりなのかな? 畑中クンから逃げ回りながら、、可南子チャンだけじゃなくて、樋野クンや学校のみんな。それだけじゃなくて、久我の街や県内だけじゃない。国中に『鍵』をばらまくことも、不可能じゃない。あたしには、その力がある」


 表情も、瞳に含んだ意志の力も先程と全く変わらない。『講義』をしているときの力強さとも、普段の彼女のハイテンションな語り口ともまた違う、静かに燃え続ける炎のような語り方だった。その炎は全てを燃やし尽くしても消えることなく、燻り続ける怒りのようにも思えた。


「それこそ、あたしをぶん殴ってでも止めるかな。そんなこと、出来る? ずっと一緒に同じサークルで過ごしてきた女の子であるこのあたしを?」


「……ッ」


 彼女の言葉に、僕は答えることができなかった。その沈黙もきっと、邑兎はわかっているだろう。その予感の通り、何もかもわかっていたような口調で邑兎は小さくため息をつく。温かな吐息が、僕の喉のあたりに届くのを感じる。彼女の命の温もりを含んだ息吹を受け止めながら次なる言葉をぶつけようとした僕を遮るように、邑兎ははじめて表情を変えた。


「だよね。まぁ、安心していいよ。あたしには『鍵』を作る方法も知らないし、そんなに飛び回る気もないから。あたしは、あたしの周りだけ変わってくれればそれでいいんだ。世界の裏側の知らない人がどうなろうと、あたしにとってはどうでもいいことなんだ。逆に言えば、世界の裏側の知らない人は、あたしがどうなったってどうでもいいんだ」


 それは、優しげな笑みであった。我が子に物事を教える母親のような慈愛の極みのような笑いかける邑兎だったが、ゆらり、と彼女の髪の毛が大きく波打つ。まるで蜘蛛が獲物を捕らえるようなその動きに、困惑に似たような躊躇いがなかったと言えば、嘘になる。


「だから、こうしたらどうする?」


『気を付けろ!』


 だからこそ、突如頭の中で響くコリィの声に気を取られた。その一瞬の隙を邑兎が見逃すはずがない。瞬きの間に彼女の手に握られていたものは、鈍く銀色に光る鋭利な刃であった。先日の野村さんが手に持っていたものと全く同じものであるバタフライナイフ。あの後いつ回収したのか。予想すらしていなかった光景に僕の頭は困惑で埋め尽くされそうになる。


「ふむ、びっくりしちゃったみたいだね。ちゃんとコンビネーションは取った方がいいヨ、うん。まぁ、畑中クンの頭の中にいる子なら、あたしがこれから何処に行くか、なんとなくわかるんじゃない? その子が冷静に客観視しながら考えているなら、ね」


 刃渡りがたった10センチにも満たない小さなものではあるが、切れ味は申し分ないはずだ。あの時使ったからこそ、その危険性が十分に理解できる。背筋に冷たいものが大量に流れ落ちるのを自覚している僕にナイフを突きつけながら、邑兎は消えそうな声で呟いた。


「追いかけてきてね。じゃないと、怒っちゃうから」


 くるり、と身体を回転しながら僕の横をするりとすり抜ける。またか、と思う間もなく部室のドアが開かれると同時に邑兎の姿は影も形もなくなっていた。慌ててドアの向こうに飛び出し廊下を見渡すが、やはり邑兎どころか人の姿を確認することはできなかった。


『.......すまない、タイミングを完全に間違えてしまった』


「気にしないでくれ、どっちにしろこうなったと思うし。それよりも邑兎だ。お前なら分かるみたいなことを言ってたけど、見当とかついたりするのか?」


『単純な話だよ。キミが無意識で除外しているところ。何がなんでも行きたくないと思っているところなんて、この辺りでは一つしかないだろう?』


 頭の中で風景が浮かぶ。何かを連想する時や閃いた時とはまた違う、真昼に夢を見るような不思議な感覚。その風景は、見慣れた風景であった。無意識に除外していた、学館。藍原さんの夢に出てきたあの場所であった。


 またあの場所へ行かなくてはいけないのか。もう秋だというのに、冷たい嫌な汗が大量に背中から吹き出すのを感じていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る