第二話 アステリオスⅠ(19)
「今の和弘さんにできることは、とにかく休むことです」
もう大丈夫だと言って起き上がろうとした和弘に、春花が手を伸ばしてそれを阻む。
「だが――」
「あと、食事も大事です。血液不足ですから、今日はお肉メインで作ってみました」
三十センチ四方の小さな折り畳み式のローテーブルの上に、料理をのせたトレイを置く春花。
ひとり用の小さな土鍋。
その蓋を春花が開けると、閉じ込められていた湯気の向こうから、粥が顔を出した。
その粥は米だけでなく、緑の野菜や鶏のムネ肉がほぐされた状態で入っていた。
「起きれますか?」
そう言われ、和弘は上半身を起こした。
腹に力を入れると傷が痛むため、和弘は肘と手を使って体を起こした。
その間に、春花が茶碗に粥をよそい、ふーっと息を吹きかけて冷ましていた。
「はい、どうぞ」
「すまない……って」
茶碗を受け取ろうとした和弘だったが、春花が差し出してきたのは、小さなレンゲで掬われた粥だった。
「どうかしましたか?」
こうすることが当然と言わんばかりに首を傾げる春花に、和弘は伸ばしかけた手を下ろし、口を開いた。
「あ~ん」
食べる側だけでなく食べさせる側まで口を開くその様子に、和弘はどこかおかしくて、気がつけば自分も「あ~」と声を出していた。
「どうですか?」
口の中で咀嚼していると、米がしっかりと柔らかくなっているのと、塩味の効いた味に、和弘は頷いて見せた。
「うまい」
そう言うと、春花が嬉しそうに笑み、再びレンゲで掬い、息を吹きかけて冷ます。
そうして、土鍋が空になるまで和弘は食べさせてもらった。
「ごちそうさま」
「完食ですね」
空になった土鍋を覗き、春花が笑う。
「こんなまともな食事は久しぶりだ」
「まともって……とても質素だったと思いますけど」
「ずっと、腹が満たされたことがなかったからな」
訓練を思い出す。
あそこで食べた食事を、美味しいと感じたことはない。
量は申し分ないのだ。
体づくりに必要な栄養素を取る必要があり、特に最初は筋肥大に重点が置かれていたから。
だが、体を仕上がってくると、今度は精神面を鍛えるため、満足な食事をとらせてもらえることがなくなった。
さらには訓練も厳しさを増し、サバイバルなどで自給自足の日々を過ごした。
だからか、粥を口に含んだとき、和弘は思わず唸ってしまった。
うまいと感じることができたから。
「水に浸けてきますね」
土鍋や茶碗をまとめ、春花が和室を後にする。
和弘は食事を終えると、横になった。
腹が満たされたからか、気がつけば眠っていた。
「和弘さん」
その声に、瞼を開く。
「あっ、ごめんなさい。寝ていましたか?」
「いや、大丈夫だ」
「あの、体を……」
「ああ、ありがとう」
春花が手に持っていたのは、濡らして絞ったタオルだった。
シャワーで患部を濡らしてはいけないため、今は体を拭くにとどめている。
和弘は体を起こし、史人から借りていたパジャマを脱いだ。
晒された上半身。
その左腹部には、大きな絆創膏が貼られている。
「絆創膏もあとで交換しますね」
「すまない」
「いえ」
春花が笑み、隣に座る。
タオルを受け取り、首筋から下へ、胸や腕、腹部を拭いていく。
「後ろは私はやります」
春花にタオルを渡し、背中を丸めて見せる。
その背中を、春花がそっとタオルで拭いていく。
丁寧で、少し物足りなさを感じるが、それでも和弘は何も言わず、身を委ねた。
「絆創膏を新しいのに貼りかえるので、横になってください」
言われるまま、仰向けに寝転ぶ。
春花の手が絆創膏に伸び、そっと剥がす。
「大丈夫そうですね」
頭を上げて腹部の傷を見る。
拙い縫合の痕。
和弘自身、応急処置の訓練の一環で、自分で自分の傷を縫う方法を教わった。
病院のように道具が揃っているわけでもない状況での傷の治療は、思った以上に難しい。
和弘が教わったのは、ほとんどが『治療』ではなく、あくまで『応急処置』であり、その場を凌ぐためのものなのだ。
春花は初心者でありながらも、練習していたというのはうそではなく、傷を縫えていた。
縫合痕をまじまじと見ているうちに、春花が傷まわりを清潔なタオルで軽く水拭きし、新しい絆創膏を貼る。
和弘は服を戻すと、手持無沙汰になったのか、春花がどこかそわそわしていた。
それでも、和弘からは声をかけることなく、それとなく春花に目を向けていた。
そうしていると、春花がどこか遠慮がちに口を開き、
「あの……その傷のこと、訊いてもいいですか?」
「……」
きっと勇気を出して声に出したのだろう。
だが、和弘には答えられなかった。
これ以上、巻き込むわけにはいかない。
こうして傷を治療してくれて、命を長らえただけでも十分すぎるほどだ。
あとは、一日でも――いや、一時間でも早くここから出ていなくてはならない。
こんないい子を巻き込むわけにはいかない。
だけど――と思う。
ここを出て、自分はどこに行けばいいのだろうか。
そもそも、リクルーターを名乗る男の誘いに乗らなければ、今頃どこかで野垂れ死んでいたかもしれない。
それか、生きるために犯罪を犯して、刑務所行きか。
なんにせよ、いい未来なんてない。
そうやって社会の役にも立つことなく人生を終えるのならばと、勧誘を受けた。
そして、どれだけ過酷な訓練であろうとも耐えた。
自分を鍛えるたび、訓練を一日いちにち終えるたび、自分が強くなった気がした。
まともな人間になれたような気がした。
例え暗殺者として育成されていたと知っても、それで役に立てるのならばと、それでも訓練を続けてきた。
だが、最後の最後で和弘は動けなかった。
そして、また役立たずとして処理された。
こんなどうしようもない自分が、そもそも生きている意味などあるのだろうか。
自分で自分の存在意義を見出すことができず、和弘は視界が滲んでいることに気づいた。
「傷が痛むんですか?」
春花が覗き込んでくる。
「いや」
「でも……」
そう言って、春花が手を伸ばし、頬に触れ、
「泣いてますよ」
涙を拭ってくれたのだった。
「ただいま」
帰宅した史人は、靴を脱ぐなり、すぐ横手にある和室の引き戸を開けた。
「おっ……」
様子を見るために顔を覗かせたが、そこには意外な光景があった。
布団で横になって眠る和弘。
その傍らに春花が座っていたのだが、首を垂れ、眠っていた。
そして、眠る二人の手が繋がれていたのだった。
アステリオスの暗殺者 天瀬智 @tomoamase
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