第二話 アステリオスⅠ(2)
どれだけの時間――いや、日数が過ぎただろうか。
「名前は?」
無機質な部屋にあるのは、無機質なテーブルと椅子が二脚のみ。
その椅子のひとつに座るのは、五十代を過ぎた男性。
ほどよく肥えた体に、白髪まじりの黒髪。
老眼用の眼鏡越しに、対面に座る『対象』を見やる。
まだ十代の青年が、生気を失ったかのように焦点の合わない目をテーブルに向け、脱力したように椅子に座っていた。
青年が、男の言葉に反応を示すように、もたげた顔を見せる。
その顔を――表情を見た男は、確信した。
完成した、と。
決して表情には出さず、しかし内心ではほくそ笑む男に応えるように、青年はゆっくりと口を開き、己の名前を答えた。
※
必要なものを詰め込んだバックパックを背中に、宿舎の廊下を歩きながら部屋を探す。
「ここか」
あらかじめ伝えられていた部屋番号を見つけ、ドアを開ける。
「お前が相部屋の相手か」
ドアを開けてすぐ声がした。
途中で止めてしまっていたドアを開け切ると、部屋の中に先客がいた。
自分と同じくらいの若さ――まだ十代の青年が、待っていたとばかりにこっちを向いて立っている。
「そうらしい」
淡と応え、部屋に入る。
部屋は八畳間の広さで、奥に窓がひとつ、そして左右にベッドが置かれていた。
ベッドの足下側には小さな収納ケースがあるだけ。
「どっちだ?」
先に来たということは、先にベッドも選んだということになる。
背負っていたバックパックを下ろし、手に持ってぶら下げる。
「それを決めるためにこうして待ってたんだ」
その言葉の意味に、思わず眉を寄せた。
「選ぶ権利というものは、常に強者にある」
ほくそ笑み、右拳を持ち上げてみせる。
そして、その拳を振り上げた動きに、釣られるように視線を上げたと同時、まったく別のところ――腹に相手の左拳がめり込まれていた。
「ぐっ……」
不意打ちとも呼べる攻撃に、腹を押さえ、膝をつく。
「じゃあ、俺はこっちに――」
顔を上げると、相手は床に置いておいたバックパックを持ち上げ、向かって右のベッドへ投げようとした。
その動きに、気がつけばタックルをかましていた。
「このっ――!」
たたらを踏みながらも奥の窓に背中をぶつけた相手が、そこから膝蹴りを繰り出してきた。
膝が胴に打ち込まれ、足が床から浮き上がる。
それでも相手を離さないでいると、もう一度とばかりに膝蹴りが打ち上げられた。
それに対し、相手から両手を離して、打ち上げられた膝を脚ごと抱え込むと、体を起こすようにして相手を右のベッドへ放り投げた。
「うおおおっ!」
ベッドのスプリングが軋む。
相手に馬乗りになり、右拳を振り下ろした。
拳が頬を打つも、相手は怯むことなく殴り返してきた。
そうやって殴り、殴られを繰り返していると、馬乗りの状態から床に落とされ、起き上がったところに蹴りを突き出された。
向こうのベッドに足をとられ、座り込むようにして壁に背中をぶつける。
「はぁ……はぁ……」
「はぁ……はぁ……」
お互いにベッドに座り込み、向き合いながら息を荒げる。
「どうやら、決まったようだな」
「そうだな」
相手の言葉に、同意する。
すると、相手は表情を和らげ、戦闘体勢を解く意図を見せるようにして壁に背中を預けた。
「自己紹介が遅れたな。俺は加納亮介だ。お前は?」
「俺は……」
考えたのは一瞬――だが、頭に浮かぶ名前はひとつだけ。
「相馬和弘だ」
「これからよろしくな」
ニヤッ、と亮介が笑む。
「ああ」
対する和弘は表情を崩すことなく短く返した。
それが、『相馬和弘』と『加納亮介』の出会いだった。
※
集められたのは、まだ十代の少年少女たち。
そして誰もが、訳ありだった。
誰がどんなことをして彼らの目にとまり、誘いを受けたのかは分からない。
だが、ここに来なければ、その先にあるのは刑務所か、それとも死か。
少なくとも、マシな人生を送れるのだと信じて、ここに来た。
だから、みんな死に物狂いで与えられた課題をこなしていった。
最初はもっと人数が多かったような気がした。
それが、今では二十人にまで減っていた。
ここに来るまでに行われたのは、徹底した肉体の鍛錬だった。
決められた時間に決められたことをこなし、与えられた食事を摂る。
筋肉とは無縁だった体は、驚くほどに肉づいていった。
残った誰もが、「なんだこんなものか」と思った。
だが、ここからが本番だった。
今までの肉体づくりは、これからの過酷な訓練を通過できるようにするための、必要最低限の措置だったのだ。
いつも通りに眠っていたら、突然の大音量の放送に無理やり覚醒させられ、集合させられた。
それに遅れると、真夜中の道なき道を行軍させられた。
重さ三十キロを超えるバックパックを背負い、訓練キャンプがある麓から山を登り、降りる――その繰り返し。
戻ったころには朝日が昇り、そこから寝る間もなく、朝の訓練が始まった。
何日もまとも眠らせてもらえず、肉体よりも心が悲鳴を上げた。
体づくりと精神の疲弊の合間で、武器の扱いを学んだ。
素手での戦い方、ナイフの使い方、銃火器に扱い方。
それらを学びながらも、過酷な訓練は続き、真夜中に叩き起こされることが日常茶飯時になると、短い睡眠時間を効率的にとる方法を自ずと学んでいった。
慣れてくると、瞼を閉じるだけで、ある程度の眠気は解消できるようになった。
だが、その過酷な極限状態に順応できない者は、翌日には姿を消していった。
ここでは、同室の相手はパートナーであり、まさに一心同体、一蓮托生の間柄となっていた。
片方が脱落すれば、もう片方も道連れとなる。
だから、自然とパートナーとの仲が深まり、お互いに助け合い、励まし合い、切磋琢磨し、お互いの能力を引き上げていった。
体と心を鍛え抜き、あらゆる武器の扱い方を覚えると、今度は実践に導入された。
まず最初に行われたのは、素手による殴り合いだった。
「痛みを覚えろ。体に刻み込め。経験したことのない痛みは、体と心を竦ませる。だが、痛みを知れば、それを受け入れることができる」
迷彩服を着た教官の男がそう言うと、横に並び合っていたパートナーたちが向かい合う。
だが、これまでの人生で人を殴ったことのない者もいる。
誰もが動かず、他のパートナーたちを見やる。
その中で最初に動いたのは、和弘と亮介だった。
先手必勝とばかりに亮介が至近距離から殴りかかってきた。
だが、それを予測していた和弘は腕で防御すると、すかさず反撃に出た。
そんな二人を唖然と見やる他のパートナーたちだったが、教官の「やれっ!」という言葉に、渋々と殴り合った。
殴らなければ殴られる。
だから、とにかく相手よりも先に拳を出した。
初めて殴られた者は、尻餅をつき、その痛さに茫然自失となっていた。
頬の骨から頭を貫くような痛みを受け、歯にぶつかった唇が切れ、舌を通じて血の味を教える。
初日はたどたどしく、どこか遠慮がちだった者たちも、翌日にはもっと強く拳を繰り出せるようになっていた。
その翌日には、殴るだけでなく、相手の攻撃をかわしたり防いだりする術も学んでいった。
それは、その直前に受ける授業の賜物であり、実際の殴り合いが、復習となっていたのだっだ。
鍛えられていた肉体は、相手を伏すだけの力を与えており、極限まで追いつめられていた精神は、まるでそれをバネにするかのように不屈のものと変わっていった。
教官の指導に誰もが熱心に目と耳を傾け、実践ですぐに身に付けていった。
そうして知らずうちに、殺人兵器として作り変えられていったのだった。
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