第二話 アステリオスⅠ(1)
「寝たか」
バックミラー越しに、日下部は後部座席で横になって眠る春花を見やった。
病院からも離れられたため、今は運転も安全第一にしている。
助手席に移動した和弘の指示に従いながら、日下部は住宅街の中をゆっくりと走らせていた。
大通りには、自動車のナンバープレートを自動的に記録し、犯罪が起きた際に照会できるNシステムが張り巡らされている。
IATはそのNシステムを使用することができ、日下部の自動車もマークされているはずだ。
「いくら防衛省の研究所と言っても、Nシステムを使うことなんてできるのか?」
「いや。だが、それを可能にするのが、彼が開発したLシステムだ」
「そのLシステムっていうのは、一体何なんだ?」
横目で和弘を見やる日下部は、彼が顔を正面に向けながらも、その視線をバックミラー、つまり春花に向けているのに気づいた。
訊かれたくないのだろう。
その気遣いに、表情の変化を見せない和弘に人間らしさを感じた日下部は、小さな笑みを浮かべていた。
「エシュロンを知ってるか?」
「エシュロン? ああ……軍による国民の通信を傍受するシステムっていうあれだろ?」
スパイものの洋画でよく出ていた気がする。
ガスを貯蔵するガスタンクみたいな球状の形をしたやつだ。
「Lシステムも同じだ。日本全土のインターネットなどの通信網を監視するシステム。電話やメールはもちろん、ネットに繋がっているすべてのデータを監視、閲覧することができる」
「それは、違法じゃないのか?」
「違法だ。だから、非公開組織のSIAに導入されるんだ」
「なるほど。存在しない組織だからこそ、か」
これを警察庁や警視庁、それに防衛省などが使用していたとなれば、一大スキャンダルとなるだろう。
だが、SIAは公には存在しない。
だからこそ、そういった違法行為に対しても、その処罰の対象にはなり得ないのだ。
それに、日本を影から防衛する目的のSIAにとっては、まさになくてはならないシステムだろう。
「このシステムがSIAに導入され、本稼働すれば、電話やメールでのやりとりにおいて、あらかじめ設定しておいた危険なワードを自動で感知し、その人物を監視対象としてチェック、その後も二十四時間体制で監視し続けることができるようになる」
「じゃあ、俺が電話で『テロ』とか『爆弾』とか、そんな言葉を口にしたら、そのLシステムに目をつけられて、SIAの監視対象になるってわけか」
「そうだ」
「それだけ聞けば、それほどヤバいものには思えないんだがな」
「そうだな。それで日本の安全が守られるなら、悪いことを企まない限り、縁のないものだ」
「知らない方が幸せってことか」
事件や事故に巻き込まれず、一生を終えることができたなら、その人は本当に幸せな人生を歩めていたんだと日下部は思う。
だが、刑事としての日下部は、今日までずっと、人のいろんな面を見てきた。
日下部は刑事だ。
だとすれば、日下部が相手にする相手は、被害者と加害者だ。
家族を殺された人の心の傷の深さを目の当たりにした。
家族を奪った犯人の浅はかさに、怒りを湧き上がらせ、殴ったこともあった。
春花もまた、ビル爆破テロで母親の秋乃を失った。
そして父親の史人も。
こうして今は穏やかに眠っているが、その心にどれだけの深い傷を負っているのか、日下部は想像はできても、きっと理解することはできないだろう。
こればかりは、当事者でなければ――いや、当事者だけのものなのだ。
もしSIAがLシステムを手に入れ、その結果として春花のような子がいなくなるのなら、むしろ歓迎するべきではないか。
そう、日下部は思った。
だけど、やはり当事者でなければ分からないのだ。
日下部には、助手席に座る和弘の心がどんなものなのか、理解できるはずもなかった。
「春花の父親が告発しようとしたのは、Lシステムじゃない」
「そういえば、そうだな」
史人はある計画を暴露しようとしていた。
その計画こそが、『アステリオス計画』だ。
「和泉は、お前を生き証人と言っていた。だったら、お前はアステリオス計画の当事者なんだろ?」
「ああ」
「教えてくれ。史人が殺された理由を。それとお前自身のことも」
「……長くなる」
「目的地まであと何分だ」
「二、三十分」
「それだけあれば、十分だろ?」
和弘が、バックミラー越しに再度、春花を見やる。
そして、視線を真っすぐに戻し、やおら口を開いた。
「俺はもう、自分の本当の名前を思い出せない」
「相馬和弘がそうじゃないのか?」
眉を寄せる日下部に、和弘が変わらない口調で応えた。
「これは計画に参加するための、いわゆる入学試験のようなものだ」
そして、和弘が語り始める。
『彼』が『相馬和弘』となった時のことを。
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