第一話 アリアドネ(2)
「記憶が……ない?」
担当医師から話を聞かされた日下部は、眉を寄せた。
「しかし、俺――いや、私のことは憶えていましたよ」
「小畑春花さんの場合は、事故が原因の一時的なものと思われます」
「外傷性ということでしょうか?」
春花は、父親である史人が運転していた車の助手席に乗っていた。
だが、シートベルトをしていたため、頭を打ったりもしていない。
胸部には、車が衝突したことによる衝撃によってシートベルトの痕が鬱血という形で残っているらしいが……。
「その可能性もありますが、隣で父親が亡くなったことによる心因性も考えられます。なにせ……」
そこで医師が口を閉ざす。
「……分かりました」
医師がその先を言うことはないと思うと同時に、言わせるわけにもいくまいと思い、日下部は立ち上がった。
「ちなみに、記憶が戻ることは……」
「分かりません。今まさに戻っているかもしれませんし、このまま戻らないかもしれません。ただ、心因性が原因なら、あまり衝撃を与えない方がいいかと」
そう言って、医師が自分の胸に指を当てる。
「分かりました」
日下部は部屋をあとにすると、廊下に出てすぐ溜息を吐いた。
「どうするかな……」
ぽつりと呟き、スーツの上から羽織っているベージュ色のコートのポケットに手を入れた。
そこに常備されている煙草の箱を掴むと、すぐに喫煙スペースへと足を向ける。
春花が過去一週間の記憶を思い出せない原因は、おそらく心因性だろう。
なぜなら、史人の死因が、胸部に受けた銃弾が原因だからだ。
この日本で、銃で撃たれて、死んだ。
それが、どれだけ
喫煙スペースに入ってすぐ日下部は煙草を口に咥え、ライターで火を点けた。
気持ちを落ち着かせるように深く吸いこみ、ゆっくりと吐き出す。
「史人――お前、一体何に関わってたんだよ」
狭い喫煙スペースの中央に置かれたテーブル式の分煙機に、紫煙と一緒に日下部の呟きも吸い込まれていった。
※
「こんにちは」
ベッドで横になっていると、若い女性の人が部屋に入ってきた。
春花が体を起こす間に、その女性は壁に寄せられていた丸椅子を引っ張り、ベッドの横で腰を下ろした。
「あの……」
「ああ、自己紹介をしなくちゃね」
女性が人当たりのいい笑みを浮かべる。
歳は若く見え、二十代前半だろうか。
黒髪を首の後ろ結び、化粧もナチュラルで、一見して清潔感が感じられた。
「私は、
「でも、担当は男性の――」
「その人は、体の方の治療が担当で、私はここ」
そう言って美鶴が手を伸ばし、春花の胸に向かって指をさした。
「あなたの心のケアを担当するのよ」
「心の……ケアですか?」
「ええ。話によると、事故から一週間前の記憶が思い出せないのよね」
「はい」
「お父さんの事故も?」
「……はい」
春花は俯き、無意識にそのときのことを思い出そうとした。
だけど、どうしても思い出せなかった。
事故に遭って、助手席にいて、痛い思いをしたことは憶えている。
それなのに、父がどうなったのか――それが思い出せないのだ。
「実は、お父さんが起こした事故――あれね、他殺の可能性があるの」
「……え?」
訊き慣れない二文字に、春花は顔を上げた。
「たさ……つ?」
「ええ」
訊き返すと、美鶴がしっかりと頷いた。
「胸に一発、銃で撃たれたのよ」
「……」
今度は、言葉が出なかった。
「な……んで……」
力が抜けて倒れそうになった体を、美鶴が立ち上がり、そっと二の腕を掴んで支えてくれた。
間近になった美鶴が、顔を覗き込んでくる。
「小畑さん――あなたはそのとき犯人の顔を見たかもしれない。だから、警察からの依頼で、そのときのことを思い出させるように、私がここに来たの」
「お父さんが……殺され……」
春花は俯き、捲れた布団をぎゅっと握りしめた。
「お……春花ちゃん」
美鶴が椅子に腰を下ろし、春花の背中をそっと撫でる。
「大丈夫、大丈夫だから……」
「う……うぅ……ぅ……」
それから泣き止むまでの間、美鶴は背中を撫でてくれていた。
※
「あいつが生きている?」
「そうだ」
スマホ越しに、年齢を重ねた声が聞こえる。
苛立ちと不安と恐怖と、それ以外にも色んな感情が感じられる。
スマホを手に持つ青年が受けてきた訓練には、そういった一面もあった。
相手の顔を見て、その相手がどんな感情を抱いているのか。
好意を持っているのか、敵意を向けているのか。
その好意は本物か、表面上の偽りか。
その敵意は一時的なものか、それとも殺したいほどのものか。
そういった相手の感情が、手に取るように分かる。
だから、スマホ越しの相手が、もう後がないことを、青年は感じ取っていた。
そう感じ、青年は決して声には乗せず、しかし口角をわずかに釣り上げた。
「それなら俺は、加納亮介ということか」
「そうだな」
「それで?」
「分かっているだろ。『アリアドネ作戦』は実行された。奴を殺せ。今度は確実にな」
「了解」
スマホを耳から離し、通話を切る。
「念を押されなくても、分かっているさ」
スマホをズボンのポケットにしまう。
それから目の前の建物を見上げる。
その建物は病院で、青年――亮介が見つめる視線の先にある窓ガラスは、春花が入院している部屋のものだった。
「舞台は用意した。待っているぞ、和弘」
そう呟き、亮介は病院の正面入口へと足を進めた。
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