第一話 アリアドネ(3)
「春花ちゃん」
名前を呼ばれ、春花は窓の方に横向きにしていた体を反転させ、病室に入ってきた日下部を見やった。
「日下部さん」
「調子はどうだ?」
椅子を引きながら、日下部が訊いてくる。
「特には……」
そう返して、春花は曖昧な笑みを浮かべた。
「そうか……」
日下部も、どう言葉を返していいのか分からないと言った様子で、それでもどうにか会話を繋ごうと考え込んでいるように見えた。
椅子に座った日下部が、神妙な顔つきで春花を見据える。
「お父さん――いえ、父に関することなら、何でも言ってください」
「春花ちゃん……」
言いにくそうにしている日下部に、春花は自分からそう促した。
「知りたいんです。父に、何があったのか」
「……分かった」
そう言うと、日下部は一度体の力を抜き、それから改めて春花へと視線を向けた。
「史人の死に対して、警察は他殺として捜査している。俺も担当のひとりだ。春花ちゃんの事故当時の記憶に、誰かが車の外にいたという証言から、その人物が史人を射殺したと考えている」
「父は、どうして殺されたんですか? それに……だったら、あの事故も……」
「あの事故も、その線で捜査している」
どうやって事故が起きたのか、春花は憶えていない。
だけど、事故が起きて、そして父は射殺された。
だったら、その事故自体も仕組まれたことではないのか。
事故で死ねばよし。
死んでいなければ、改めて殺す。
そこまでして父の命を奪おうとした存在がいる。
「春花ちゃんは、史人の仕事の内容を知っているのか?」
「いえ、詳しくは……防衛省の関連施設で働いていることだけで……」
「そうか」
椅子に背もたれがあれば、日下部は深く腰掛けていただろう。
「それが、父の死と関係しているんですか?」
「分からない。ただ……」
「ただ?」
そこまで言って、日下部が考え込む。
それは、これから先の言葉を春花に言うべきか否かを決めかねているようだった。
春花はじっと日下部を睨むように視線を向け続けた。
それに対し、日下部は春花の方を見ては視線を逸らし、またちらっと見ては逸らしを繰り返し、やおら折れたように深く溜息を吐いた。
「実はここ数年、史人とは連絡も取り合っていなかったんだ」
「うちにも、来なくなっていましたよね」
「ああ。それは、春花ちゃんのお母さんの件もあったからね」
目に見えて日下部が落ち込むように視線を伏せる。
それに対しては、春花も何も言うことができない。
春花の母――
都内で起きた、ビル爆破テロに巻き込まれて……。
それからだ。
家庭環境が一変したのは。
春花は不登校になり、日下部は顔を出さなくなり、父は仕事に没頭するようになった。
すべてが狂い、狂い続けた。
春花はインターネットの世界へとのめり込み、引きこもった。
だから、父との会話もほとんどなかった。
それでも年に一度は必ず、母の命日に事件現場の跡地となった場所にある慰霊碑に献花しに行っていた。
春花が父と一緒に車に乗る、一年に一度だけの日。
その日に、父が死んだ――いや、殺された。
心にぽっかりと穴が空いたような虚無感に、春花はもう何もする気が起きなかった。
ここを退院して、それでどこに行く?
養護施設か?
それとも、誰かが引き取ってくれるとでもいうのか、こんな自分を……。
自暴自棄とも違う、全身に力が入らない虚脱感。
何もしたくない。
何もできない。
それでも、どうして自分がこんな目にあったのかだけは知りたかった。
「実は、事故が起きた何日か前に、史人から連絡が来たんだ」
「父が?」
「ああ。『今も刑事の仕事を続けているのか?』って聞かれて、そうだと答えたら、『話したいことがあるから、今度会えないか?』と聞かれた。で、日時を決めたら、その前日に殺された」
「それって……もしかして……」
とんでもないことを考えてしまった春花だったが、どうしてもその可能性を拭うことができなかった。
「俺も考えたくはなかったが……口封じの可能性も……」
「――ッ!」
声にならない悲鳴が漏れ、春花は思わず口を手で覆った。
「犯人は必ず見つける。そして、報いを受けさせる。だから、春花ちゃんにも、できれば協力してほしい」
「カウンセリングのことですか?」
「あ、ああ……そうだ」
春花は、くるりと体を反転させ、日下部に背中を向けた。
「分かりました。私、受けます」
「……自分から言っておいてなんだが、断ってもいいんだ」
その言葉だけで、日下部が心から気遣ってくれていることが分かる。
両親を亡くした今、無条件で信じられるのは、幼い頃からその
その日下部が自分の失われた記憶に潜む犯人を知りたいのならば、協力しないわけにはいかない。
「やります……やらせてください」
「……分かった。話はつけておくから」
「はい」
「それと、俺の名刺を置いておく。これから先、どんなことだっていい。困ったことがあったら……いや、そうじゃなくてもいいから、連絡してくれ」
「分かりました」
「じゃあ、今日は帰るよ。また明日、様子を見に来るから」
椅子を引きずる音がして、足音が遠ざかって行く。
「日下部さん」
足音が止まる。
「ありがとう……ございます。こんな私のために……色々してくれて……」
「こんな、は余計だ。そして春花ちゃんは、俺にとっても娘みたいなもんだ。なにせ、生まれたその日から成長する姿を見てきたんだ。だから、気にしなくていい」
「……はい」
涙声を悟られないよう、春花は短く返事をし、体を丸くした。
背中越しにドアを閉める音が聞こえる。
それから春花は、静かに涙を流した。
※
「本当に、あいつが生きてるって言うの?」
『ああ。現場から奴の遺体が消えていた』
「まるでゾンビね。まぁ、死んでないんだから、遺体でもゾンビでもないか」
『そうだな』
「で、この作戦で、本当にあいつは現れるの?」
『餌は撒いた。
「どうして言い切れるの?」
『それは、奴が人だからだ』
「見殺しにすることができない。そういうこと?」
『ああ』
「でも、それでも現れなかったら?」
『安心しろ。最終日には、こっちから歓迎会を開く。とっておきのな』
「そう。楽しみにしてるわ」
『雨宮――お前にも、とっておきの役を用意してある』
「今はその名前で呼ばないで」
『そうだったな』
「じゃあ、もう切るわね。今の私にも、やるべきことがあるから」
『お前のその徹底ぶりには感心する』
「それが、私たちに求められている素質じゃなくて?」
『そうだ。俺たちは人じゃない。与えられた命令を忠実にこなすのみ』
「ええ、そうね。じゃ」
耳元からスマホを離し、通話を切る。
それと同時に、頭の中でスイッチが切り替わる。
ポケットにスマホをしまいながら歩く彼女の意識には、先ほどまで行われていた会話などなくなっていた。
「さーって、と。休憩おわり。仕事しごと~っと」
そうして、患者たちが行き交う病院の廊下を歩くのだった。
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