第一話 アリアドネ(1)

「――ッ!」

 目を覚ますと、春花はるかは跳ね上がるように起き上がろうとし――体に走った痛みでベッドに倒れ込んだ。

「春花ちゃん!」

 その様子に気づいた男性の顔が、春花の視界に入り込んでくる。

「くさかべ……さん」

 その男性は、父と同じ歳で、大学時代からの友人でもある日下部糺くさかべただしだった。

 日下部は刑事で、年に何度か家を訪ねてくることもあり、顔見知り程度だが、春花にとっては数少ない知り合いだった。

「ここ……は……?」

 知っている人がいることに安心した春花は、自分がどこにいるのか理解できなかった。

「ここは病院だ」

 日下部は喫煙者で、喋るたびに仄かに煙草の匂いがした。

 家を訪ねてきたときには吸うことはないが、家を出て車に乗るまでの間にいつも煙草を咥えて火を点けている姿を見ていた春花にとって、煙草の匂いイコール日下部という方程式が成り立つほどに当たり前で、どこかこの匂いにホッとしている自分がいた。

「どうして……?」

 日下部が目を見開き、それから険しそうに眉を寄せた。

「もしかして、憶えてないのかい?」

 その言葉に、春花は無意識に目を覚ます前の出来事を思い出そうとしていた。

 そして――思い出した。

 信じられないようなものを見るような目をする春花に、思い出したことに気づいた日下部が、申し訳なさそうに視線を下げ、そして言ったのだ。

「史人が……キミのお父さんは……亡くなった」

 目の前が、文字通り真っ暗になった。

「春花ちゃん!? 春花ちゃん!」


            ※


 窓のない個室の中は、ローテーブルとソファーの応接セットと、その奥にある執務机と革張りの椅子があるだけの簡素なつくりとなっていた。

 執務机にはデスクトップが設置されており、机の上には紙媒体の資料が置かれていた。

 その中に、茶色のファイルに赤色の印字が捺されたものがある。


『極秘計画 複製禁止』


 そう印字されたファイルの紐は外されており、中に納められていた極秘資料が机に乱雑に広げられていた。

 それをそう扱うことができるだけの立場にある男が革張りの椅子に座り、それを眺めていた。

 資料にはすべて、人の顔写真と経歴が載っている。

 その最大の特徴は、すべての人物が男女問わず十代の若者だということだった。

 写真を眺めると、それだけで荒んだ過去が見て取れるほどに歪んだ雰囲気を醸し出す者もいる。

 その一方では、まるで特徴の感じられない若者もいる。

 写真の横には、名前に生年月日、出身地、血液型、学歴が記されている。

 そして下には、彼ら彼女らがリクルーターの目に留まった理由が書かれていた。

 条件は色々だが、共通するのは、孤児もしくは血縁者と絶縁状態であること。

 つまり、消えても誰も探さない人物、ということだ。

 そしてもうひとつが、社会負適合者であること。

 この場合のそれはつまり――人を殺したことがある、ということだ。

 これだけでどれだけの人数に絞られるか。

 そして、このファイルに納められた十二人は、まさに選ばれし者ということになる。

 男が十二枚の資料を左から右へと順に目を通していく。

 そのうちの半数――六人の顔写真には、赤色の印字が捺されていた。


『死亡』


 この極秘計画に選ばれた十二人は、世間では死んだことになっている。

 さらには、それまでの名を捨てさせるため、偽りのプロフィールを与え、それを徹底的に覚えさせ、与えた名前を自分の名前にさせた。

 つまり、『死亡』を捺された六人は、社会的に死んだことにされた上で、偽りの名前で事実上の死を迎えたことになる。

 そう、この六人は死んだはずなのだ。

 それなのに、なぜ。

「くそっ」

 悪態が、部屋に木霊する。

 男の手が、一枚の資料を手に取る。

 その顔写真の青年は、確かに『死亡』となっていた。

「幽霊でも現れたというのか」

 忌々しく呟く男に応えるように、所内に設置されている内線用の電話が鳴った。

 受話器を取らず、スピーカーのボタンに手を伸ばす。

「私だ」

『所長。現場から報告がありました』

 心臓が高鳴る。

 それでも、威厳を保つために、声は至極冷静につとめる。

「それで、結果は?」

『ありませんでした』

「……確かか?」

『はい。自ら這い出たような跡が残っていました』

 男は内心で、幽霊ではなくゾンビか、と罵った。

「分かった。念のため、残りも調べておけ」

『……了解しました』

 そんなわけがあるはずないと電話の向こうの相手も分かっているはずだが、そのあるはずがないことを目の前にしている以上、同意せざるを得ないだろう。

 それでもやはり、万に一つもありはしないのだが。

 通話を終え、男は革張りの椅子に背中を預けた。

 天井を仰ぎ、これからどうなってしまうのか、思いを募らせる。

 『死亡』扱いとなっている青年は、極秘計画において、最後の試験で落ちた。

 だから死んだ。

 それでも、その青年が間違いなく傑作であったことに疑念の余地はない。

 だが、死んだ。

 仕方がない。

 この極秘計画で最後に求められるのは、『人』ではなく『兵器』なのだから。

 しかし、だからこそ不安で仕方がない。

 『人』として死んだ青年が死の淵から這い上がり、そして何を望むのか。

 男はもし自分ならばと考え、すぐに相応しい二文字が思い浮かんだ。

 それは『復讐』だ、と。

「それなら」

 男は資料を放り、もう一枚別の資料を手に取った。

 それもまた十代の青年だったが、彼の顔写真には何も捺されていなかった。

 この極秘計画における最終試験の合格者――その六人のうちのひとり。

 そして、『人』として死んだ青年を殺した『兵器』そのもの。

 この極秘計画――『アステリオス計画』における最高傑作。

「もう一度、殺させればいいだけのこと」

 男は資料を放り、二枚を重ねるようにして置いた。


 その『兵器』の名は、加納亮介かのうりょうすけ

 そして『人』の名は、相馬和弘そうまかずひろ

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