みんなの家

 当てもなく飛び出したように思ったけれど、気がつくとユイナは、コウジと住んでいたアパートの前に立っていた。


 まだこんなことになる前、幸せだったときのことを彼女は反芻した。彼女の作った料理を、何でも美味しいと言って食べてくれたコウジの子供みたいな笑顔。身を寄せあって眠った万年床が、二人の体温で暖かだったこと。少し煙草臭いコウジの体臭。心臓の鼓動。


(コウジ、お願い。ここにいて)


 心臓が壊れそうなほどドキドキする。ユイナは大事な大事な試験の合格発表を見るような気持ちで、コウジの部屋の前に立った。深呼吸をひとつ、ゆっくりとした。


 そのとき、部屋の中から声がした。


「……ってよー、俺、丼もの苦手だからさぁ」


 男の声だった。心臓が跳ね上がる。ユイナはドキドキしながらインターホンを押した。


「ん、ちょっと待って。誰か来た」


 また声が聞こえた。少し間があって、アパートのドアが開いた。


 見たことのない若い男が立っていた。


「あのー、どちら様?」


 男は戸惑った様子で、言葉を失っているユイナに話しかけてきた。


「知り合いじゃないよね? あ、もしかして前に住んでた人の知り合いとか? 俺、一昨日越してきたばっかだからさ……」


「あ……あの、前に住んでたひとは……」


 ユイナはやっとの思いで尋ねた。「どこに行ったんですか?」


「いやー、ごめんね。俺も知らないや」


「そうですか……」


 男は気の毒そうな目でユイナを見たが、どうしようもないという感じでドアを閉めた。


 足の力が抜けた。ユイナはその場にへたりこんだ。


 しばらく、自分の呼吸の音だけを聞いていた。脚に触れるコンクリートが冷たかった。それから彼女はふらふらと、幽霊のように立ち上がった。


「かえろ」


 いつの間にか隣に立っていた女が囁いた。彼女の首は大きく右に折れ曲がり、破れた皮膚から骨が飛び出していた。顔の左半分は見る影もなく潰れ、乱れた髪が胸元にかかっている。髪の毛の間に、ひしゃげたオープンハートのペンダントが見えた。


「うちにかえろ」


「うん……」


 ユイナは女と並んで歩き出していた。


「さびしくないよ」


 首の折れた女は、幼い迷子に話しかけるように、何度もそう言った。「おうちにかえって、みんなでくらそうね」


 それを聞いているうちに、ユイナの頬に涙が流れてきた。


「うん」


 彼女は泣きながら頷いた。


 雲間から晩秋の太陽が、ユイナの背中に弱々しい光を投げかけていた。彼女はコスモスが群生するアパートへと帰っていった。




 イチコがそのアパートにたどり着いたとき、季節は冬になっていた。アパートの周りに、枯れたコスモスがへばりついていた。


 銀色の軽自動車を降りると、冷たい風が小柄な彼女に容赦なく吹き付けた。


「そこの201号室だよ」


 運転席の窓を開けて、菅原が言った。


「今は空き部屋だけどね」


「ふーん」


 イチコは顔を上げて、201号室の窓を見た。あの部屋にユイナが住んでいたんだな、とすぐにわかった。


「イチコちゃん、あの子と友達だったの?」


「ううん。仕事先で一緒だっただけ。ひとりだけ若いから気になってたの。そうか……」


 彼女は吹き付ける北風に何度もまばたきしながら、「結局、ペンダントは捨てなかったんだね」と呟いた。


「あそこ、別にイチコちゃんが住んでもいいけど」


 菅原が言った。


「絶対やだ」


 イチコは短く答えると、軽自動車の後部座席に乗り込んだ。


「もういいの?」


「うん。早く行こ」


 201号室の窓辺には、首の折れた女と、顔中が原型もわからないほど腫れあがった女と、異様に首が伸びて、青黒い顔をしたユイナが立っていた。


 皆、笑っていた。


 イチコはなるべく彼女たちを見ないようにしながら、コスモスに囲まれたアパートを後にした。

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秋桜の家 尾八原ジュージ @zi-yon

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