第3話 見えない気持ち

 誰にでも優しいって、誰にも優しくない事と同じだと思う。


 好きな小説の世界に入り込み幸せな妄想の続きを夢の中で見ていた私を現実に引き戻したのは、腰の痛みだった。結局あの後は、お風呂も食事も省いてしまいそのままソファーで寝てしまったようで、あまりにも目覚めが悪い。その主な理由は、着ていたお気に入りのスーツに沢山の皺が付いたことでも空腹を通り越して軽い痛みを感じる胃のせいでもなく、メイクを落とさずに寝てしまった罪悪感のせい。日頃あんなに入念に手入れをしているのが全て水の泡になってしまうと思うと自分自身への怒りで寝起き早々にため息が出る――

 そんな大きなため息の後にこれまた大きく伸びをして体と意識をしっかりと目覚めさせる。そして、そのまま起き上がってシャワーを浴びに行くことにした。


 土日祝日は基本的に仕事が休みなので、遅くとも朝九時には起きて冷蔵庫にある残り物でさっと軽めの朝食を作り、お気に入りのブレンド茶と一緒にゆっくり食べる。その後は平日頑張って働いた証である洗濯物の山を片付けて、リビングを中心に部屋の掃除をしてからお昼過ぎには近所のカフェに行き、お気に入りのサラダランチを頼む。帰り際にカフェモカをテイクアウトしてそのまま自由が丘方面もしくは日本橋方面まで足を運びゆったり散歩を楽しむ。

 なんて理想的な休日の過ごし方だろうか。シャワー後に髪をタオルドライしながら先程まで眠っていたソファーに腰かけながら自分の考えにうっとりする。この理想的過ぎる休日プランを実行するには、まず朝九時までに起きなければいけない。そう、私にはそれが最大の難問なのである。


 基本的に金曜日の夜は、仕事で会食になることばかり。終電までに解散となれば良い方で長引くとタクシーを拾わないといけない深い時間になってしまう。そんな時間に帰宅してしまえば、お月様と一緒に眠る時間は全くなく、諦めて酔い醒ましにコーヒーを淹れて深夜の通販番組をぼーっと眺めていればすぐに太陽が顔を出す。

 帰宅後すぐにベッドに向かえばいいのに懲りずに毎回、折角こんな時間まで起きているのだからと思い、ベランダに出て朝陽でも見ようと熱々のコーヒーを片手に外に出る。

「やっぱりまだ寒い……」

 もうすぐ春が来ると言うのに早朝のこの時間はまだまだ冬を感じさせる冷たさだった。朝陽を眺めていたら風邪を引きましたなんて上司に報告できないなーと頭の隅で考えてから、数歩でリビングに戻りソファーに掛けてあったブランケットを手に取りベランダへ戻る。

 街も人も起きていないと世界はこんなにも静かで寂しいんだと何度目かの同じ感想を飽きずに呟き、コーヒーが冷めきらない数分間を一人楽しんでいる。オレンジ色の朝陽を充分に浴びたところで、ようやくベッドに向かう気分になってきた。また数歩でリビングへ戻り、ふと時計に視線を向ければ時刻は、五時五十三分。あぁ、また理想的な休日プランを過ごすことはできない、といつも早々に諦めて私はふかふかのベッドへ体を投げる。


 こうやって先週金曜日の出来事を思い出してはっきりと分かった。こんな不摂生な週末の入口を過ごしている間、私はいつになっても朝九時に起きることはできない。

 現に今も、時計の針は昼の十二時をとっくに過ぎている。まだ朝食も洗濯物も済ませていないのに、とまたため息が出る。最初から順を追ってしまうよりもプランに途中合流して、今からサラダランチに出掛けていいのだろうか?と少し迷ったけど、あの洗濯物の山を放置してしまうのは明後日からの仕事に支障が出る。仕事着であるスーツはまだクローゼットに幾つか掛けてあるので着るものが無いなんて問題が起きることはない。この場合は精神的な支障に該当する。

 一日まともに働いてクタクタで帰宅したと思ったら部屋には大量の洗濯物の山……。だめだ、想像しただけで発狂してしまいそうになる。せめて自宅だけは自分の好きな、自分を許してくれる空間であって欲しいのに、洗濯物の山だなんてそこに存在してはいけない気がする。

 来週の金曜日は確か会食も職場の飲み会も無かったはず、プライベートの食事の約束も無い。うん、理想の休日プランを実行するのは来週からにしよう。そうしよう。


 そう緩い決意をしたあとは、ふかふかのベッドに埋もれながら携帯でSNSアプリを開く。どうして寝ようと思ってベッドに入ったのに携帯を触ってしまうのか自分でもよく分からず、これは私だけじゃなくて多くの人が抱える悩みだろうなと勝手に世間を巻き込んだ思考と指先がいつも私を甘やかす。

「あっ、……またこの人」

 画面に映し出されたのは、SNSのタイムライン。そして、そこはここ最近で私が一番嫌いな状況になっていた。そう、みちるさんが自身のフォロワーさんと楽しく会話をしている場面に運悪く出くわしてしまったのだ。

 執筆活動を長く続けているみちるさんには古参と呼ばれるファンの人が何人かいるらしく、ファンの間でもその古参と呼ばれる数人は特別で、みちるさんに近い存在として認識されている。

 先に知ってすきになって応援しているからって特別な存在だなんてそれはずるい。私だってもっと早くみちるさんの存在を、みちるさんの書く小説を知りたかった――


 深いため息と共に私の中から嫉妬と言えるそれが溢れ出る。あぁー考えたくない、こんな報われない嫉妬なんてしてどうなるの……。疲れるだけだと分かっているのにどうしても目にしたくない名前に心の奥が反応してしまう。

 【チエちゃんを招いて鍋パーティー】そんな文字と一緒に添えられた写真には、綺麗に作られたミルフィーユ鍋と端に写るメンズライクな服装の腕があった。不思議とみちるさんがメンズライクな服装をするとは思えず、きっと此処に写っているその腕がチエさんなのだろう。そう自分で推測しておきながらそれを正面から受け止めるには、とてもじゃないけど自分の中に容量が足りないと拒否して、この件に関しては一旦置いておくことにした。

 あれ、もしやこれは俗に言う匂わせと言うやつなのだろうか。みちるさんの性格上そんなことをするとは思えないけど、もしそうならば、精神衛生上とても良くない。勿論それは私の精神の問題なのだけれど。

「……なんか、無性に腹が立つ」


 チエさんは、古参の中でも特にみちるさんと仲が良く、みちるさんもチエさんを他のファンよりも大切に思っていると二人の会話から感じてしまう。だから私は、チエさんがとても嫌いだ。

 大好きな人が自分以外の他の人と目の前で仲良くしていて、その世界へ私も入りたいと思ってもそこにはとても薄く頑丈な壁があり、私の侵入を許してはくれない。

 たかが嫉妬で大人気ない、子供じゃないんだからと呆れられてしまうだろうなと頭の隅で分かってはいるけれど、嫉妬と言う感情はどうにも私は自分でコントロールができないらしい。

 チエさんには会ったこともないし、SNS上で会話をしたこともない。それなのに、極力チエさんの投稿は目にしたくないと避けているくらいには私は彼女が嫌いになってしまった。


 でも、これはとてもおかしい。まるで私はみちるさん自身に恋をしているみたいな心境になっている。うーん……と上手く答えの出せないこのモヤッとしたものをどう処理するべきか回転の鈍っている頭を駆使するが解決しそうにもない。取り敢えずもう寝なくては明日に支障が出る、そう思って埋もれたベッドの中に携帯を手放す。

 意識が段々と夢の中に引き込まれていく中でふと思った。どうして【好き】と言う文字は【女の子】と書くのだろうか。どうして他の字を組み合わせてくれなかったのだろうか。

 初めて恋をした人がアダムとイヴだとしたら、好きと言う感情を初めて文字にした人はきっと綺麗な女性に想いを寄せた男性かもしれない。もしくは、可愛い女の子に恋をしてその子に「私はイチゴが好きよ」と手紙を書く為に少女がその文字を作ったのかもしれない。


 貴女が好きと言えないかわりに他のものを好きと伝えて気付かれないように本当の気持ちを隠しながら心のどこかで伝わればいいのにと願っていたのかもしれない。


 人の気持ちは目に見えないもの。でも、小説の中の人物たちの気持ちはちゃんと見える。文字としてそこにあるから。見えることで理解してあげることが出来て安心する。だから私は、小説が好きなのかもしれない。


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