最終話 醒めるにはあまりに惜しい夢でした

「ふふふっ」


 思わず笑みが漏れる。るんたるんた弾むような足どりで、私は私の新しい家に帰った。左手にはきらめく指輪。ドアを開けると、カレーの匂いがした。


「ただいま〜!」

「おかえり」


 中で待っていた先輩が優しく微笑んだ。そう、私たち、高校卒業&18歳を機に結婚しました!


「ってちょっと!!なんで先輩わたしより早く帰ってるんですか!逆でしょう普通!やり直しです」

「えぇ……」


 不満げな先輩を部屋から追い出して私はエプロンをつけた。ガチャり、とドアが開いてずいぶん猫背な先輩が入ってくる。


「ただいま〜…」


 私は、おたまを持ったまま笑顔で振り返る。


「おかえりなさい!ご飯にしますか?パンにしますか?」


 そして、古典的なあのセリフを


「それとも……わ・た・し?ですか?」


 先輩は右頬だけを吊り上げるような苦笑いをしながらいった。


「う、うん……ライス、かな」

「むうぅ。ノリが悪いですよ先輩」


 そう言って私は頬を膨らませる。炊飯器を開けると、白いご飯がちゃんと炊き上がっていた。


「まあいいです。じゃあ、ご飯にしましょうね、先輩」




「ふう」

 ふたりともおかわりをして、丸くなったお腹をさする。胡座でくつろぐ先輩の膝に乗って、私は先輩に抱きついた。


「どうしたの?詩音。今日はずいぶんあまえんぼうだね」

「だって、夫婦ですし。先輩には奥さんを甘やかす義務があります。」


 そう言って、私は先輩についばむようなキスをした。


「先輩、大好きです」


 それからもう一度キスをする。今度は、もっと深く。舌を絡ませて、求め合って。


「先輩、私、先輩の赤ちゃんが欲しいです」


 私は先輩の耳元でねだった。私たちなら幸せになっていけると、そう信じられた。


 右手で先輩の手を握る。恋人つなぎ。左手は、空を切った。


「詩音、ごめんな」


 先輩の右手は私の耳元にあって。


 パチン。催眠が弾けた。


「サプライズのつもりだったんだけど、こんなに詩音が嬉しそうにするなんて思ってなくて」

「あ、あ」


 申し訳無さそうな先輩の声が遠くから聞こえる。そうだ、私たちは結婚なんてしてなかった。先輩の、いつもの催眠術だ。これくらい、いつものことのはずなのに、涙がポロポロと溢れた。


「詩音!?」

「すみません。……醒めるにはあまりに惜しい夢でした。せめて、せめてもう少しでも——」

「あの、だな」


 両手で涙を拭う私に先輩が躊躇いがちに声をかける。そうして、先輩は意を決したように言った。


「『結婚した』っていうのは暗示なんだけど——指輪は本物なんだ」

「え?」


 左手を見ると、確かに指輪が光っていた。先輩の左手の薬指にあるのと同じものが。


 私は目をゴシゴシと擦って言った。


「それで?」

「え?」


 先輩は目を丸くする。


「指輪が本物だとなんなんですか?」

「それは——わからない?」

「ええ、わからないです。言いませんでしたっけ?小道具だけ用意したら相手がわかってくれるなんて間違いだって——ちゃんと先輩の言葉で言ってください」


 先輩は目を泳がせて顔を逸らしながら真っ赤な顔でボソッと言った。


「……結婚、してください」


 私は先輩にぎゅーーーっと抱きついた。もう二度と離さないように。


「どおりで結婚式の記憶がないなと思ってたんですよ。一生で一度のことですし、最高の式にしてくださいね、先輩」


 私たちの結婚ができちゃった結婚になったかどうかは、ここでは書かない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

後輩ちゃんと催眠術先輩 サヨナキドリ @sayonaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ