路地裏商店街

ねこせんせい

第1話 何でも屋との出会い

 私は繁華街の明かりが煌々と照らされる中、青白い顔色をしながらウコンの缶を片手にフラフラと蛇行しながら歩いていた。

 大学でそこそこにいい成績を収め、優しい彼氏と付き合い、就職先も有名な大手広告代理店に勤めることになった私は、今年になって三年目となり、人生の苦難を味わっている最中だ。

 社会に出ると学校で習ったことなどなんの役にも立たず、彼氏と連絡を取っても、疲れからろくすっぽ話すこともなく寝てしまい、会社は終電帰宅は当たり前で、忙しい時期は泊まり込みもザラだった。

 しかも上司が非常にいやらしい男で、上司の立場を存分に使い、私を顎でこき使う。しかも女だからというだけでお茶汲みなどもさせられる。更に何処で知ったのか私に彼氏がいる事を知り、最近彼氏とどうなの、上手くいってるのなどと聞いてくる、上手くいかないのはお前のせいだよ、と声を大にして言いたかったが流石に我慢する。

 極め付きには今日の接待である。絵に描いたような脂ぎったハゲでデブの取引相手に強い酒を強要され、終いにはお尻を撫で回してくる始末。私は具合悪いといい、上司が引き留めるのを振り切って店から飛び出した。実際酒を飲まされすぎて気持ち悪いのは間違いなかった。

 私はありとあらゆるハラスメントを受け、身も心も疲弊しており癒しが欲しかった。ウコンの缶をゴミ箱に投げ入れると、スマホを取り出して彼氏に連絡を取ろうと思った。すると着信履歴には彼からの電話が。心の支えだった彼氏からのナイスタイミングの電話にすがるように電話を掛け返す。

 プルルルル……プルルルル……

 数回のコール音で通話が繋がると、その瞬間女の喘ぎ声が聞こえてきた。私は何の事だか訳がわからず、変な所に掛け間違えたのかと思って切ろうとした。するとその喘ぎ声の女性が彼氏の名前を連呼している。

 私の頭は完全にフリーズし、そのいかがわしい音声を聞いていると、何かに気づいたのであろう彼氏が、電話越しの私に向かって慌てて取り繕ってくる。

「あ、あの、これは違うんだ。たまたま俺の名前と同じ男優が出ているAVを観ていて!」

「あー、彼女さんー?ごめんねー、彼のこと放ったらかしだったみたいだから貰っちゃったー。あと、あんまり仕事ばっかりしてるとあっという間に枯れちゃうわよ?じゃあねー。」

 ブツッ……。

 私は力の限りスマホを握りしめ、その怒りに暴走した握力はスマホの液晶にヒビを入れた。そしてその画面の映らなくなったスマホを思い切り振り上げて叫びながら地面に叩きつける。

「糞がぁぁぁ!!!」

 スマホが地面に叩きつけられ四散し、周りを歩いている人たちは一瞬だけ足を止めたあと、何事もなかったかのようにまた歩き始める。

 この都会のど真ん中で急激な虚無感に襲われた私は、溢れそうな涙を必死に堪えるために上を向いて耐えていた。

 繁華街のど真ん中で仁王立ちし、涙を堪えている私に、か細いけれども耳にしっかりと響く声が聞こえてきた。

「お姉さん、お姉さん、大丈夫?」

 声を掛けてきたのは、小さな机にビロードが敷かれており、その前には八卦と書かれた紙が垂れている。いわゆる占い師という奴だった。

 都会の喧騒の中にいても、そのか細い声は不思議と私の耳に届いてきた。

 普段なら占い師なんて見向きもしないが、今は藁にもすがりたい気分なので、その占い師の言葉に耳を傾けていた。

 占い師のいる方を向いてしまったため、上を向いて堪えていた涙がワッと溢れ出す。そうすると今まで溜まっていた様々な鬱憤が堰を切ったように口をついて溢れ出してきた。

「私だって、何も好きであいつのこと放ったらかしにしてたわけじゃないもん!私だっていつもパワハラ、セクハラに耐えて今日まで頑張ってきて、その結果があいつに裏切られて。もう死にたい!死にたいというより殺したい!」

 私はその後も占い師にありとあらゆる言葉をぶつけ、もう段々自分で何を言っているのかわからなくなっていくうちに、感情は悲しみから怒りにシフトしていった。そしてその占い師は私の言葉を全て肯定して受け止めてくれた。

「そうよね、貴女は何も悪くないわ。ただちょっと頑張りすぎちゃっただけなのよ。貴女を責めれる人なんていないわよ。」

 占い師の言葉は妙に心に染み込み、私は占い師の慰めにより徐々に冷静になっていった。すると感心は自分の事よりも占い師のほうにシフトしていき、

 ヴェールの向こうの占い師をジッと見つめてしまった。

 その占い師は薄布一枚隔てても分かるくらい美人で、嫉妬を通り越して女の私が恋に落ちそうなくらいの美貌に、吸い込まれそうな深い瞳をしていた。

 そんな風にジッと見つめる私に対して、特に気を悪くしたようなこともない占い師はニコッと微笑み、慈愛に満ちた笑顔を私に向けてくれた。

 そしてそんな占い師はすっと手を前に上げて、裏路地の入り口に向かって指差した。

「貴女の悩みを解決してくれる人が、その裏路地の先にいます。その裏路地に入って最初の曲がり角を右に曲がって…」

 普通こういうのは、占い師の貴女が解決してくれるものじゃないんですかと言いそうになったが、私は占い師の教えてくれた道順を覚えるために、占い師の言葉に集中した。その占い師が不思議とそうさせてくれているかのように。

「…そして、そこに一軒だけシャッターの開いた店があるわ。そこから先は貴女次第よ。」

 肝心のどうすれば悩みを解決してくれるかを教えてくれないままの占い師だが、彼女の言うことに従えば何とかなるんじゃないかと、不思議と思えてくる。私は占い師に礼を言うと、言われた裏路地に入っていった。

 細かい指示しっかり聞いていたにも関わらず何故かうろ覚えだった、しかし私は道に迷うことなく目的地に辿り着けた。そこにはほのかに光る店のような建物があった。店のような、と言うのは、周りは全てが閉店したようなシャッター街で、その唯一シャッターが空いている所が恐らくの目的地だからだ。

 そっと店の中を覗いて見ると、中は雑然とした状態で、店なのか倉庫なのかゴミ捨て場なのかさっぱり分からない有様だった。

 私は本当にこんな所に来て、私の悩みが解決するとは思えなかったが、あの不思議な占い師の言葉を信じて、意を決して店の中に足を踏み入れた。

「へぇ…なんか面白いかも。」

 薄暗い店の中を見回しながら進んでいくと、古今東西様々な物が置いてあって、ちょっと楽しい気分になってきた。中には昔お人形遊びで使っていた、もう絶対手に入らないであろう限定物のバービー人形だったり、彼氏が海外に遊びにいった時にアンティークショップで買って来たと言っていた、可愛くない犬の置物にそっくりな物まで置いてあった。

 物を踏まないようにそっと歩いていると、目の前のガラクタの山が突然動き出し、巨大な何かが突然立ち上がった。

「きゃぁー!」

 私はなんの気配も無かった店の中で、唐突に動き出した何かに腰を抜かすほど驚いた。その拍子で後ろに転んだ私は、咄嗟に手を着いたらそこにガラスの調度品らしき物を倒してしまい、派手な音を立てて割れてしまった。

 それよりも私は目の前の巨大な何かが薄暗い光を背負って、こちらに迫ってくる方がよっぽど一大事だ。

「あーあ、店のもん勝手に壊してくれちゃって。」

 そうしてヌッと伸ばした手が割れたガラスの調度品を拾い上げて、先程ガラクタの山があった場所に小さな机があり、そこに新聞紙を引いて丁寧に割れたガラスを包んでいく。

 巨大な何かは身長190cmはありそうな、ガリガリに痩せた猫背の男だった。身長145cmしかない私からしたら、物凄い巨人に見えた。

「これ結構高かったのになぁ。」

 男がボソッと呟く。

 その言葉を聞いて我に帰る。そうだ、私はこの店に勝手に入ってあまつさえ店の物を壊してしまったのだ。

「あ、す、すいません!余りにびっくりしたので、つい拍子に…」

 私のその言葉を聞いて、大男はこちらをジッと見つめる。私もその視線から逃れることが出来ず、見返す形になってしまった。

 やや痩せこけていて、身嗜みとかそういう事に無頓着なのか、髪のセットなどは全くされておらず、無造作に伸ばされた髪で片方の目が隠れていた。

「これ。」

 男はそういって割れたガラスの調度品を指差す。

「これ弁償してよね。」

 私はその言葉を聞いて固まった。この高そうな調度品を弁償するとなると一体いくらのになるのか、想像も出来なかった。そこで私はふと思いだし、話を逸らそうとした。

「実は占い師のお姉さんが、ここに来れば悩みが解決出来るって!」

 私は勢いに任せて一気に詰め寄り、大男に有無を言わせぬ圧力をかけようとした。すると大男は大きな溜息を吐き、ただでさえやる気のない顔が、うんざりした様子で更にやる気を削がれる様子だった。

「またあいつか……面倒ごとばっかり押しつけてきて……こっちの身にもなれよなぁ……」

 大男がぶつくさと文句を言っているみたいだが、何を言っているのかうまく聞き取れない。

「あのぉ……それで、私の悩みは?」

 俯いて独り言を喋っている相手に、こちらから話しかけるのは少々気後れしたが、ここで押しておかないと、ガラスの件を誤魔化せなくなる!

 大男は低い天井を仰いだ後、先ほどより深い溜息をついて椅子に座り込む。今度は俯いて地面を見つめてもう一度溜息をつく。そんなに悩みを解決するのが嫌なのかこいつは。

 まぁ確かに得体の知れない女が器物破損をした上に、悩み事を解決しろと言われたらそれは勿論NOだ。

 私が逆の立場なら、さっきの占い師のお姉さん並みに綺麗な人でなければ、首を縦には振らないだろう。

 大男はガラクタの山の中から謎の壺を取りだし、それを逆さまにしてじめんに置いた。何か儀式めいた事でも始めるのかと思い、私はその様子を見ていた。

「ん。」

 大男は椅子に座り直し壺を指差している、私に何を伝えようとしているのかさっぱり分からなかった。

「椅子。」

「椅子?」

「どうぞ。」

 これはこの逆さの壺に腰かけろという事なのか。取り敢えず悩みを聞いてくれる事にはなったので、私はその壺にちょこんと腰掛ける。

「大橋大。」

「え?」

「名前。」

「え、あぁ、貴方の名前は大橋さんと言うのね。」

「大でいい。」

 名は体を表すというが、ここまでピッタリの名前はそうそういないだろう。

「えっと、私の名前は小日向雛。よく周りから小煩くピーチクパーチク言うって。」

「で、雛。悩みはなんなんだ。」

 大は人の話を遮った上に、人の事をいきなり名前で呼びやがった。でもぶつぶつ言いながらも悩みを聞いてくれる辺り、態度の割には悪い奴では無いのかも知れない。

「もう悩みって言うか怒りって言うか……私が会社で必死に喰らい付こうとしてる時に、あの五月蝿い上司から私のやるべきじゃ無い仕事を押し付けられたり、雛ちゃんは小さくて可愛いね、抱きしめちゃおうかなぁとか、キモいセクハラを受けたり、彼氏と上手くいってるの?とか、お前が余計な仕事回すから一緒の時間が作れないんだよ!って思ってたら、その彼氏が下品な喘ぎ声垂れ流すビッチとねんごろになってさぁ!私の心の支えがポッキリ折れて、誰が私に優しくしてくれんだよってなるよねぇ!?」

 最後の方は椅子から立ち上がり、大の首元を捻り上げ、自分よりも遥かに背丈の大きな大男に詰め寄っていた。

 それを聞いていた大は、面倒臭そうに視線を逸らして深いため息をついた。

「それで、そいつらにどうやって復讐する?」

「復讐?」

 いやいやいや、私は悩みを相談しに来て、それを解決して欲しいとは思ってここに来たけど、なにも復讐なんて大それたことは考えてなかった。

「ここは何でも屋、失せ物探しから人殺しまで、何でも受け付ける。雛はそいつらに一泡吹かせたいんだろう。なら復讐が手っ取り早い。」

「人殺しって……冗談キツいなー、なんかそう言うのじゃなくて、ハラスメントを止めさせたり、彼氏の心を掴み直したりとか。」

「ハラスメントを止めさせるのは本人の心を改心させるってことだ、人の気持ちはこちら側からどうこう出来るもんじゃない。結局は本人の心次第、俺たちが何か言ってもまた元に戻るだけだ。」

 私は言葉に詰まる。言って聞くなら初めからこうはなっていない。しかも周りの人達も自分に被害が被らないように見て見ぬ振りだ。

「それに付き合ってる男もそうだ。やっぱりお前しかいない、と言って元の鞘に収まって信じ切れるのか?何処かに疑念が湧くんじゃないのか?」

 確かにそうだ、私は彼らの言葉をこれから100%信じることが出来るのだろうか。覆水盆に返らず、一度失ったものは帰ってこない、それは自分が一番身をもって知っていることだ。

「そ、それにしたって人殺しは本気じゃないよね?そんなことしたら大が捕まるわよ。」

 それを聞いた大が、ここに来て初めてニヤリ笑った。

「ここは裏通り、表の法律の届かない深淵。そら、外を見てみな。」

 そう言われて私は後ろを振り返る。そこには人の形をした黒い塊が、輪郭のぼやけた雑音みたいに揺らき歩いていた。

 私はそれを見て本能的に後退って、後ろにいる大にぶつかる。そんな私の肩に大の大きな手がポンと叩かれる。

「人間の本質なんてものは、基本泥水の入ったガラスみたいなもんさ。初めは透明で綺麗な水も徐々に淀んでいき、最後には見ての通り、ガラスの形をした泥人形の出来上がりだ。

 雛だってそうだ、お前も一皮剥けば人間の雛形と同じ。ん?」

 大が背中を丸めて私をジロジロと覗き見る。

「雛、お前こっち側の人間か。意外だったな、あれだけ毒を吐いておいてまだ染まってないのか。」

 私には何のことかさっぱり分からないが、少なくともここは表の法律が届かないと言ったさっきの言葉、それは確かなのだと本能的に悟った。

 外を歩いている人型の黒い塊、あれは人間が触れちゃいけないものだ、あんなものを覗き込んだら人間を辞めてしまう、そんな気がする。

「そう言えばさっきの人殺しってのは、あいつらみたいな人型を殺すんだよ。」

「えっ?あの黒いのを?」

「そうだ、あいつらは人間の本質そのものだ、そんな染まりきったやつらを殺すことで人間の本質を殺す、それが裏で言う殺人だ。」

「それってつまりは……どうなるの?」

 私は人間の本質を殺すと言われて嫌な予感しかしなかった、しかし聞かずにはいられなかった。

「自分の自我が一斉に逆流するんだよ、軽ければ自己嫌悪程度で済ますやつもいれば、自殺まで追い込まれる奴もいる。まぁ大抵のやつは立ち直れないな。」

 私はゾッとした。自殺したくなるくらいに自分の中のものが自分に返ってくる、それは今まで貯めた目に見えない澱が自分に降りかかる、そんな想像が頭をよぎった。

「雛はどうやら頭は良いらしいな、お前の顔から何を想像しているのか大体見えてきたぞ。」

 そう言うと大は元いた椅子に戻り、先程のニヤリとした笑みは消えて、また億劫そうな顔を髪の隙間から覗かせていた。

「みゃー。」

 そんな大の足元に一匹の子猫がいた、子猫は大の足に擦り寄り、よく懐いているのが見て取れた。

 大はその子猫の首根っこを掴み優しく抱き上げる。そしてあごの下を撫でたりお腹をポンポンと叩くと、気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らし始めた。

「か、可愛いぃぃぃー!」

 私は今の今まで感じていた恐怖心が嘘のように吹き飛んでいた。この子はそれくらい可愛いかった。と言うかこの世の中の子猫はみんな可愛いのだ。

「ねぇ大、私も抱っこしていい?」

「まぁ別に構わないが……」

 それだけ聞くと、私は大から奪い去るようにして子猫を腕の中に納める。それでも子猫は嫌な顔ひとつもせずに毛繕いをしていた。

「こんな裏通りでも、こういった邪気の無い存在はきちんと形を保っていられる。特に猫みたいな自由気ままな存在は顕著だな。」

 それを聞いた私はふと気づく。余りの違和感に確かめざるを得ない事だ。

「と言うことは大って邪気がないの?」

「……そう言うことになるな。」

「嘘でしょ?」

「何だよそれ、どう言う意味だよ。」

 気無しか大は少しふてくされているようにも見えた、こいつはこいつで案外可愛いのかもしれない。猫にも好かれるし。

「さて、話は戻すが復讐、するか?」

 復讐、その一言をまた聞いてドキッとする。子猫は何かを察知したのか、一瞬硬直した私の腕からするりと抜けていった。

「今は我慢出来るかも知れないが、いつ雛が黒く染まるのか時間の問題だと思うがね。」

 私は視線を店の外に向ける。外には魑魅魍魎のように黒い塊が往来している。私の心の闇もあれの一部になるのだとしたら……冷たい物が背筋に流れた。

「ちょっとだけ……。」

「ん?」

「ちょっとだけ復讐するってのは、どう?」

 私は引きつった笑いで、軽く冗談を含んだ言い方で大に投げかけた。

「雛は俺が思ってる以上に賢いみたいだな。」

 大からは予想外な反応が返ってくる。私が目をぱちくりさせてるのを見ながら話を続ける。

「なに、簡単な事だ、彼氏の浮気を許せないなら股間をもぎ取れば、最低でも性欲減退、最悪EDだ。上司に関して言えばそうだな……誓約書を強制的に履行すればいい。」

「もぎと……いや、なんか生々しいし、使い物にならなくなったら最悪私にも弊害が……いやでも、私は付き合い続けれるのか?」

 私の逡巡が口をついて漏れる。

「それは置いておいて、誓約書って何なの?」

 大は深い溜息をついて、ぼさぼさの髪をぐしゃぐしゃと描き毟る。自分から話を振っておいて、この話をするのが嫌らしい。

「この時間なら本屋が開いてる、行くぞ。」

 そういって立ち上がると、天井スレスレの巨体が店の入り口を、文字通りくぐって出て行く。私は大の歩幅に合わせて早足で追っていく。

「こいつらに触れるなよ、持っていかれるぞ。」

 大は黒い塊を指差して忠告する。持っていかれる、どういうことなのだろうか。それについて大に質問しようとしたところで、二軒隣のシャッターが開いているのが見えた。あれが本屋なのか?

 私は黒い塊に触れないように、壁際を擦るように大の後ろをついていく。そしてその本屋とやらに入ると、私は声を上げた。

「わぁ……素敵……」

 その本屋は壁一面本棚で覆われており、その本棚は外の佇まいからは想像も出来ないほど高く、梯子が無いと天辺の本が取れない程だ。そして装飾はまるでヨーロッパにある絵画を凝縮したような、漫画みたいなステンドグラスや調度品が品良く置かれている。しかし疑問が残る。

「ねぇ大、何で見た目はあなたの店と同じくらいなのに、中の広さがこんなに違うの?」

「裏通りでは持ち主の想像した通りに世界を創造出来る。勿論限界はあるが、この程度大したことじゃない。」

「じゃあ何で大の店はあんなに汚いのよ。」

 大がピクッと止まる。やや不機嫌そうにこちらに顔だけ向けると、態度とは裏腹に冷静に言葉を返す。

「俺は手の届く範囲に物がないと落ち着かないんだよ。」

 あぁ、ズボラなのね。私はそう理解してそれ以上言わない事にした。

「おい本屋、誓約書が必要だ、寄越せ。」

 大がそう呼びかけたのは、肘掛け椅子に腰掛けて身体を軽く揺らして本に目を落としている美少女だった。その女性は腰まである長く美しい黒髪で、顔には少々野暮ったいが古い眼鏡をしており、それがまた古き良き文学女史を思わせる出立だった。

「綺麗……」

 私がそう呟くと、大は半笑いで私の言葉を拾い上げる。

「さっきも言っただろ、裏通りは創造出来る。こいつの姿も想像上の姿で実際はろくでも……」

 その言葉を遮るように、大の顔に紙の束が投げつけられる。紙とはいえ結構な量を顔に叩きつけられ、大は鼻の頭をさすっている。

「糞が……こんなの一枚ありゃいいんだよ。」

 女性は本に目を落としたまま、何も言わずに大に誓約書とやらを投げつけたようだ。そんな様子をみて不思議に思った私を察したのか、大が補足をする。

「こいつはいつも本の事しか考えてねぇし、本の事以外は全く喋りやしねぇ。本の虫なんだよ。」

 そういって大は手近にある机に、さっき投げつけられた紙の一枚を雑に置いた。

「これが誓約書だ。これに書いた事は確実に履行され、現実世界でも影響をもたらす。」

「えっ、何それ。それじゃあわざわざ殺人を犯さなくても、これ一枚あれば上司の嫌味も無くなるし、彼氏の浮気も無くなるじゃない。こんな便利な物あるなら初めから言ってよ!」

 私は心の荷が少し軽くなった。これで済むなら復讐なんて重たい言葉に捕われずに済む。

「誓約書ってのは程のいい言葉で、こんなの呪いみたいなもんだ。」

 呪い。また今度も不穏な単語が飛び出してきた。

「仮にお前の上司に、これ以上雛にハラスメントをするな、と誓約書に書いて履行させるとする。そうすれば確かにその上司は、雛にそういったことはしなくなるだろう。ただそこで強制的に捻じ曲げられた欲求。この場合お前に対する八つ当たりだったとする。それが別の奴に向けられて、そいつがハラスメントに耐え切れず自殺する、そんな可能性だってあるわけだ。雛なら耐えられたが他の人なら耐えられない可能性もある。」

「別に私は他の人に比べて、特別心が強いとかじゃないし、何もそれが自殺に繋がるなんて……」

 大は外に繋がる扉を指差しながら、私に向けて語りかける。

「いいか雛、お前はお前が思っている以上に特別なんだよ。雛がこの裏通りにいても外の奴らみたいにならないって事は、少なからず俺や本屋並みには邪な心も無く、自分って物を持ってる。しかも俺や本屋ほど捻くれてないしな。」

 私は大と本屋と呼ばれる女性の方を見た。確かにこんな非日常的な場所で過ごしているなんて、普通の人間じゃないのは分かる。しかし私もそれと同じ類だと言われると、なんとも現実味が湧かない。

「人間の感情ってのは急に降って湧いて出てきて、急にフッと消えるもんじゃない、何処かに入口があって出口があるもんだ。差別、貧困、葛藤、人間は様々な悩みがあって、それを少しずつ小出しにして心のバランスを保っている。人によってはその悩みに流されない様に、ホームレスみたいな世捨て人になったり、逆に出口が完全に塞がって自家中毒になったりする。」

「でも私だって、さっき取引先のおっさんにお尻触られて逃げたり、彼氏が他の女といちゃついてて携帯に八つ当たりしたり、普通の人と変わらないわよ。むしろ大の言っている人達って私と同じ普通の人って事じゃないの?」

 大は背中を丸め、頭をくしゃくしゃと掻き毟りながら悩んでいる。どうやら言葉を選んでいるようだ。

「心のベクトルが違うんだよ。」

「ベクトル?」

「どっかの聖人君主みたいに顔をビンタされてもキレないおっさんもいれば、頭のネジの飛んだ発明家みたいに百回の失敗じゃなくて百回の間違えた方法を見つけたって奴もいる。心の安寧ってのは人それぞれなんだよ。」

 私は大が何を言っているのかいまいち理解出来ていなかった。要は私がガンジーやアインシュタインみたいな凄い人なのか?と。まずもってあり得ない話である。

「雛の場合はどんなベクトルで心を保っているのか分からないが、少なくとも他の人間よりも健全なのは間違いないな。」

「なんかそれって健全っていうよりも、鈍感って言われてる気がしてきたんだけど。微妙に素直に喜べないんですが。」

 私が難しい顔をしていると、大もつられるように微妙な顔をしている。どう伝えていいのか考えあぐねているようだ。

「まぁ細かいことはいいんだよ。要はこの誓約書は出口を塞いでしまうから、別の何処かに負荷がかかって予想外のところに出口を作ってしまうんだよ。彼氏が一生浮気しないように、と誓約書を履行させれば、他の女に手を出すことでストレス発散していたのが出来なくなり、仕方がなくDVに走る可能性とかな。」

「じゃあもうどうすれば良いのよー!人殺しも嫌だし呪うのも危ないし、私は結局なんの悩みも解決出来ないじゃないのよー!そうだ、これだけ本があるんだから、何か解決する方法とか探せないかな?」

「あっ!馬鹿!」

 大が舌打ちをして私を制しようとしたら、目の前に数十冊の本がドサっと置かれた。私はいきなりの事で何が何だか分からなくて驚いたが、それ以上にもっと驚いたのは、さっきまで寡黙に本を読んでいた本屋と呼ばれる女性が、私の隣に座って満遍の笑みで本を手に取って話しかけてきたのだ。

「本をお探し?さっきの話を聞いてると、悩み相談、ストレス発散、心理学、哲学、スピリチュアル、色んなジャンルがあるけど何が良いかしらね?私としては貴女みたいな元気のいい子は、身体を動かしてストレスを発散するヨガ、ピラティスなんかもいいかもしれないわね。スピリチュアルの本と一緒に合わせれば外側と内側から心を整えることが出来そうね。もしくは上司からの嫌がらせに関しては、自分じゃなくて相手に嫌がらせをする「実践!108の呪い!」なんて本もあるわよー。彼氏の浮気の問題ならSEXを上達させるハウトゥー本なんかで、相手の女性よりも彼氏の心を奪うっていう手もあるわ。心を奪うっていうなら相手の胃袋を掴めってよく言われるわよね、料理の本ならやっぱり家庭的な料理の本がいいかしら、和食全般を扱った本ならいくらでもあるわよ、もし良かったら手に取って見てみるといいわよ。」

 そういって本屋と呼ばれる人は、まくしたてるように本の話を私に浴びせかけた。私が目を白黒させていると、大がボソッと呟く。

「忠告し忘れてたが、本屋は本のことになると止まらないんだ。こいつの前で本の話はタブーだ。」

 大は本屋の饒舌さに苛々している様子で、しきりに舌打ちをしている。知らなかったとはいえ、この板挟みの状況を作り出してしまったのは私自身なので、私は無理矢理話を切り上げることにした。

「本屋さん!色々とアドバイスありがとうございます!取り敢えずは大に何とかして貰おうと思うので、今日のところは誓約書だけ貰って帰りますね!」

 私は口早にまくし立てると、本屋は気無しか残念そうに言葉少ない状態に戻り、定位置であろう椅子の上でまた本を読み始めた。本当にごめんなさい。

 私はこれ以上いたたまれない気持ちにならないように、大の首根っこを掴んで大の店へと戻った。

「本屋は普段は根暗な癖に、本の事になると見境なしだ、本当に苛々する。」

 店に戻った大はまだ同じことで愚痴をこぼしている。口数の差以外なら根暗さはいい勝負だなと私は思っていたが、おくびにも出さないでおく。

「さて、それをどうする。」

 そう言って、大は私が手に取ってきた数枚の誓約書を指差す。正直今のさっきでこの誓約書を使おうという気にはならない。しかしこのままでは私の精神は、いつ限界を来たすか分からない。そこで私は。

「この件は持ち帰り案件と言うことで……。」

 この時の大の溜息は、それはもう盛大なものだった。

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