赤いアネモネ

小高まあな

第1話

 わたしは今まで泣いたことがない。


 わたしの通う高校の生徒は黒い。

 セーラー服も学ランも、どちらも黒いデザインだからだ。

 その黒い人並みを早足で抜けて、教室へ滑り込む。

 三年二組、そこがわたしの教室。

 窓際の一番後ろ。その机の上から、長い脚が降りていた。

「でさぁー、昨日のシューくんのドラマ」

「見た見た、かっこよかったよねぇ!」

「今度のシューくんのイベント、行く?」

 短いスカート、必要以上に明るい髪の毛。薫る香水と、長く伸ばされた睫毛。クラスの中心的女子。

 わたしとは、住む世界がまったく違う女の子たちだ。

 その窓際の一番後ろはわたしの席だけれども、それに何か言ったりしない。言ったところで、意味なんてない。だから、言わない。

 彼女が座っているわたしの机。その後ろに鞄をそっと置くと、逃れるようにベランダに出た。

 教室の笑い声を背中にうけながら、ベランダからグラウンドを見下ろす。

 一年生の男の子達が、楽しそうにサッカーをしていた。

 まだ今日は始まったばかりなのに、ズボンがもう砂で汚れている。乾燥している校庭の砂は、彼らの動きにあわせて砂煙を巻き上げる。

「清っ!」

 名前を呼ばれ、パスを受けた子がシュートを放つ。

 ゴールが揺れた。

「っしゃー!」

 嬉しそうにガッツポーズ。

 わたしの口元も少し緩む。ほんの、少し。

 黒ぶち眼鏡をかけた、少し真面目そうな、彼。生徒会副会長として、生徒会選挙に出ていたから名前を知っている。

 佐野清澄くん。

「そろそろ教室戻ろうぜー」

「えー、もう?」

「知ってるか、堂本。今日の一限の英語は、小テストなんだ」

「え、そうだっけ!?」

 ああ、もう帰ってしまうのか。

 校舎に戻る足取りもはしゃいでいる彼らを見送る。

 また、昼休みになったら、見られるけれども。

 彼らは朝と昼、校庭で遊んでいる。それはサッカーだったりバスケだったりドッジボールだったり、人数もメンバーもその時によって違うけれども。

 ひとつだけ、毎日共通していることは、彼らがとてもとても楽しそうだ、ということ。きらきらと、眩しい。

 それをこうやってベランダから見るのが、わたしの学校での、唯一の楽しみだ。

 もしかしたら、わたしの唯一の楽しみなのかもしれない。

 彼らの中でも、彼を、佐野くんを見つめるのがわたしの楽しみなのだ。


 佐野くんは、三年のわたしのことなんて知らない。知るはずもない。

 ただ、わたしが一方的に、恋焦がれているだけだ。

 いや、恋とも言えない。

 恋なのかはわからない。

 自分の思いについて検討して、わたしが知っている単語であてはめてみたら、そうなるだけ。

 彼に対してどうこうしようというつもりは毛頭ない。

 ただ、こうやって見ていられればいい。



 わたしが彼のことを知ったのは、文化祭も体育祭も終わり、わたしたち三年生が表舞台からすっかり退いた、十月のこと。

 彼らは今日のようにサッカーをしていた。

 その時のわたしは、まだ今のように自発的にグラウンドを見ているわけではなかった。ただ暇で、居場所もなかったから、なんとなくそれを見ているだけだった。

 それでも彼らが楽しそうにスポーツに興じているのは、見ていて気分が悪くなるものでもなかった。寧ろ逆だった。

 でも、その日は違っていた。

 一つのボールの軌跡を追い、

「っ、あぶないっ!」

 思わず声が出てしまう。

 一人の子が蹴ったボールは、受け手の居ない方へとんでいった。花壇に吸い込まれるように。

 そこにはこの前、生徒会が植えたばかりのアネモネがある。

 毎年あの花壇にはアネモネが植えられる。

 わたしと同じ名前のその花を、わたしは三年間楽しみにしていた。来年の三月、最後のアネモネを見るのを心待ちにしている。

 そのアネモネが危ないと、思わずベランダから身を乗り出した。そんなわたしの目にうつったのは、

「セーフっ」

 走りより、咄嗟にボールを止めた彼、佐野くんの姿だった。

 ほぼスライディングのようにボールを止めた彼のズボンは、砂で真っ白になっていた。

 でも彼はそんな制服を気にすることはなく、強い口調で、でも明るく怒鳴ってみせる。

「あぶねーだろ! 折角の花壇なのに! 堂本のノーコン!」

「わりぃ! ほんとに!」

 もうお前罰としてなんか奢れ、そんな軽口を叩きながら、彼らはまたサッカーに興じる。

 わたしは乗り出していた身をひっこめると、知らずに止めていた息を吐いた。

 わたしの目は、ボールを追いかける佐野くんに釘付けになった。

 花壇にボールがぶつかるのを危ないと思う。それもアネモネを。

 わたしを。

 守ってくれた。

 そう思った。


 それからはもう、もうどうしようもなかった。

 あの日以来、わたしは彼を目で追うようになっていた。

 朝と昼に彼らが遊ぶのをベランダで見るのが、本当の意味での日課になった。

 たまに佐野くんがいないときは心のそこからがっかりした。その当時のわたしは、彼のクラスはもちろん、名前すら知らなかったのだ。

 わたしが彼を見る唯一のチャンスが校庭で、だったのだ。


 それからしばらくして、生徒会選挙の日。壇上にあがり演説する人物が、あの日の彼だということに気づき、心臓が跳ねた。

 マラソンを終えた後のように、心臓が脈打つ。ああ、こんなことってあるのか。

 佐野清澄。

 その名前を覚える。

 いつも遊んでいるのを見るときの笑っている顔はとても可愛かった。

 その日、壇上の彼は真面目な顔をしていて、それはそれは格好よかった。いつもとはまったく違う顔だった。

 彼の他の表情を、顔を、もっと知りたい、と思った。

 こんな気持ちになったのは初めてだった。



 これが恋とも呼べない、わたしの彼への思い。

 彼はわたしのことを知らない。

 知る由もない。

 それで、いいのだ。

 それしか、ないのだ。



「ただいま」

 小さく声をかけて、赤井と表札のついた玄関をくぐり抜ける。

 返事はない。それを今更期待することはない。

「ねー、おかーさーん!」

 妹のアヤメがぱたぱたとわたしの横を通り過ぎる。わたしには一瞥もくれない。

「なあに」

「あのねー、今度の日曜日にでかけたいんだけどー」

 アヤメは台所にいる母と楽しそうに話す。

 六歳下のアヤメが生まれてから、母は変わった。

 それまで鬱々と塞ぎ込むことが多い人だった。

 それが今では、自由気ままで、元気いっぱいのアヤメに振り回されながらも、楽しそうに生活している。笑うことも多くなった。

 だから、わたしはアヤメに感謝している。

 例え、アヤメが生まれたことでわたしに向けられる母の愛情がなくなったとしても。

 母の中からわたしが消えたとしても。

 寂しいと思わないわけではない。でもこれでいいのだ。

 母にはわたしは必要ないけれども、アヤメは必要なのだ。

 わたしには母は必要ないけれども、アヤメには必要なのだ。


 ベランダにでて、物干竿の下にしゃがみ込む。

 もう冬だ。さすがに寒い。

 それでも、ここにこうして座っているときが、一番落ち着く。

 家でも、学校でも、わたしが落ち着いていられるのは、ベランダだ。

 そして、それでいいと思っている。

 視線に並べて置かれているプランターに向ける。

 このプランターには、アヤメの花が植えられている。初夏に綺麗な紫色の花を咲かせる、アヤメの花が。

 多年草のアヤメは、今は休眠期だ。

 膝をかかえる。

 アヤメが生まれる前までは、このプランターには、アネモネの花が植えてあった。わたしの花が。

 アヤメが生まれてからは、それはアヤメの花にとってかわった。

 我が家のベランダから、アネモネの姿は消えた。母の意識からも。

 それでいい。

 それで、いいのだ。

 アネモネの花は、学校で見ればいい。何も家で見ることはない。

 そっと目を閉じる。

 校庭の花壇。例年植えられるアネモネ。

 今年のアネモネは、ただのアネモネではない。

 佐野くんが植えて、育てているものだ。

 もちろん、他の生徒会メンバーも世話をしているけれども。

 けれども、いつもベランダから校庭を見ているわたしにしてみれば、佐野くんが一番多く、あの花壇の世話をしていると思う。

 それはわたしの贔屓目かもしれないけれども。でも、わたしはそう信じている。

 時間を見つけて、肥料を与え、水を遣る佐野くんの姿を、わたしはずっと見ていた。

 ボールがあたったらしく、折れている茎を見て狼狽していた佐野くんを知っている。

 アネモネの花を、わたしの花を、大事に思っていてくれることを、わたしは、知っている。

 他の誰が、知らなくても。

 すこし、ストーカーじみている。

 自分に苦笑する。

 でも、いいじゃないか。

 そう、誰にともなく言い訳してみる。

 佐野くんはわたしのことを知らないのだ。だから、わたしが佐野くんのことを知るぐらい、それぐらい、許されてもいいじゃないか。

 わたしがこんなに望むなんてそんなこと、はじめてなのだから。



「ただいまー」

 階下で父の声がする。

 それに気づき、目を開けた。

 どうやら寝てしまっていたらしい。

 冷えた体をさすりながら、リビングに向かう。

「おかえりなさい」

 返事はなくとも、父に声をかけておきたかった。

「ねー、おとーさん」

 一人、遅れた夕食をとる父の前でアヤメが甘えた声を出す。

「いいでしょー、日曜日。友達と出かけても」

「でもなあ」

「ほらアヤメ。お父さんも駄目だって言ってるでしょう」

「だって、シューくんが来るんだよー! 歩いていける距離にシューくんが来るなんてレアだよ! 入場料もかからないイベントなんだよ!」

 どうやらアヤメは、近所のショッピングモールに今人気のアイドルグループのメンバーが来るという、そのイベントに行きたいようだった。

「アヤメ、何も今じゃなくてもいいじゃないか」

「今じゃなきゃだめなのー!」

 アヤメが頬を膨らませる。

「今のシューくんはね! 今しか見られないんだよ!」

 父が困りきった顔をする。

「アヤメ」

 それから窘めるように名前を呼び、

「もうすぐ入試じゃないか」

「シューくん見たらすぐ帰ってくるから!」

 だからお願いします、とアヤメは両手をあわせる。


 わたしの六歳下、小学六年生のアヤメは、中学受験を予定している。

 アヤメ自身はそれほど熱心ではないが、母の熱意に乗せられて勉強してきたことを知っている。母は、おだてることが得意な人だと思う。

 父個人は、アヤメの受験に対して特に何も思っていないようだった。反対も賛成もしていない。

 だから、出かけたいというアヤメの願いにも許可してあげてもいいかなという気持ちと、アヤメの背後で父を睨む母の姿と、せっかくここまで頑張って来たのだし折角だから合格して欲しいかなーもしかしたら合格出来るかもしれないしという親としての気持ちで揺れ動いているようだった。

 三人から離れたところでわたしはそれを冷静に分析する。

 頬を膨らませていたアヤメの目が、段々潤んできた。

 アヤメに甘い父の反応が鈍いことが原因だろう。父に反対されれば、より受験に熱心な母を陥落させることは難しくなる。父ならば頼めば許してくれる、とも思っていたのだろう。

「だめなの?」

 呟く声は震えている。

 それに些か父は焦ったようだ。

「いや、だめっていうか、なあ?」

 狼狽したようにアヤメの肩越しに母を見る。

 頼りない夫に呆れたように母は少し溜息をついてから、

「アヤメ、まだ第一志望の学校が残ってるでしょう?」

「でももう受かったところもあるからいいじゃん」

 そもそも中学なんて義務教育なのだから、わざわざ受験なんてしなくてもいいのに。

 そうは思うけれども、アヤメの勉強を見ている母が生き生きしていて、それに安堵していたこともまた事実だ。

 母の生き生きした姿を見ることは、わたしに安心感を与える。それさえ見られればいい、とさえ思う。

 アヤメが生まれるまで、ふさぎ込んでいた母を知っているから。

 わたしの高校受験の時なんて、母は見向きもしなかったのに。なんて、思ってしまう。そんなこと、言っても詮無いことなのに。

 たまにこうやってひがんでしまうわたしは愚かだ。

 意味のないことをするのは、とても、愚かだ。


 睨み合う母とアヤメに恐れをなしたかのように父が、

「あーなんだ、ほら、そのジョーくん?」

「シューくん!」

 アヤメがフグのように膨れる。こんな状況下でも、大好きなアイドルの名前を間違えられることは嫌らしい。

 父は困ったように頭を掻きながら、

「いや、だからそれは二時間とかなんだろう? だったらほら、早く帰って来て勉強すれば。たまに休みぐらいさ、あった方がアヤメも、がんばる気になるよなぁー。ここまでがんばってきたわけだしさ」

 どうだろう? とうかがうように二人を見る。

「わー! お父さんありがとう!!」

 アヤメはもうそれを了承と受け取ったようだ。嬉しそうにテーブルの上に身を乗り出して父に抱きつく。

 母は不満そうに、まだ何かを言おうとしていたが、

「お母さんも!」

 アヤメに抱きつかれて、諦めたように頷いた。

 結局母だって、アヤメには甘い。大事な可愛い娘だから。

 わたしはそれを離れたところから見ていた。

 三人は楽しそうに話を続けていく。

 泣いたり怒ったり笑ったり。アヤメの感情の起伏は、わたしには眩しい。

 わたしは今まで泣いたことがない。

 あんなふうに笑ったこともない。

 だから、わたしにはそれは眩しい。

 同じ姉妹なのに、わたしとアヤメは全然違う。

 見てきたわけではないけれども、アヤメはきっとベランダでグラウンドを眺めることを日課とはしていない。

 わたしの机に座っていた、クラスの中心的女子。きっと学校でのアヤメは、そんな感じなのだろう。

 あの子たちと同じような、明るい匂いがアヤメからはする。

 わたしとは、まったく違う。同じ両親のこどもなのに。

 でもそれは、仕方がないことだ。

 わたしはそれを、知っている。


 今日も学校は、ざわめきと笑い声でわたしを迎えた。

 それは三年間同じことだった。

 そして、そのざわめきと笑い声は、いつもわたしを、そこから追い出しにかかるものだった。

 ざわめきと笑い声がわたしを迎えてくれたことなど一度もないし、それにこれからもないのだろう。

 仕方がないことだ。

 いつものようにベランダに出る。

 一月も終わりに近づいている。もうすっかり寒いけれども、彼らは楽しそうに遊んでいる。それに安堵する。

 三年生。わたしはもうすぐ卒業する。

 だから彼を見るのもあと少し。できるだけ、目におさめておきたかった。

 佐野くんは、なにかいいことでもあったのだろうか? はしゃいで友達の肩を叩いていた。

 彼の口角はいつ見てもあがっていた。

 それをいいな、と思っていた。

 唇の両端に人差し指をあてる。それをくぃっと上に持ち上げてみる。

 これで笑えているだろうか。

 窓ガラスに僅かに移ったわたしの姿は、酷く滑稽で、慌ててその手を離した。

 無理なものは無理だ。わたしには無理だ。

 そう思った。

 泣いたことも、笑ったこともないわたしには。



 放課後、わたしはアネモネの花壇の前にいた。

 一週間に一度、この花の成長具合を見るのが楽しみだった。

 母は、わたしの出産予定日が三月と知り、その段階でわたしにアネモネという名前をつけることを決めていた。

 胎児のわたしにずっとアネモネ、と呼びかけるぐらいに。

 アネモネ。桃、青、白と沢山の色があるが、やはりわたしは赤いものが好きだ。

 赤井アネモネ。それはわたしの名前になる。

 赤いアネモネ。まるで血のような色。ギリシャ神話では、少年アドニスの血から、この花が生まれたと言われている。

 赤は生命の色だ。

 わたしに生命の色なんて似合わないが。

 アネモネの花が咲くのは三月頃。

 卒業式までには咲いてくれるといいな、と思う。最後に楽しみにしていた、この学校のアネモネが見たい。

 佐野くんが植えたアネモネが、佐野くんが世話をしていたアネモネが見たい。

 佐野くんが植えた、世話をしていたわたしの、花を。

 でもどうだろうか? 今年は例年より少し寒く、春に咲く花の開花はどれも遅れる見通しらしい。

 卒業式まで、あとどれぐらい残されているのだろうか。あとどれぐらい、佐野くんを見ることができるだろうか。

 三年生であるわたしたちは、他の学年よりも一足早く、もうすぐ学年末テストがはじまる。二月になれば家庭研修期間にはいってしまう。

 学校に来ることがなくなってしまう。

 佐野くんも見ることも減るだろう。寧ろ、見ることができない日々が続くことになるだろう。

 寂しいけれども、こればかりはどうしようもない。

 諦めよう。

 諦めることには、慣れている。



 だから、彼を廊下の向こうで見つけた時、ほんの偶然だったとしても嬉しかった。運命を感じた。

 この距離で、ベランダからではなく彼をみることは、なんだか気恥ずかしい。正面から佐野くんを見ることができない。

 ほんの少し上目遣いで、そっと佐野くんを見つめる。

 放課後だし、もう帰ろうとしていたところなのだろう。ダッフルコートを着込み、手には鞄を持っていた。

 茶色いそのダッフルコートは、とてもあたたかそうだな、と思った。触れてみたい、そのあたたかさに。

 ほんの少し下を向いていた佐野くんが、何かに気がついたかのように、ふっと顔をあげた。

 ぱちっと目が合う。目が合った。そんな気がした。

 彼はぱっと、花が咲くように笑う。

 眼鏡の奥の瞳が、優しく細められる。愛おしいものを見るように。

 その顔に、胸が高鳴る。

 思わず、その笑みに背中を押され駆け寄ろうと二、三歩足が動いたわたしを、

「ユリっ!」

 彼の心底嬉しそうな、愛おしそうな声と、わたしの横を駆け抜けて行く、ふわふわとした巻き毛が押しとどめた。

 ふわふわの巻き毛の持ち主は、抱きつくようにして佐野くんのところに駆け寄る。そうして佐野くんの手を握ると、嬉しそうに微笑んだ。


 柔らかそうな髪、二重でぱっちりとした瞳。カーディガンの袖から、ちょこんと指先がのぞいている。

 小さくて可愛い子だ。

 わたしとは違う。

 可憐に笑う、その顔。


 ……わたしは、何を期待しているのだろう。

 何を、期待していたのだろうか。

 黒い髪の毛と校則どおりのスカートをちょっとひっぱる。

 わたしと彼女は、全然違う。


「ごめんねー遅くなって」

「いいよ、帰ろう」

 二人は楽しそうに笑いながら、廊下で話している。彼女は佐野くんの指先を、ちょこんっと握っていた。

 彼女と話す佐野くんの声は、いつも聞いているものと違った。

 ベランダから見つめるグラウンドの声ではなかった。生徒会選挙の演説の声ともまた違った。

 どこか甘い、優しい、愛おしい声だった。何かとても淡い、綺麗なものに包まれたかのような声だ。

 彼女のことは知っていた。

 生徒会役員の一人だ。佐野くんと一緒にいるところもよく見かけていた。

 よく見かけてはいたけれども、カノジョではないと思っていた。

 カノジョではないと信じていた。

 でもやはり、カノジョだったのか。

 小さく唇を噛む。

 その動作に気づき、自分に苦笑する。

 何を悔しがっているのだ、わたしは。

 佐野くんにカノジョがいようがいまいが、関係ない。わたしがその位置につくことは、あり得ないのだから。カノジョがいなかったところで、わたしにお鉢が回ってくるわけではないのだから。

 だったら、彼が幸せな方がいいじゃないか。カノジョがいない方がいいというのは、わたしの傲慢さが招く言葉だ。

 そう、自分を叱咤する。

 こんな風に、笑っている佐野くんが見られるなんて、それだけでいいじゃないか。

 グラウンドでも見られないような、弾けるような笑顔が見られるだけで。

 仕方がないことを、諦めることには慣れているじゃないか。

 でも、何故だろうか。胸が痛い。どこかにぶつけたのだろうか。

 諦めることには慣れているはずなのに、悔しい悲しいと思っている自分がいる。

 そんな自分が怖くなる。

 これ以上、楽しそうな二人を見て、知らない自分を見つけるのに耐えられなくなって、わたしは二人の横をすり抜けて、教室へと急いだ。


 教室に戻ると、大きな笑い声がした。

 ああ、またあの人たちか。

 クラスの目立つ女の子たち。

 彼女たちの卒業後の進路は短大や、推薦で決まっていて、まだ受験が終わっていないクラスメイトとは違い、のんびりしたものだった。

 実際、一月も終わる今になっても、教室でおしゃべりしてから帰るのを忘れない。これから一般受験をするクラスメイトは、足早に帰ったり、図書室に残って勉強をしていたりするのに。

 のんびりと、いつまでも学校に残っていた点では、わたしも大差ないが。

 いずれにしても、どうしても苦手だ。

 会話をすることもないし、彼女たちはわたしを認識していないことはわかっているが、それでも。

 教室に入るのが躊躇われる。

 でも、いつまでもここにこうして立っているわけにもいかない。

 溜息をつきながら、ドアに手をかける。

「ってかさー、昨日のシューくんのドラマ。あれ、なくねー?」

 その言葉に、ドアを開ける手が止まる。

「えーそう?」

 そのシューくんがでるドラマは、アヤメも見ていた。毎週かかさず、母に頼み込んでそのドラマだけは見ていた。

 わたしはリビングの隅でそれを一緒に見ていた。

 だからよく、覚えている。

「ほらあの台詞」

 それはドラマの終盤、過去を隠してきた主人公がヒロインに自分の過去を告げ、思いを告げる感動的な場面とも言える。

 その台詞は、


「僕は生まれてから泣いたことがない」

「わたしは生まれてから泣いたことがない」


 彼女は少し、そのアイドルの声色を真似したようだった。

 ドアのこちら側で小さく呟いたわたしと声が、はもった。

 わたしは今まで泣いたことがない。

「だってあれ変じゃない? じゃあ、赤ん坊の時とかどうしてたんですかーっていう」

「うわっ、そこでマジレス?」

「感動的な場面だったのに」

「だって、そうじゃん。産声すらも? みたいな」

「雅ってば超空気読めてない」

 笑い声がする。

 わたしは。

 わたしは、ドアを開けられなかった。

 そっと手をおろす。


 わかっていた。

 わたしは生まれてから泣いたことがない。その意味が。

 そして、その表現が、わたしにとっては間違っていることを。

 わたしは――。


 がらり、といきなり目の前のドアが開いて、体が驚きで凍り付く。

 話は終わったらしい。

 中から出て来た彼女達は、立ち尽くすわたしを気にせず、わたしを、わたしの中を通り抜けて去って行った。

 ああ、わかっていた。

 最後尾を歩いていた少女へ手を伸ばす。その手はただ空を切った。

 距離としては届いていたはずなのに。

 わたしの手は、彼女の肩を、すり抜けた。

 わたしは自分の手を見つめる。


 わたしは生まれてから泣いたことがない。

 いや。

 わたしは今まで泣いたことがない。

 産声すらあげなかった。赤ん坊の時も泣くことなく、気づいたら成長していた。


 わたしの中にある一番古い記憶は、手術室の中だ。

 騒々しく何かを叫ぶ医師。ベッドの上で横たわる母に、必死で何かの処置をしている。

 わたしはそれを上から見ていた。

「先生、赤ちゃんは」

 目覚めた母が言う。

 わたしはここよ、ここにいるよ。

 その時すでにわたしは自我を持っていた。その意識で呼びかける。

 医師が首を横にふり、母は泣き崩れた。

 わたしは母の周りを飛び回り、母を慰めていた。でもわたしの言葉が母に届くことは、ついぞなかった。

 母は落ち込み落ち込み落ち込み続けた。

 わたしの花を、アネモネの花を愛で、我が子のように愛していた。

 その姿は少し鬼気迫るもので、そう、病んでいるといっても過言ではなかった。

 母が元気を取り戻したのは、それから六年後、アヤメが生まれてからだ。

 だからわたしはアヤメに感謝している。

 わたしの声は母に届かない。

 わたしは母を慰められない。

 わたしは母と生きていけない。

 それらはアヤメの仕事だ。アヤメにしかできないことだ。

 そう、わたしは今まで泣いたことがない。

 産声すらもあげることはなかった。

 わたしは、生まれなかった。


 わたしの最初の記憶から、わたしの記憶は間が空いている。

 気づいたらわたしは幼稚園に通い出していた。

 恐らく、幽霊のような存在であるわたしは、世界に留まり、成長していった。通常の子どもと同じスピードで。

 制服や持ち物は、意識するとどこからか現れた。誰にも世話をさせることはなかったけれども、怪我や病気をすることもなく、すくすくとわたしは成長していった。

 幽霊というのは便利なものだ。

 学校にわたしの居場所がないのも当たり前だ。だってわたしの戸籍はないし、わたしは勝手に学校に通っているのだ。

 わたしとしては、きちんと入学試験を受けて、合格発表で番号も確認しているのだけれども。


 わたしの存在について、わたしなりにずっと考えていた。

 幼いころは、どうしてわたしの声が母に届かないのか、どうして父はわたしを肩車してくれないのか、どうして先生はわたしの連絡ノートにだけシールを貼ってくれないのか、ただそれだけが疑問だった。

 わたしは彼らが見えているし、幼稚園のブランコでも滑り台でも触れて遊べた。ただ、人間だけには、触れなかった。


 パラレルワールド。映画でその言葉を知った時、納得した。

 きっとわたしは、きちんとわたしが生まれた世界と、生まれなかった世界の狭間にいるのだ。平行世界の狭間にいるのだ。

 本来交わるはずのないパラレルワールドは、わたしを起点として、わたし一点だけで交わっている。

 その証拠に、わたしが見る高校の名簿にはきちんとわたしの名前が載っている。それは、わたしがきちんと生まれた世界のものなのだろう。

 いずれにしても一つだけ、わたしにとって確かなことがある。それは、わたしはここに居ることだ。

 幽霊であろうとも。違う世界の人間であろうとも。

 わたしは生まれていない。だからきっとわたしは生きているとは言えない。

 それでもわたしは、ここにいる。

 わたしがいつまでここにいるのかはわからない。生まれて来なかった時に死ななかったから、きっと年を取って死ぬまでここにいるのだろう。生まれて来なかったから死ねず、死ねなかったからここにいる。

 大学は受験しなかった。意味を見出せなかったからだ。

 だから、来年度からはただのニートになる。

 それでもわたしは、来年度以降も存在して、年を取って行くのを待つのだろう。

 そういうものだ。

 わたしが世界に関わることはない。

 自分の意識では世界の一員として存在しながらも、外部からは存在しないものとして扱われ、そうして世界を外から観察する。

 それがわたしの役割だ。

 佐野くんが、わたしのことを知らないのも当たり前なのだ。

 わたしと佐野くんの世界は交わらない。

 永遠に。


 小さく息を吐く。

 当たり前のことを今更確認して、なんだというの?

 自嘲気味に笑う。

 わたしには、こういう笑みだけが似合う。

 家に帰ろうと、今度こそ教室のドアを開けて、窓際の自分の席に近づく。

 この自分の席も、余っている机をわたしが勝手にそう認識しているだけでも。

 ふっとなんとなくグラウンドの方を見ると、少しだけ人影が見えた。

 あの茶色いダッフルコートは。花壇にホースで水やりをしている、あの姿は。

「……佐野くん」

 思わず小さく呟く。

 わたしの目はずっと彼を捜していた。だからあっさり見つめてしまう。

 わたしは彼を見ているだけだ。

 彼に関わることはない。今までも、そしてこれからも。

 だって彼はわたしを知らないから。見えないから。

 それは当たり前のことで、今更どうこう思うことじゃない。

 でも。

 さっきの、ぱっと花が咲いたような佐野くんの笑顔を思い出す。できれば、あの顔を、わたしに向けて欲しかった。

 何かも諦めている。生きることも。存在していられればいいと。いや、存在していくことすらも実は諦めている。

 こんな生活終わりにして。はやく誰か終わりにして、と思うこともある。

 だけど。

 ベランダからいつも見ていた、楽しそうに笑う顔。ゴールに失敗して少し膨れる顔。目に焼き付けて来た色々な顔が浮かんでは消える。

 諦めていた。

 諦めることには慣れていた。

 ずっと、そうしていたから。

 でも。

 わたしは手にしていた鞄を放り出すと、教室から飛び出した。

 半ば転げ落ちるようにして階段を下る。

 何人かにはぶつかった。

 わたしは、わたしが誰にも触れないことを、はじめて少し感謝した。

 階段に腰掛けて座っている、少し不良じみた男子生徒も通り抜ける。


 諦めていた。

 彼にはわたしは見えない。

 それは当たり前のことだ。その当たり前のことをねじ曲げることなんてできない。

 だけどだけどだけど。

 上履きのまま、校舎の外へ飛び出す。

 水やりを終えたらしい佐野くんは、カノジョと二人、校門に向かって歩いてくるところだった。

「待って!」

 わたしは両手を広げて二人の前に飛び出す。

「佐野くん、待って! あの、わたし!」

 叫ぶ。

 彼が近づいてくる。ゆっくりと。でも確かに。

 彼はカノジョと楽しそうになにかを話していた。

「わたし、佐野くんのことが好きです!」

 当たり前だと思っていた。

 彼の目にわたしがうつることはないと思っていた。

 仕方がないことなのだと思っていた。

 だから、諦めていた。

 でも、わたしは、

「あなたのことは諦められなかった!」

 もう彼は鼻先まで近づいて来ている。

 止まる気配はない。

 わたしが彼の名前を呼んだのと

「佐野くんっ!」

 彼らがわたしを通り抜けて行ったのは同時だった。

 ああ、やはり。

「……好きです」

 小さく声が漏れる。

 両手で顔を覆う。

 やはり、物理法則は超えられない。

 わたしの声は届かない。

 姿は見えない。

 当たり前の、ことだけど。

 世界は、交わらない。


 顔を覆ったまま、思わずゆっくりしゃがみ込む。 

 わたしは何を、期待して……。

 どうしてわたしは、こんなに愚かで……。

「あれ?」

 佐野くんの声がした。

 気配は、背中の少し後ろで止まっていた。

「なに?」

「いや、なんか今」

 わたしはゆっくり振り返る。

 愚かなわたしは、佐野くんの言葉に、また少し期待している。

 佐野くんは不思議そうに頭を掻きながら、

「誰かに呼ばれた気がしたんだけどなー」

 首を傾げながら呟いた。

「誰もいないけど」

「だよなー? 佐野くん、って言われた気がしたんだよ」

 わたしは、その言葉をゆっくりと吟味する。

「……ああ」

 口を覆った手に、水が一滴付着する。

 わたしの声は、届いていた。

 視界が滲む。

 彼の背中が滲む。

 ぽたぽたと、水分が手に、頬につく。

 ああこれが、泣くということね?


 わたしは今まで泣いたことがなかった。

 人と接することがなかったから、感情が不要だったのだ。

 泣くということが、笑うということが、わからなかった。

 それは一人では体験できないことだった。

 でも、わたしは今泣いている。

 わたしは全てを諦めていた。

 諦めることにな慣れていると思っていた。

 だって、そうしたら傷つかないから。

 だからそうやって諦めるわたしは、強いのだと思っていた。思い込ませていた。

 でも、本当はわたし、

「何一つ。本当は何一つ、諦めたくなんて、なかったの……」

 母にはわたしのことを忘れて欲しくなかった。

 父には肩車をして欲しかった。

 アヤメにはお姉ちゃんって呼んで欲しかった。

 ベランダに植えられたアヤメの花。それを無くせとは言わない。ひっそりでいい。小さな植木鉢一つだけでいい。だからそこに、アネモネの花も植えて欲しかった。

 両親の愛が、欲しかった。

 スカートを折り曲げて、化粧をして、クラスメイトと楽しく笑いあいたかった。

 本当は全部欲しかった。

 なによりも、佐野くん。彼ときちんと、向かいあって見たかった。

 ぽたぽたと、止めなく涙が落ちる。

 まるで生まれてから今までの涙を全て、外に出すかのように。

 わたしは今まで泣いたことがなかった。

 でもわたしもただただ、泣きわめいてみたかったのだ。

 誰にも届かないのにそんなことをするのが空しくて、しなかっただけで。

 わたしは笑わなかった。

 教室のざわめきと笑い声は、わたしを排除していた。

 でも、わたしは意図的に、自ら排除されていた。

 交われないそれが空しくて。

 わたしは本当はずっと、世界が欲しかった。交わりたかった。

 熱意のないフリをして、誰よりも冷めたフリをして、物わかりのいいフリをして、傷つかないように諦めたフリをしていただけだ。

 わたしを拒絶する世界が、憎かったのだ。


 佐野くんはカノジョにせっつかれて早足でまた歩き出す。

 それにはっとする。

 行ってしまう。彼が。せっかく、世界が繋がったのに。

「待ってっ」

 泣き過ぎて、かすれた声がでる。

 お願いもう一度、届いて。

 自分がどうして諦めていたのかが、今わかった。

 欲してしまうからだ。今みたいに。

 一度、一つ手に入れると全部を。

 一つじゃないの、全てを下さい。

 わたしは愚かで強欲だから、

「佐野くんっ」

 わたしはあなたの全てが欲しい。

 あなたと同じ世界を生きていきたい。生きたい。生きたい。

 カノジョと別れてわたしと付き合って、なんて言わない。

 ただ、同じ学校に、同じ世界に、生きていたいだけだ。本当に、ただそれだけなのに。

 ただそれだけのことが、どうしてこんなに難しいの?

 右手を伸ばす。追いすがるように。

 もう一度届け。

 世界。

 それでも佐野くんはわたしに気づくことなんかなく、さっきのはまるで空耳だったのさ、とすたすたと歩いて行く。

 お願い世界よ、もう一度……。

「佐野くんっ!」

「あ」

 声が届いたわけではなかった。それでも絶妙のタイミングで佐野くんが立ち止まる。その視線の先には。校門の近くの花壇でとまった。

「花、咲いてるー」

「あ、本当だ」

「これ何?」

「これアネモネでしょう。清澄がさっき水あげてたのも、アネモネだって。ほんっと、あれだけ誰よりも世話してたんだから、名前ぐらい、覚えてあげなよー」

 今はまだ一月の終わりで、アネモネが咲く時期には早過ぎる。なにかの間違いで、はやく咲いてしまったのだろう。

 けれどもそこには、確かに、一輪の赤いアネモネが咲いているのが見えた。

 一人孤独に咲くアネモネは、まるでわたしのよう。他のアネモネの世界から隔離された、アネモネは。

 赤井アネモネ。

 赤いアネモネ。

 わたしの、花だ。


 彼はその赤い華を見て、笑った。

「へー、アネモネ。綺麗だね。あそこの花壇に咲くの楽しみだなー」

 覚えておこう。そう、当たり前のようになんの気負いも無くそういうと、カノジョと手を繋いで、校外に消えていった。


 わたしはただ、溢れ出る涙を抑えていた。

『へー、アネモネ。綺麗だね』

 彼の言葉が脳内を巡る。


 もう、手は伸ばさない。

 声は届いた。

 きっと気持ちも届いている。

 そう思えた。

 だって彼は、赤いアネモネを、わたしの花を、綺麗だと言ったのだから。

 今、この時期に、あの赤いアネモネが咲いていたのは、偶然なんかじゃない。

 あの赤いアネモネは、まごうことなく、わたし自身なのだから。

 世界は交わった。

 わたしはもう、満足だ。

 わたしはずっと、世界と交わった証が欲しかったのだ。


 ゆっくりと口角があがり、唇が弧を描くのがわかる。

 今までになく、ごく、自然に。

 ふふっと音が漏れる。

 これが笑うと、いうことね?


 ああ、佐野くん。

 わたしの存在がゆっくりと薄れて行く。

 それを感覚で感じると、微笑んだまま目を閉じる。


 佐野くん、あなたは、わたしにとって、世界そのものでした。

 わたしはアネモネ。春に咲く花。

 早春の風と共に咲く花。

 どうぞその名前を、覚えていてください。

 春がきて、アネモネが咲く度に、また綺麗だと言ってください。



 そうしてわたしは消え、


 あとには一輪、アネモネの花が残された。

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赤いアネモネ 小高まあな @kmaana

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