第53話 研究所所長・二階堂大地(1)

 アイスランドが世界で最初にウィルスを散布してから二カ月、北半球は秋を、南半球は春を迎えていた。

 この時すでに日本、フィリピン、インドネシアなどの東アジア諸国、エチオピア、ケニア、タンザニアなどのアフリカ諸国、それにニュージーランドとアメリカ西海岸は梨香の作ったウィルスを散布して成果を出していた。


 もちろんどこの国もすんなりと事が進んだわけではない。アメリカや日本がそうであったように、国内からの反発が相次ぎ、調整が難航したのはどこも同じだ。

 それだけ『未知のウィルス』というものへの根強い不信があったのは言うまでもないが、自分たちの身を守るには簡単に信用するわけにはいかないというのもわからないではない。

 いろいろな経緯と様々な問題を乗り越えた国から順にウィルスが撒かれたと考えていいだろう。


 そしてカビの被害が著しかった地域は人々の努力の甲斐あって、ほぼカビの抑え込みに成功した。これによって世界的に見たカビの増殖は終焉を迎え、WHOは今回のカビによるパンデミックの収束を宣言した。

 あとは自然の回復力に任せるしかないだろう。


 青カビだった。どこにでも存在し、普通に生きていれば人間には全く害を及ぼさない菌類だった。

 それがある時突然牙を剥いた。

 いや、実際は『ただ生きていた』だけ、『ただ子孫を残しただけ』だった。彼らは、自然の摂理に従って生きていただけだったのだ。

 言ってみれば、彼らは被害者だ。平和に生きているところにいきなり放射能を浴びせられ、遺伝子をひっくり返され、都合が悪いと言ってはウィルスに感染させられる。やりたい放題の勝手すぎる人間にさぞかし憤っているだろう。


 そして今、数日前から予告していた通り、二階堂研究所が記者会見を開いて、世界に向けて今回のカビの発生経緯と感染経路について解説している。

 こういう時、まったりした話し方の二階堂よりは、てきぱきと捌いて行く梨香の方が向いている。ウィルスを開発したのも梨香なのだ、彼女が説明した方が早いに決まっている。というわけで、彼は黙って隣に座っているだけである。


「私がこうしてウィルスの遺伝子を操作してこのカビだけに感染するように作り変えている間に、アイスランドのシーグルズル・ビョルンソン博士が感染経路を突き止めていてくれました。これを報告するにあたり、前以て皆さんに守っていただきたいことがあります」


 これはシーグルズルから「絶対に案内して欲しい」と言われていたことだ。今回、一体どれだけの人がインフォデミックに振り回されたことか。そしてどれだけの人がその不安をぶつける対象を『誰か』に求めたことか。


「感染経路があるということは、カビを運んだ人がいるということです。ですが、意図してやったわけではなく、誰がその役を引き受けていたかわからないのです。もしかすると今、この放送を見ているあなたがカビを運んでいたかもしれない。そんな人に対して、誹謗中傷などを浴びせることは許されません。あなたが誰かに声をかけるとき、その言葉が自分にかけられることを想像してから声や文字にしてください。それが約束できない方は、今すぐこの続きを見るのをやめてください」


 一呼吸置いた梨香が視線を送って来る。二階堂が促すように小さく頷くと、彼女はもう一度カメラの方へと向き直る。


「きっかけは発生場所と言われていたアイスランド・ブルーラグーンホットスプリングスに、青カビの突然変異の要因となることが何も見つからなかったことでした。我々は自分たちの立てた仮説がどうにもうまくつながって行かないとき、その仮説を前提からひっくり返すことがあります。今回も隣におります二階堂がそこに気づき、どこかからブルーラグーンに持ち込まれたのではないかというところに行きついたのです。アイスランドからケニアへとカビを持ち込んだと言われていた学生たちは、実はケニアからアイスランドへとカビを持ち込んでいた、そう考えつくまでに時間がかかり過ぎました」


 今頃、世界は騒然となっているだろう。この瞬間までアイスランドが発生場所で、そこからケニアに持ち込まれたというのが通説となっていたのだ、騒ぎになるのも仕方ない。


「これまでの報道でご存知と思いますが、ケニアの学生たちは地熱発電の研究チームのメンバーでした。副作用のない再生可能エネルギーを用いた発電の研究です。彼らの非常に身近な関係者の中に、原子力発電の専門家がいたのです。オーストラリア・ナチュラリステ原子力発電所のエンジニア、その道のプロです。その人が技術協力のためにアフリカに渡って来ていた。その際ナチュラリステで発生していたカビを持ち込んだと考えられるのです」


 今頃アイスランドではシーグルズルが気を揉んでいるだろう。これだけの情報があれば、アフリカ大陸にカビを持ち込んだのがイーサン・ホワイト氏であることなどあっという間に人々の知るところとなろう。シーグルズルは絶対にそれを望んではいないはずだ。


「そのエンジニアが誰であるか、調べるのは簡単です。その人も自分であることを公表しても構わないと仰っていました、それはすぐにわかることだから隠す意味がないと。ですが私はそれをしたくない。今これを見ているあなたがそれを調べたとして、その行動に一体何の意味がありますか。この一連の騒動の中で、一部の人が呟いた憶測がまことしやかに拡散されて、手に入るはずのものも入らなくなり、暴動が起こり、未来ある学生たちの絆を引き裂き、いくつもの家族が壊れました。それを知っていてもあなたはそれをするのでしょうか」


 二階堂は満足げに腕を組むと、静かに目を閉じた。

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